タテガキ

2追憶/祝福 中

2026/06/27 01:59 公開

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 ――などと常識人ぶって考えていたはずだったのだが。
(結局、わざわざ週末に神保町まで来ちゃったしな……)
 書店のビルの前に立ち、遠い目になる。
 『地に落ちて死なば』がめでたく発売となった直後の土曜日である。
 いや、別に近場の書店でもECサイトでも電子書籍でも単行本は買えるんですけどね? 協賛書店限定の特典SSペーパーというものがですね、あってですね……。しかもこの書店、発売記念特設コーナー(挿絵複製原画展示あり)とかもあるんですよね……。オタク、我ながら心底度し難い。
 入り口横のガラス窓の中全面には、『地に落ちて死なば』の大型ポスターが掲示されている。協賛書店だけあって、張り切って売り出しているらしい。大学生と思しき数人のグループが楽しそうに写真を撮っているのを見ながら、まあいいや、と息を吐いた。
 どんな事情があっても本を買うのは楽しい。それが自分の好きな本なら、なおさら。
 ビルの中に入り、階段を上ってライト文芸の階を目指す。1階の新刊コーナーは後に回した。絶対何か買ってしまうので。荷物が重くなるのは確実なので。書痴の抗いがたい宿命なので。
 そうしてたどり着いた階には、目当ての本が平積みになっている――はずだった。しかし。
(…………??)
 なんだかフロア入口の人口密度が高い。奥が、見えない。
 混雑とまでは言えない、微妙な密度の人並のむこうを覗き込み、新刊が積まれているはずの平台を確認――しようとしたところで、人が滞留している理由が分かった。
 そこに美女がいる。
 何を言っているのかと思われるだろうが他に表現しようがない。
 新刊が山積みになった平台の、まさに私が買わんとしている『地に落ちて死なば』の真ん前に、長身の毅然とした美女が立っている。年の頃は私と同じくらいだろうか。中分けにした長めのボブ、いっそ冷ややかにさえ見える、はっとするほど整った顔立ち。ラフな印象のワイドパンツとタイトなトップスを着こなす姿があまりに絵になっていて、思わず周囲にカメラを探す。無いね。そりゃそうだよねライト文芸新刊コーナーの前だもんね。雑誌のグラビアでもドラマのロケでも、もうちょっと他の場所で撮影するよね。
 じゃあ、あの美女は一体ここで、何を。
 そしてあの気迫は何。
 極めて厳粛な表情で、ひたすら新刊台を見据える美女。なんかこう、美貌も相まって、ついに決戦に赴かんとする女騎士みたいな迫力と威厳に満ちている。場所はライト文芸売り場の平台前だけど。背後に挿絵の複製原画とか飾ってあるけど。あっ、あれ『地に落ち』の挿絵(著者・イラストレーターのサイン入り)では!? そして『地に落ち』特典SS同梱版もそこに!! 彼女の目前に!! 見ていい?? そして買っていいですか?? 
 その辺にわだかまっている人たちも、おおむね似たような目的を持ちつつも、美女の気迫に打たれてその場に立ちすくんでいるらしい。あなたからどうぞ、いいえそちらから、という無言のアイコンタクトが飛び交っている。
 ――仕方ない。行くか。俺が。
 無言で人波を分け、ずずいと一歩前へ出る。周囲の感嘆するようなまなざしに、静かにうなずいた。教育者として、それなりに年齢を重ねたオタクとして、ここは範を示すべきところであろう。そのまま新刊台へとゆっくり近づく。何かあったら骨は拾ってほしい。いや嘘です、適当なところで助けてくださいお願いします。
「失礼します――そちら、よろしいですか」
 新刊台の方へ手を伸ばしながら、美女に声をかける。
 はっと我に返ったようにこちらを振り向いた彼女が、意外なほど幼い仕草で頷いた。
「どうぞ! すみません、邪魔になっていて」
「いえ、ありがとうございます」
 美しい人は声まで美しいらしい。なんだー全然大丈夫じゃんー、いやー美女と話せて得しちゃった☆ などと浮かれつつ本に手を伸ばしつつ、気配のようなものを感じてふと振り向く。
