タテガキ

1追憶/祝福 上

2026/06/27 01:59 公開

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 その通知に目を止めたことに深い理由はなかった。
 夕食後、就寝するまでの短い隙間時間。毎日の習慣になっている、特に目的もないSNSの確認中だった。職業柄、多数の作家や出版社のアカウントをフォローしていることもあり、「おすすめ」欄には常に無数の新刊案内が表示されている。
 ほとんど作業的にそれらをスクロールしていく途中、何気なく指を止めた瞬間、それに気づいた。
 ――ガリアール・パブリッシング刊、『地に落ちて死なば』。
「これ……」
 ほとんど無意識に、スマホの画面上の作者名を指が辿る。
「……『リチャードと羊』の作者……??」


 「夫の大学の後輩が書いた本なのよ」と司書の先生は苦笑いしていた。
 高校生だった私からするとずいぶん大人に見えていたが、今の私と同じくらい――20代後半あたりの年頃だったのではないだろうか。授業の合間や放課後に、私を含む図書委員たちが図書準備室に潜り込んで時間をつぶすことを黙認し、趣味に合いそうな本を押しつけがましくなく薦めてくれた人だった。
 両親の離婚に向けての話し合いが進んでいる時期で、どうにも家にいることがしんどく、かと言って友人たちと過ごすことも難しかったそのころの私にとって、彼女のおおらかさは大変な救いだった。
「ずいぶん観念的な内容でしょう。あまり私には合わなくて。結局こうして学校に寄贈してしまったし……あなたが熱心に読んでくれてありがたいわ」
「私も、あんまりよく分からないです。……でも羊がかわいい」
「それはほんとね!」
 そう答えた先生の笑顔を、まだ昨日のことのように覚えている。
 立ち上がり、部屋の書棚の一番上の段から『リチャードと羊』を引き出す。
高校卒業後、家を出て一人暮らしになって、真っ先に買った本がこれだった。ぐらぐらで、何も頼るものがない世界で、せめて懐かしいこの本を持っていたかった。
 ベッドに腰を下ろし、幾分古びてしまった表紙を撫でる。
 ずっとこの作者の新作が出るのを待っていたけれど、ついぞ出版されることは無かった。もう忘れていた――諦めていた。
 そう思っていたのに。


「先生、この本うちの図書室に入れるの?」
 蔵書の修繕を手伝ってくれていた、2年生女子の声に顔を上げる。自分の当番以外でも、何かと図書委員の仕事を手伝ってくれる彼女は、テーブルの上に置いてあった『地に落ちて死なば』の書誌情報――出版社公式サイトの特集ページをプリントアウトしたもの――を取り上げて眺めているところだった。
「そういうわけじゃないんだけどね、ちょっと気になることがあって。自分で買おうかと思ってるんだけど。入れたら読む人いるかな?」
「うーん……。もしかしたら、止めといた方がいいかも」
 少し困ったように言う彼女に、来月の図書だよりを作成する手を止める。
「え、何か評判悪い?」
「えーと、なんて言うか……。『この人を見よ』ってあるじゃないですか。今度アニメ化するやつ」
「図書室にも入れてほしいってよく言われるやつね。ちょっと予算その他が厳しいから無理だけど」
 そもそも年配の教員は、この種のライト文芸にあまり好意的でない人が多い。『この人を見よ』ぐらい人気のある作品であっても、うちの学校では入れるのは難しいだろう。
「それでこの作品、ちょっと前にSNSで軽く炎上したことがあって。……『この人を見よ』のパクリじゃないかって」
「……パクリ?」
 予想外の単語に一瞬、呼吸を止める。
「いや、全然パクリじゃないっすよ、それ。ウェブ版読みましたけど」
 振り向くと、今日の貸し出し当番の3年男子が図書準備室に入ってきたところだった。
「あ、先輩、これ読んだんだ。面白い?」
「面白い。『この人』より俺は好き。内容全然違うよ。……主人公とかヒロインとか、多少設定が似てないこともないですけど、そもそも『ノベライ』に投稿されてる小説でそれ言い出したらキリないじゃないですか。読む側も分かった上で楽しんでるし。ただ、」
 眉間に皺を寄せて一瞬言葉を切る。穏やかで人当たりの良い彼の、そういう表情は珍しい。
「『この人』の作者のユリス先生が、この作品にSNSで長文感想投げてるんすよ。割と厳しめの語調で……それで一部の読者が暴走して」
「ユリス先生推してる人って、思い込み激しい人が結構いるから……。ほら、1年の図書委員の」
 2年の彼女が眉を下げて、ある生徒の名前を挙げる。
「ウェブ掲載初期からの『この人』の読者らしくて。『地に落ち』が話題になったときも、周囲にめちゃくちゃ文句言ってて、図書委員のあいだでも面倒くさがられてたから」
「ああ……、それはたしかに、図書室に入れるのは止めたほうがよさそう」
 思わず苦笑いする。この種の争いごとは、根が深くて沈静化も難しい。自分がオタクなのでよく知っている。回避できるなら最初から避けるに越したことはない。
「あれ? じゃあ先生、ウェブ版読んでたわけじゃないんだ? どうして買おうと思ったの?」
「……うん、ちょっとね」
 ごまかすように軽く笑う。
「もしかして昔好きだった作家さんの作品かもしれないと思ったから」


