第1話 ニームにて
2026/06/27 03:46 公開
此度お手紙を差し上げましたのは、私が―ここで名前を出すわけにはいきませんので―さる貴人とニームにてお会いした際の話を、どうしても人にはせずにいられなかったからであります。さる貴人についてあまり詳しく申すことは赦されないことですから、私もあなたも、我らサンテネリ人はみな知っているお方だと、それだけご説明申し上げましょう。とりあえずこの貴人を、ここではG氏としましょう。この話は四月も下り始めたころ、私が静養のためにとニームにひと月の間ほど逗留していたころのことです。
私がニームに行ってはじめての満月の晩です。私は病気の為に、そのころ夜はどうしても寝つけないものでした。その晩もとうとう寝床から起きてしまいまして、幸いよい月が上っていたものでしたから、プラナタスの落とす影を踏みながら砂浜へと歩んだのです。留め置かれた釣り船が純白の砂浜に青々とした影を落としているほかには、浜には何の人影もありませんでした。静かによせる波は月明かりをたたえて打ち寄せてきていました。私はスキットルに詰めた林檎酒を口にしながら漁船のともに腰をおろして海をながめていました。夜もかなり更けた時間でした。
しばらく林檎酒を舌の上で転がした後、私が視線を砂浜に動かしましたとき、私は砂浜に私以外の人が一人、歩いているのを発見しました。
その見かけた人影こそが、G氏だったのです。しかし当然、その時はG氏という人を私は知りませんでした。その晩にはじめてお会いしたのだから、これは当然のことでした。
私は海を見ながら、視界の端でその人影を追っていました。その人影―G氏―は私と三、四十歩ほどもへだたっていたでしょうか、海を見るというのでもなく、全く私に背を向けて、砂浜を前へ後ろへ、と思うとじっと立ち止まり、物思いにふけっているかのようでした。それはまるで私が九世校にいたころに出会ったある生徒の姿にも通じるものがありました。あなたの愛弟子のことです。
はじめ私はその人が落とし物でも捜しているのではないかと思いました。その頭蓋は砂の上にむいているらしく、前に傾いていたのですから。しかしそれにしてはかがみこむこともしない、足で砂をさらうこともしない。満月でずいぶん明るいのですけれど、ランプを持ち出す様子でもない。
私は海を見ながら合間合間に手元のスキットルが空になるまで、といっても残りは半分程度でしたけれど、その人影を注視していました。奇異の念はますます募っていきました。そしてついには、その人影がこちらを一度も振り返ることなく、全く私に背を向けて歩いているのを幸いに、じっと見続け始めました。不思議な戦慄が私の背を通り抜けました。その人影にはなにかがとり憑いているような様子が、私に感じられたのです。
私は海に向かって口笛を吹き始めました。これは最初は、無意識なものでありましたが、次第にこの口笛がその人影に、なにか影響を及ぼすことができるのではないかという錯覚が芽生え、やがてその考えに支配されることとなりました。私ははじめ、ルネの「再演」を吹きました。
あなたはご存じでしょう、それはレンツの詩の為に作曲されたもので、私の好きな曲の一つなのです。それからやはりレンツの詩の「ヒンメルファルト」、これもまた私の好きな歌なのでした。
口笛を吹きながら近づいていくにつれ、私の確信は強まっていきました。やはり、落とし物を捜しているのだろうと。そう考えるほか、どうしてその人の奇異な動きを説明できましょうか。そして私は思いました。その人は急いで出てきてしまったから灯りを忘れてしまって、持っていないのだと。それは私が持っている。とにかくなにか非常に大切なものを落としてしまったのでしょう。
私はその人影の方へ歩み始めました。ざくざくと、音を立て口笛を吹いていたのにその人影に、私の発する雑音は効果が無いようでした。ふと気が付いたのです、その人影は、影を踏んでいる。何かを捜しているのならば、影を踏まないように歩くはずです。そこで確信は誤りだとわかりました。ではなにをしているのだろう、その奇異な動きは私により大きな不安感を植え付けました。
南中を通り過ぎやや西に過ぎつつあった月は、私の影を長く長く作っていました。私はその人影のところまであと十数歩のところまでやってきて、思い切って声をかけました。
「何かお捜しですか」
手元のオイルランプを大きく振りながら。
「このランプをお使いなさい」
私はそう声をかけるつもりだったのです。しかしもはやその人がものを捜しているのではないと分かった以上、これは単にきっかけに過ぎませんでした。
私の声に振り返ったその人は、月明かりがよく映える方でした。海に出る前にワインも呷ってきたのがいけなかったのでしょう、その服装にまで気が回らなかったのは後悔するところであり、運のよかったところでもありました。大きな大判布がまず目に入りました。そして端正に切りそろえられた金に輝く髪、きれいに月光の滑り落ちる鼻筋。一番目を引いたのは綺麗な、綺麗な翠の眼でした。
私の言葉に振り返ったその顔は、はじめ微かな驚きをたたえ、そしてなにかきまり悪げな貌に変わっていきました。
「いや、なんでもないですよ」
そしてどこか遠く後ろの方へ、手を軽く振りました。あとから気づいたのですが、一人ではなくそのずっと後ろに何名かのお付きがいたようです、私の周りを見ない悪弊が災いするところでした。
その人の声は非常に落ち着きのあるものでした。私が、手元に掲げる小さなオイルランプの灯りに照らされた大判布から目を離せないでいると、その人はさらに、ばつの悪そうな貌でいたのです。
「あぁ、気にしないでください。夜だ、私もあなたも、何も見えないくらいには暗く、誰かといられるくらいには明るい。それでいいじゃないか」