 めっちゃ見てる。
 美女、こっち、ガン見してる。
 平積みされた『地に落ち』の単行本へ伸ばされた私の手を、息をつめて凝視している。
「……先に買われますか?」
「!? あ、いえ、大丈夫です、どうぞ!!」
 美女が慌てたようにぶんぶんと首を振る。
 えっこれ信じていいの、と救いを求めて周囲を見回すと、固唾をのんでこちらに注目していたらしい周囲の客が、一人残らずさっと目を逸らした。裏切られた。何故だ。オタクたちの熱い連帯を見せるなら今だろうが腰抜けどもめ。
 恐る恐る一冊手に取る。もう美女は視線を向けてはいないが、こちらに全神経を集中させていることがひしひしと伝わってくる。
 本を持ったまま、できるだけ何気ない足取りで、複製原画の前へ移動する。うん、見て帰るよ? それが目的だからね? 逃げないよ当然でしょ!?(ヤケクソ)
「あの……すみません」
「はい何でしょう!」
 どこかの居酒屋チェーンのような勢いで振り向く。若干食い気味になったのは許してほしい。何しろ背後から伝わる圧がすごかったので。
 こちらの反応の速さに一瞬たじろいだ彼女が、ぎゅっと両手を胸の前で握る。思いつめた風の表情はいっそ悲壮だ。さながら敵将に仲間の助命を嘆願する女騎士の風情だが、ここは書店で相手は残念なオタクである。一体あなたのような美女が、わたくし如きに対し何用か。
「突然話しかけてすみません。……その小説、お好きなんですか?」
「……はい?」
 予想外のボールが飛んできた。
 いや、本来だったら書店で訊かれるのに何も違和感はない内容なのだが。だが。
「え、えと、はい、そうですね……? もともとウェブ版を読んでい、」
「そうなんですか!!」
 想定を超える食いつきに仰け反る。
 私の動揺に気づいた美女が「すみません」と赤面する。ちょっとかわいい。というか大分かわいい。かわいいので無罪。
「いえ、大丈夫ですよ。……あなたもウェブ版から?」
「ええ……はい、」
 微妙に言い淀み、彼女が露骨に目をそらす。おや、と首をかしげた。返却期限をかなり過ぎた本を、家に忘れてきた生徒のような反応だ。
 じっと顔を見つめていると、「実は」と声を潜めて続けた。
「私――この本の、作者と知り合いなんです」
 言葉の意味を理解するのに一呼吸ほどの時間を要した。
 理解した瞬間、頭の中が真っ白になる。
 それでは――作者を知っているならば。
 それならば。
 何も言えずに瞬きを繰り返す私に、彼女は下を向いてぽそぽそと続けた。
「あんなに楽しみにしていたのに、いざ発売したら、寝つきが悪くなるくらい売れ行きを心配してて――それで私が、書店で実際の売れ行きを確認してくる、ついでに本を買ったファンの方にお話を伺ってくるって約束したんです。近所の書店だとあんまりたくさん入荷していなかったので、今日はこのお店まで」
 まったく兄さんったら、と零す声はどこか甘く、作者との親しさを伺わせる。眩暈をこらえながら、ぎくしゃくと私は頷いた。
「そう――だったんですね」
 擦れそうになる声を、何とか絞り出して続ける。
「あの、不躾ながら、私もお伺いしてよろしいでしょうか。……『リチャードと羊』という小説をご存じではありませんか」
「…………え?」
 目を見開いた彼女に必死に言い募る。
「昔から好きな……とても大事な作品なんです。続編が出ずじまいで――『地に落ちて死なば』と同じ名前の作者が書かれているんです。もともとこの小説を読み始めたのもそれがきっかけで……同じ作者が書かれたものなのか、ずっと気になっていて、それで」
「――す」
 彼女のか細い応えに言葉を切り、顔を見つめる。
 見開かれた大きな目に、涙の膜が張っている。
 ゆっくりと彼女が頷くと、耐え切れず、はたはたと雫が落ちた。
「知って、います……同じ、人が、書いたもので」
「では」
 私の声に、がくがくと重ねて頷く。耐えかねたように、彼女は顔を覆った。
 そのまま、子どものように声を放って泣き出した彼女を、私は茫然と見つめていた。