第3話 追憶/祝福 下
2026/06/27 01:59 公開
「――すみません、取り乱して」
鼻の頭を赤くして目元を拭う彼女に、安心させるように笑んでみせる。
「落ち着かれましたか」
「はい」
照れくさそうに頷く。カフェラテのカップを両手で包む仕草がなんだかかわいらしい。
一度本を売り場に戻し、書店近くのチェーンのコーヒーショップに場所を移した後のことだった。モーニングの時間帯は過ぎ、昼にはまだ間がある半端な時間のおかげで、土曜日にしては店内は空いている。
何しろ場所が神保町なので、有名なカフェや喫茶店は星の数ほどもあるが、利用しやすさと面倒のなさを優先した結果の選択だった。これほどの美女が雰囲気の良いお店でさめざめ泣いてると、他のお客さんが気もそぞろでお茶どころじゃなくなっちゃうからね……。ドラマの収録と勘違いされちゃうからね、仕方ないね。
下川茉莉さん、と彼女は名乗った。
「仕事用で恐縮なのですが」と渡してくれた名刺には、私でも知っている財閥系デベロッパーの名前がある。私も慌てて自分の名刺――研修や業者との連絡用にPCで作成した自作のもの――を渡した。
「学校司書――高校の図書室の先生なんですね」
名刺を確認した下川さんの言葉に頷く。
「実は、私に最初に『リチャードと羊』を紹介してくれたのは、自分の高校時代の司書の先生だったんです。そういう意味でも、あの作品は私にとって特別なんですよ。目指す道を示してくれたわけですから」
「――あの。伺っても、いいでしょうか」
改まった調子に思わず背筋を伸ばす。
書店に――あの本の近くに立っていたときと同じ、思いつめた光を宿した目で、彼女はこちらを見ていた。
「『地に落ちて死なば』は、さっきもお話ししたとおり、兄さ――私の親しい人が書いたものなんです。……そして、『リチャードと羊』も」
「やはり、同じ方が書かれたものだったんですね」
念押しする私に、こくりと下川さんが頷く。どこか寂しそうな表情で言葉を続けた。
「――残念ながら今回出版された作品と違って、『リチャードと羊』はあまり多くの人に読まれることがありませんでした。私は作者と親しいので読んでいますが――
だから却って、本当の意味で作品の良さが分かったとは言えないと思います。羊は、かわいかったけれど」
「それはほんとですね!」
力強く同意すると、一瞬目を見開いた後、ほっとしたように控えめに笑む。
「……だから伺いたいんです。まっさらの状態であの本と出合ったあなたが、あの本のどんなところを愛してくださったのか」
(私も、あんまりよく分からないです。……でも羊がかわいい)
あの頃の自分の声が脳裏に蘇り、一瞬呼吸を止めた。
どうしようか、と思う。
職業柄、読んだ本について語ることには慣れている。
相手が受け取りやすい言葉で、抱えやすい量で、自分の中の熱量の一部を誤解なく手渡す方法については修練を重ねている。剥き出しの何かを押し付けることだけが誠実さではない。だが。
彼女の目を見て、その瞬間私は覚悟を決めた。
「――個人的な話になります。あまり愉快でない話ですが、よろしいですか」
「はい。――話すのが、お辛いお話でしたら、」
「いいえ、まったく。身内の恥を晒すことになるので、お聞かせするのが心苦しくはありますが」
苦笑する。本当に、思い返せば、我がことながらろくでもない。
目の前に置いたコーヒーカップを取り上げる。既にぬるくなりつつあるが、指先を温めるだけの熱はかろうじて残っていた。
「私の両親は、伴侶や自分の子どもに――というか、そもそも他者に関心を持つことが難しい人たちでした。なら最初から、家庭を持つべきではなかったと思うんですが」
幼少期から、世話をしてくれたり気遣ってくれるのは同居していた父方の祖父母ばかりで、父母の顔を見ること自体が珍しかった。多分仕事が忙しかったのだろうと思う。就いている職業の世界では評価の高い人たちだから。
「いないのが当然だったので、淋しいと思ったことはありませんし、不足を感じたこともありません。幸い、ほかの大人が気にかけてくれたので、困ることや苦しいことはなかったし、金銭的な苦労をすることもなかった。だから離婚すると聞いても、大した感慨も湧きませんでした。……ですが、」