 正直なところ、「地に落ちて死なば」の作者が、本当に「リチャードと羊」の作者と同一人物なのかどうかは分からない。
 ウェブ版の「地に落ち」はすでに何度か通しで読んでいるが、それだけでは確信が得られなかった。端正で乾いた文体はよく似ている気がしたが、何しろ作品の傾向が違いすぎる。
 何かのヒントになればと思い、図書委員の3年男子が教えてくれた、ユリス先生の長文感想にも目を通してみた。有志が作成したまとめに掲載されたそれを開いた瞬間、目に飛び込んできた怒濤の投稿30連打に仰け反る。「醜悪」とまで言い切る激しい調子、たしかにこれは波紋を呼ぶだろう。
 ……しかし、案に相違して、『地に落ち』がパクリであると断定するような内容ではない。むしろ自作とは似ても似つかないと言い切っており、極めて分かりづらい擁護と取れないこともない。と、いうか。
(むしろこれ、『オタク特有の気持ち悪い超早口の推し語り』の類いなのでは……)
 スン顔になっていることを自覚しながら、タブレットを眺めつつそう考える。いや、だって、絶対この人めちゃくちゃ『地に落ち』好きだよ……。内容がどうとか言う以前にレスポンスの量がおかしい。
 まとめには一番最初の30連投に続けて、『地に落ち』更新の度に投稿される、ユリス先生の大量の感想が併せて掲載されている。いやいやいや多い多い量が多い。プロ作家がアマチュアのウェブ小説に対して投げていい量の感想ではない。
 というかこれ、単に「感想」で済ませてよい代物なのだろうか。文章構成やアントワン3世の心情についての考察が精密すぎて、もはや論文の域だ。正直熱量が過剰すぎて怖い。
 ……うん、それを言ったらそもそも、初手の30連投の段階から超怖かったけどね? あなたたち赤の他人ですよね? 関係者じゃないよね? なのにいきなりこの量? マジで???
 最近の投稿に至っては『王には心を許せる平民の友が必要!』等の謎の主張を始めており、作品の中に見えない物を見ようとしてキーボードを叩き始める別種の傾向のオタクの匂いまで感じる。大丈夫ですかユリス先生、匿名で『地に落ち』二次創作とか始めてないですか。アントワン3世夢小説とか支部に載せてませんか。ユリス先生の担当編集者はさぞ胃が痛かろう。
 結構な量のまとめを微妙な半笑いのまま読み終え、タブレットの電源を落として息を吐く。
 ――結局、私はどうしたいのだろう。
 多いとは言えない社会人の平日の自由時間をほとんど突っ込んで、連日ネット上の情報を漁ったところで、二つの作品の作者が同一人物かどうかなど分かるわけもない。まして、同一人物だったら――あるいはそうでなかったら――だから何だと言うのだろう。
 そもそものきっかけを除いても、『地に落ちて死なば』は面白い小説だった。
 自分の好みに合った良い作品に出会えたことを感謝して、それでおしまいにすればいい。頭の半分ではそう思っているのに、なぜそうできないのか。
自分もあまりユリス先生を笑えた立場ではないなと自嘲し、酷使された目を労るように瞼を閉じた。