第1章 子の物語
第2話 ボリシェール 二
2026/06/29 00:54 公開
行くべきところは既にない。
ゆえに、かつて母の家であった集合住居を後にした彼は、当て所なく歩いた。かつてシビリの荒れ野を歩いたように。
思考もまた、とどまることを知らない。幾重にも反芻される記憶。幾筋もの荒れ狂う意識の矢。薄汚い、漆黒の蓬髪に包まれた青年の頭蓋は、その外観に比して大荒れの大海に等しい。
全ては十三年前、青年の父ボリス・イリイチの死に始まる。
ノーレムリア西部、西方諸国への窓たるレフ王国に近い領地を有する貴族ブラーギフ家の当主として、ボリスは中央官庁たる内務官房の長を経て帝国中核四州の総督となった。
その開明的な思想は時の皇帝ニコルス五世の野望——立ち後れた〝蛮地〟ノーレムリアを西方諸国、ことに文明の灯の地たる大国サンテネリ共和国に肩を並べる近代国家へと改造せんとする——に沿うものであった。
五百年以上変わらぬ貴族たちの強固な特権を廃し、権力を首都ニコビルグに集中させ、貴族を国家の官僚として奉仕させる。その上で、個々の貴族領に生きる「領民」たちを帝国の「臣民」と為す。皇帝の足下において、貴族も自由民も皆等しく臣民となる。ニコルス五世が君臨する十九期中葉以降、既に国家は貴種の「持ち物」であることを止めていた。
中央大陸の歴史において、その端緒は十八期、大陸の西端サンテネリ共和国で起こった一連の動乱である大改革に見られる。分厚い美談に彩られ、今では伝説と化した大改革は、サンテネリという国家を王のものから国民のものへと変えた。それはつまり、国家が領域内に持つ最も重要な資源である「人」を、余すところなく有効に活用する術を得たことを意味する。
サンテネリの政変をきっかけに、西方諸国の多くは先行者の模倣を望んだ。正確には望まざるをえなかった。人は根源的に、同等の自由を持つ。中央大陸を長く支配した正教の世界観——人は生まれつき体内に魔力を備えており、その多寡が集団における個人の位置を定める——は知識人の間では大改革以前から丁重に、ひそやかに無視されていたが、大改革を経た西方諸国の人々は、明確に、もはや公然と無視するようになった。
この巨大な変化の大波が大陸東の果てノーレムリア帝国に達するまでにはかなりの時間を要した。さらに、達してなお、堅固な封建的防波堤に行く手を阻まれ帝国の土を濡らすこと叶わなかった。ノーレムリア——かつてレムル半島に栄華を誇った大帝国の裔であるという、ある種滑稽な自称——において防波堤とは単純なものである。
隷農制。
西方への穀物輸出が歳入の大半を占める〝蛮地〟ノーレムリアにとって、農村の安定こそが国家の安定である。先人たちは決して愚かではなかった。ともすると都市へと、あるいは他国へと移動しようと試みる労働力を、ノーレムリアの過酷な大地に根付かせる必要があったのだ。かつて自由を謳歌した農民たちは執拗に、丁寧に、全ての権利を剥ぎ取られた。移動の自由、婚姻の自由、出産の自由を。
最終的に、彼らは貴族たちの領地に生えた樹木のごとき存在と化した。人は物と化した。そしてやがては、金銭で売り買いされるようにまでなった。貴族たちにとって隷農とは一つの工具であった。
それはある時点において国家経営の最適解として機能した。最大の直轄領を保持する帝室と、その権威の元で充足する貴族たち。そして隷農。彼ら、否、それらを豊富に所有することは、単純な労働力がものを言う時代にあっては他国に対する明白な優位であったと言える。同時期、痩せ細り行く西方諸国の同胞たちを尻目に、ノーレムリアの貴族はこの世の春を謳歌した。
しかし、北限の寒冷地たるノーレムリアの地において春は短い。単純でない、高度な労働力が求められる時代が訪れたとき、蛮地の優位は脆くも崩れ去った。ノーレムリア貴族の元には数えきれぬほどの隷農が存在する。だが、当然のことながら、それらは単純な計算もできない。文字の読み書きも不可能だ。ましてや、〝自らが属する母なる国家〟のために銃をとることなど夢想さえしない。なぜなら、物である彼ら——それらには「母」など存在しないのだから。