息が詰まるような感覚をごまかしたくて、冷めたブレンドコーヒーを含んだ。すでに香りは飛んでしまっていて、金属的な苦みだけが喉の奥に抜ける。
「自分の存在を否定されたことだけは――全身から力が抜けるような無力感がありました」
私が高校2年になってすぐだった。なぜその時になって離婚しようと――とっくに破綻していた家族関係を、手続きの上でも清算しようとしたのかは未だに知らない。わかるのは、せめて娘が高校を卒業するまで待て、振り回される子どものことを考えろ、と至極もっともなことを親族に言われた両親が、一切聞く耳を持たなかったことだけだ。
――一体、いつまで子どものために我慢すればいいんですか。
――そもそも、子どもが欲しかったのは我々じゃない。
そう言ったときの両親の顔はすでに忘却の彼方だ。ろくに親らしい振舞いもせずによく言えたな、という呆れと諦念は、こんなに鮮やかに蘇るのに。
最初からいないも同然だった両親は、名実ともに私の前から消えることで、初めて私にはっきり存在を刻んだ。後には傷だけが残った。――自分が両親のために傷ついているということそのものが、子どもだった私にとっては耐え難い屈辱だった。
「そういう状態のとき、学校の図書室で出会ったのが『リチャードと羊』でした。……多分、私は、リチャードが羨ましかった。望んだ場所へ自分の力で行けることが。どこに行こうと自分についてきてくれる、かわいい羊がいることが」
傷つけられたとき、自分の中にあると信じていたものは、まとめてどこかに飛んで行ってしまった。からっぽで、すかすかで、欲しいものも会いたい人も行きたい場所もない。これからどうしたらいいのか、そもそもここにいていいのかもわからない。そういう弱い自分を、どうやっても肯定してやれない。
そんな状態でもあの本を読むときは――彼らの巡る不思議な世界や、羊の愛らしい様子に思いを巡らす間だけは、かろうじてまっすぐ立っていられる気がしていた。眠れない夜にしがみつくぬいぐるみのような、常夜灯のような――導き手のような、そんな物語。
「すみません、やっぱり私もちゃんとあの作品を読めてはいませんね。消化できない自分の経験や感情を、彼らに一方的に擦って楽になろうとしただけかもしれない」
「――いいえ。いいえ、きっと兄さんは、喜びます」
小さな声で答えた下川さんが、小さく首を振る。
「卒業されたあと、『リチャードと羊』は――?」
「自分でも買いました。家を出るときに。――今でも、部屋の書棚の一番いい場所に置いてありますよ」
私の答えに、彼女はぎゅっと目をつぶる。震える息を吐いて、顔を上げ、まっすぐに私の目を見て微笑んだ。
「――ありがとうございます。あの人の子どもを愛してくれて」
「私も、ありがとうございます。あの羊が大好きだった子どもの話を聞いてくれて」
ふっと何かがほどけたような笑みが、自分の顔にも広がるのが分かった。
コーヒーの残りをぐっと飲みほしてカップを置く。何かもっと別のものが飲みたい。今度は冷めてしまわないうちに。
「……下川さん、今からもう一度書店に行って、『地に落ちて死なば』を買いませんか」
戸惑ったように瞬きする彼女に、意図してはっきり笑って見せる。
「それで、どこか別のお店でお茶を飲みながら、今度はあの本の話をしましょう。『地に落ちて死なば』の、好きなところの話を」
「はい。――はい、ぜひ!」
彼女の声が弾む。思いついた勢いのまま、二人で席を立った。
食器を片付け、ドアを開けて店外に出ると、すっかり日が高い。横断歩道の向こう、書店1階の『地に落ちて死なば』のポスターの前、写真を撮っている人たちがいるのを見つけて、顔を見合わせて二人で笑った。
楽しいな、と思う。私は今、楽しい。
好きな本を買いに来て、同じ本を好きな人と出会って、その人と一緒に笑えて、楽しい。
――どこにも行けなかった子どもは、それでも本を読み続けて、あの頃愛した本の兄弟と出会った。
私の後をついてきてくれる、ふわふわのかわいらしい羊はいない。けれど代わりに、私は自分で新しい物語を探すことができるようになった。そうしてその途上で出会った人と、自分の愛するものについて語り合うこともできる。
それはきっと、そう悪くない物語だと、今の私は思うのだ。
信号が青に変わる。笑顔のまま、私たちは最初の一歩を踏み出した。