これがはじめて、そしておそらく最後のその人との会話になりました。私とその人は名乗りあいました。それから、私が腰かけていた船のともまで戻ってきました。
「ほんとうにいったい、何をなされていたんです」
私は好奇心から、そう問いかけました。そういう具合にぽつぽつと、G氏はそのことを解き明かしてくれました。といってもはじめは、なにか迷っている様子でしたけれど。
G氏は、影を見ていたと申しました。そしてそれはワインの如きものだと。それはあなたにとって突飛でありますように、私にとっても突飛でありました。
月明かりにきらめく海を見ながら、G氏はその不思議な謂れを話してくれました。
影ほど不思議なものはないと、G氏は言いました。君もその真中をじっと見つめればそこに生物の息を見ることができよう、他ならない自分の姿ではあるがね。その影は建物の中で見るのではつまらない、月明かりの下でこそ一番よいのだと。自分の感覚によるものだからなぜということはできないがね――というわけは、自分自身の経験によってそう信じるようになったものだから、これがあくまで私自身だけのものかもしれない。仮にこれが真であるとしてその証明は胡乱なものになりましょう、と。その人は、自らの感覚に依って話しているようで、あるいは何か聞き古した昔話を繰り返しているようでもありました。
G氏は、話をつづけながら、こちらを見るではなくただ砂の上に落ちた自分の影を、まるでそこにまだ見たことのないような生物を睥睨するかのように見つめていました。私はその横顔を盗み見ながら、ふいに胸の奥がしんと冷えるのを覚えました。月光が、彼の影の縁だけを妙に濃くしているのです。まるで影の方が、本人よりも強い意志を持っているように思われたのです。私はその黒い輪郭が、波の音に合わせてわずかに脈打っているのを見た気がしました。いや、それは私の病気のせいで、目の奥の血管が疼いただけなのかもしれません。しかしその瞬間、私はどうしようもなく、あの影が私たち二人の会話を聞き耳を立てているような錯覚に囚われたのです。
「あなたは先ほどルネの『ヒンメルファルト』、吹いておいでではなかったかな」
「はい、ご存じですか」
やはり聞こえてはいたのだ、反応していなかっただけなのだと、私は思いました。
「ええ、こちらにきてから好きになってね。海に反射する月を見ると、特にそう思う。」
G氏は饒舌に続けました。夜の黒々とした海は、まるでフロイスブル名産の赤のようであると。G氏の縁者にその地方の出のものがいるからよく嗜んでいるのだという話でした。
「ひとつ、話を聞いてほしい。ただ、海で出会った若者として」
そうしてG氏は滔々と語り始めました。
彼は、シュトロワに生まれ、そしてシュトロワから最も遠いところから来たと。最後までこの意図は測りかねるところです。これ以上はただ海で出会った若者と、私との間の話とすべきところなので詳しく書くことは避けましょう。とにかくG氏は、身の上を話してくれました。はじめて海で出会った、この老人に。若い学徒を導くあなたにもこの喜びはわかるでしょう。開襟してくれた、それだけで尊いのです。
G氏との会話でただ一つ、あなたにお話しできることはG氏と交わした、詩の話でしょうか。それくらいならG氏もお赦し下さるでしょう。
それは出会ってからおよそ半刻が過ぎた頃でしたか、G氏が語り始めたのは。彼は私の身の上話をじっと聞いていて、そしてゆっくりと語り始めました。
「影というのはね、やはり面白いものだ。あなたが最初声をかけたとき、私が影をワインだと申したでしょう。それの話をしたい。」
彼の話は、とても親しみやすくよく見知ったようなもので、そして新鮮なものでした。彼曰く、影はどこまでもついてくる、もっとも身近でもっとも寡黙な存在である。
ある詩人―たしかラフォーグ、とか申した詩人でしたか―が遺した「寝臺に一杯漲れよ、さるほどに小生も この浮世から手を洗うべく候。」という一節を語ってくれました。遠く遠く、サンテネリや帝国の先の国から届いた詩だと、彼は言います。しかしそれはもはやどうでもいいことでした。G氏のもっとも近しい、影ともいうべき人が死んだときに思い出したものだそうです。その人はワインを―たしかそのときも赤だったといいます―寝台で呷った後、吸い寄せられるように月へと向かい、そして三十一階もある尖塔の窓から落ちたと。厭に詳しい説明だったことは後から気づいた話です。
そうこうして、私とG氏はおよそ一刻ほど、話していたような気がします。時間が正確にわかったのはG氏が珍しい、腕に捲く形の時計をつけていたからなのですが。
G氏は話を終えた後、その翠の眼でまずは私の目をじっとみて、そして影に、月にと視線を動かしていきました。そしてそのまま言葉を発しました。
「ありがとう、若者の話を聞いてくれて。ぼくの友達の、よい供養になりました」
そういって、また最後に私の眼を見た後、ゆっくりと泰然と浜辺から去っていきました。その背を見送る私には、言葉にしきれぬ思いが蜷局を巻いていました。
そうして私とG氏との短い、はじめてにして最後の逢瀬は終わったのです。私が彼にお会いすることは二度とないでしょう。あるいはあなたならもしくは。
追伸
あなたの愛弟子の献辞奉納、見事であったと仄聞しました。あいにくご存じの通り私はその前に職を辞してしまっていましたから、陛下にお目通りかかることもありませんでした。それが幸いだったのかもわかりませんがね。ともかく、あなたの愛弟子の「悪について」でしたか、あの大胆さは非常に面白いものでした。ぜひともお会いしたいものです。
あぁもちろん、あなたもご自愛くださいね。またぜひワインを酌み交わしましょう。
そうですね、フロイスブルの赤。それがいっとういい。