ニコルス五世が改革を望んだ帝国とは、まさにこのようなものである。そして、隷農制の最大の受益者たる貴族たちの中にも皇帝を支持する者たちが数多く存在した。彼らは愚かではない。かつて先祖が隷農制を合理的なものと考えたのと同じ理性が、十九期中葉においては改革を支持した。
ボリス・イリイチには二人の息子がいた。長男のアレクス。そして次男のマクシム。二人の母イレナは隣国レフ王国を出自とするオーリフ子爵家の末娘である。
その華麗な経歴から、一家はおよそ帝国中の全ての町のしかるべき地位を占める人々から温かい敬意を捧げられていた。公人としてのボリスは明白な改革派の貴族であり、皇帝の忠実な、そして最も重要なことだが、有能な官吏であった。
だが、家庭の中の彼は少々風変わりな存在として認識されていた。
息子たちの教育に際して彼は寓話を用いた。この中央大陸には決して存在しない架空の国々を例にとり、政治と経済の重要な知識を伝えたのである。その描写はあまりにも荒唐無稽——たとえば中央大陸の誰が、空の果て、月へと至る船など想像できようか!——でありながら、あまりにも精緻なものであったがゆえに、アレクスとマクシムの二人は夢中になった。
貴族向けの小規模な基礎学校で行われる講義など、父の作り話に比すればつまらぬものであった。
ボリスは息子たちに述べた。
「大きな岩を動かすときは、ゆっくりとやるものだ。強い力で蹴り込んで動かせば、それは一気に動くかもしれない。だが、岩が勢いよく転がれば、それに轢かれて人は死ぬ。たくさんの人が」
耳触りのよいかけ声と共に始まった改革が、その後何世代にもわたって人々を苦しめたある国の逸話の最後を、父はそんな言葉で締めくくった。
幸いなことに少年たちは十分に賢かった。よって父が言わんとすることを明確に理解した。父は自らの政治的立場——穏健な改革姿勢を、奇妙な架空の国とそれが存在する架空の世界の歴史を通して擁護しているのだ、と。
父の講義にはもう一人、同席者がいた。
ブラーギフ家の次男マクシム少年と同い年の少女。名をエリーナという。癖の付いた明るい茶の髪はふわりと肩にかかる。青い瞳は利発さよりも生真面目な雰囲気を感じさせた。
エリーナの名はエリーナ。彼女は姓を持たない。つまり解放された元隷農であった。だが、ノーレムリア帝国の勅任三等官たるボリスとその妻は、少女を決して“それ”と呼ばなかった。常にエリーナと名を呼んだ。一家の主人たるボリスの態度は少女に対してだけではなく、家中に奉職する召使いたちにも及んだ。彼は解放隷農たちを分け隔てなく、名で呼んだ。
この振る舞いは少々鼻につく、わざとらしい「開明派」の仕草である。解放隷農たちを殊更に「人扱い」することで自身の政治姿勢を示す、いわば建前。少なくとも周囲の人々はボリスの行動をそう捉えていた。
成長し、貴族向けの中等学校に通い出したアレクスとマクシムは、そこで社会の常識を学んだ。自分たちの妹同様の存在であったエリーナだが、実は「物」に過ぎなかったのだ、と。しかし、いかに「真実」を知ったとて、幼い頃から共に生きた少女である。少年たちは普段通り——つまり妹のような存在として——彼女と接し続けた。それがあくまで「振り」であることを理解しながら。
この理解が大きな間違いであることを、兄弟は父の姿を通して知った。
ある日、架空の国の様子を楽しげに語るいつもの父子語らいの場において、アレクスが口にしたのである。エリーナを差して「それ」と。
悪意など欠片もなかった。ただの代名詞であった。しかし、兄の言葉を耳にした父ボリスの表情を、マクシムは覚えている。忘れようがない。
あれほどに嫌悪に満ち、慚愧にあふれ、落胆する男の姿を。
父ボリスが声を荒げることはなかった。ただ静かにアレクスをたしなめた。
「アレクス・ボリジチ。——エリーナはそれではない。彼女、と呼びなさい」
兄弟はこの時初めて父を知った。
父は政治的力学から改革派に属する官吏などではありえない。心の底から、一点の曇りもなく、真の平等主義者なのだと。父が語る言葉は、見せる素振りは建前ではないのだ、と。
兄弟は感じ、考えた。彼らは父を誇りに思っていた。その二つの小さな頭には、父から注がれた言葉と知恵が溢れんばかりに詰め込まれていた。よって、父の思想を正しいと思った。そう在るべきなのだ、と。以降、アレクスとマクシムが少女を「それ」と呼ぶことは決してなかった。
それは一種の思想的転回、世界の陰影が裏返る瞬間である。
エリーナが「それ」でないのだとすれば、エリーナを「それ」と呼称することが当然と見なされる社会の方が間違っているのだ。
父が間違っているのか、社会がおかしいのか。兄弟に、この問いへの答えが与えられることはなかった。よって彼らは信じるしかなかった。父が語るあの世界こそが在るべき世界なのだ、と。
◆
アレクスがニコビルグの恩賜大学に進学し、マクシムは高等教育学校に在学中、ブラーギフ家の運命は彼らのあずかり知らぬところであっけなく決した。
皇帝ニコルス五世が暗殺されたのである。
犯人は西方の過激な自由思想を信奉する大学生であった。真実は不明であるが、そのように発表がなされた。
程なく登極したイーブン三世は父帝の非業の死を一つの教訓として理解した。
過度の自由は秩序を壊す、と。
反動が始まった。
ニコルス五世の側近にして、その改革を推し進めた中心人物の一人であるボリスは職を追われた。
彼は自身の処遇について足掻きはしなかった。しかし、志を同じくする同僚たちが司法の、あるいは政治の場から姿を消していくことだけは防ごうと望んだ。
伝手を辿り、新たな有力者たちの元へ陳情に及ぶこともあった。長旅を繰り返す父がマクシムと共に過ごす機会はもはやほとんどなかった。ニコビルグで下宿生活を送る兄アレクスもまた、陳情にやってくる父と出会う機会は稀であった。
マクシムが高等学校を卒業する間際、アレクスが恩賜大学二年の年に、父ボリスはあっけなく死んだ。
もはや日常となった長旅から帰り、居間の長椅子に腰を据えた彼は息子を呼び寄せて、こう言った。こめかみを揉む仕草を続けながら。ここ一年ほど、父は酷い頭痛に悩まされていた。
「マクシム。……人の世は必ず善い方向へ進む。一度は後退しても、二度は後退しても、三度でも。いつか」
隣に腰掛けた少年は黙って父の言葉を聞いた。父の昔からの口癖を、いつもの調子で。だが、続く言葉はマクシム少年にとって少々意外なものだった。
「〝嘆きの日には我を呼べ〟。君も知っているな?」
「聖句典の?」
「ああ。〝さらば我、汝らに物語らん〟と続く。……君は教学を怠けがちだったが、果たして覚えているかな?」
「もちろん。馬鹿にしないでください。父さん。その程度は当然覚えていますよ」
笑顔と泣き顔は隣り合わせに存在する。自身に微笑みかける父の表情がどちらなのか、マクシムには分からなかった。ただ声色の不自然な、からかうような明るさだけが手がかりだった。
父は笑みを浮かべているのだと、少年は判断した。
「君は、マクシム。人に呼ばれる者になりなさい。そして、語りなさい」
その言は明らかな涜神である。
正教の聖句典にある〝嘆きの日には我を呼べ。我、汝らに物語らん〟の一節。ここで述べられる「我」は神を指す。そして「物語る」は神の核心的権能を表す。正教において、この地上の全ての出来事は神が記した「物語」であると教えられる。よって物語るとは、人が決して到達することの叶わぬ形而上の存在——「運命」を伝える行為に等しい。
父は、神のみが為しうる行為を自分に為せという。
マクシムは思う。
自分は明らかに一個の人間に過ぎない。よって父の言葉は比喩であろう。要するに、他人から頼られる立派な人間になれ、と。その程度のこと。
「父さん。ボリス・イリイチ。それは涜神ですよ」
にもかかわらず、父の不自然に澄んだ瞳は、少年に事の矮小化を許さなかった。
「いや。私は君に、君とアレクスに委ねる。——〝人の物語〟を人が語ることを。……昔から私が君たちに話してきたことを」
言い終えてボリスは瞼を閉じた。
問答の時間は終わった。
壮年の季節を終えようとする一人の男は寝椅子で少しうたた寝をした。
目を覚ますと家族で夕食を囲み、床に就き、再び目を覚ますことはなかった。