タテガキ

第1章 子の物語

1ボリシェール 一

2026/06/22 15:41 公開

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 ——嘆きの日には我を呼べ。

 それは男の脳裏に常に流れる、いわば魔法の言葉だった。
 それを以て男の愚かさを、弱さを嗤うことはできないだろう。彼にできるのは、この古びた聖句典の一節を頭の中に転がすことくらいしかなかったのだから。

 男は極地での労働矯正刑を無事勤め上げ、首都ニコビルグに戻ってきたところだ。汽車の三等客室にぎっしりと詰められた家畜のごとき人々とともに。
 家畜とはつまり、二十年前に始まった皇帝ニコルス五世による一連の開明政策、その中核となった隷農解放令によって自由を得た元隷農の一群である。

 しかし男は自由民であった。
 より正確に言うならば、皇帝の忠実な臣民たる官僚——西方諸国に比して知識階層が著しく貧弱なノーレムリア帝国インピールにおいては大層貴重な人材、勅任三等官であった男の息子である。つまり自由民どころか、明白に貴族を名乗って差し支えない出自といえる。だが、彼がその本名を名乗ることはついぞ無かった。
 貴族、自由民、隷農。この三つの社会階層が厳然と、意外なほどの実効性を保持したまま存在するノーレムリアにおいて、貴種がその身元を明かさないことは非常に稀である。それは貴族に当然のものとみなされた有形無形の様々な特権を放棄するに等しい行いだ。
 しかし彼はその稀な、奇特な人間の一人であった。

 帝国のあまりにも広大な——明らかに無意味であり、大部分が凍てついた——領土に根を伸ばし始めたばかりの鉄道線路。その弱々しい、まばらな枝が結節する唯一の地、ニコビルグ中央駅の荘厳な駅舎を抜けた男は、例年のごとく雪で化粧された大通りを慣れた足取りで進む。
 彼が三年を過ごした流刑地シビリの寒村はニコビルグよりもはるか北東に位置する。寒さも雪も桁違い。そこでの労務はまず雪をなんとかするところから始まるのだ。の地の積雪に比すれば、ニコビルグのそれはさながら安物の絨毯に等しい。薄く、もろい。

 男が注意を向けたのは、だから足下にではない。彼は慎重に人を避けた。歩道の上、向かいからやってくる者と決して袖すり合わせることないように。襟に白い毛皮が付いた仕立ての良い外套を纏い、細身の杖を握りしめている男たちには、特に近づかないように。その身なりは貴族のものであるから。ひきかえ、彼が羽織る黒い綿の外套、あちこちにつぎはぎの当てられた分厚いそれは解放隷農、あるいは運に見放された下層自由民のものである。
 ニコビルグは全ての大都市が常にそうであるように、富者も貧者も惹きつける。ゆえに彼のような一目で貧者と分かる人間も珍しくはない。ただし、豊富に存在することと、それが許容されることは明白に別の事象である。

「おい! 隷農の裔シュラーヴァよ。分をわきまえんと長生きできんぞ!」
 灰色の外套に身を包み、硬質のつば帽子を頭に乗せた中年の男から発せられた居丈高な怒声。警邏の誰何である。
 警邏は偉大なるノーレムリア新しいレムル帝国の光輝ある首府を守護する誉れの職。ただし、その重責に比して俸給はいささか心許ないものだった。ゆえに彼らは自身の天職に熱心であろうとした。
 怪しいと感じられる人間——それはつまり、万が一にもお上に抵抗などしそうにない人々のことを指すのだが——であればとにかく声をかけ、身元を探る。そして、目を付けた怪しいやつが微かに口ごもりでもしようものなら、それは大変なことだ。帝国臣民の偉大なる父である皇帝を害すべく、暗闇で陰謀を張り巡らす不逞の輩かもしれない。ただし、それは勘違いかもしれない
 往々にして、警邏たちの勘違いは「怪しいやつ」がへつらいの笑みと共に差し出す数枚の紙幣によって正される。正教の教えが繰り返し述べるように、人はあやまつ生き物である。その場合、警邏は〝市民〟を〝怪しいやつ〟と誤解しただけ、ということになる。
「旦那様、ご無礼を!」
 彼は素早く答えると、滑稽なほどに背を丸め、すり切れた外套から皺の寄った紙切れを取り出した。
「なんだ? なんだ? それは。わしはおまえに訓戒を行っただけだ。隷農上がりシュラーヴァが大通りを我が物顔で歩くなど、無礼の誹りは免れん。誰に叩きのめされても文句は言えんからな。ようするに、親切心というわけだ」
「はい。もちろんでございます。この愚かな元隷農シュラーヴァにまで恵みをたれてくださる、寛大な旦那様」
 彼は警邏の手のひらに紙切れを載せる。四十も過ぎた熟練の警邏は刹那、紙面の数字に視線を走らせる。そして軽く手を振った。
「……以降、気をつけろ」
「ありがとうございます。ご親切に。旦那様」
 男は半ば中腰と言えるほどに身を丸め、静かに、しかし素早くその場を離れようとした。仕事熱心な「帝都の守り手」の気が変わらないうちに。
 だが、ここにも気まぐれがあった。冬期には珍しい晴れ間の午後、警邏はふと思ったのだ。
 こいつの名はなんというのか、と。

「おい!」
 つばを吐きかけるのと変わらぬ口ぶりで、皇帝の忠実な官吏たる警邏は男を呼び止める。
 男は静かに振り返る。しばらく手入れされていない、伸び放題の黒髪は油と汗に張り付いている。髭にあたったのも数日前。一目見れば分かる貧民の顔。
「はい。旦那様」
 応じる男の声は低く、骨がある。だが存外に若い色。
「名は?」
 青年は怯えともためらいともつかぬ、曖昧な微笑を浮かべる。それはまさに虐げられた者たちの裔シュラーヴァにふさわしいものであった。
 ノーレムリアではその独特の表情を差して〝卑屈〟と表現する。

 青年は静かに、囁くように、うやうやしく答えた。
「ボリシェール、と申します。旦那様」
ボリシェール大木! なるほど、おまえの無駄に馬鹿でかい図体には、ちょうどいい名じゃないか」
 警邏の反応はある種の快活ささえたたえたもの。満足げなもの。それもそのはず、貧民であれ元隷農であれ、下層民どもが身の程を知っているのはよいことだ。それこそが秩序である。
「親に感謝せねばならんぞ。身の丈にあった名を与えられたことを」
 ノーレムリア語において、ボリシェールという単語はありふれた一般名詞である。「大きな」を意味するボリに「木」のシェール。ただし、その語が物ではなく人に対して用いられるときには、少々侮蔑的な含みを持つ。〝愚鈍な役立たず〟と。
 青年の長身と卑屈な表情は、まさにボリシェールの名にふさわしいものと思われた。行きずりの警邏には。

 ニコルス五世の勅令によって奴隷身分から解放されたとはいえ、元隷農の生活習慣に大きな変化はなかった。自由民と異なり、彼らは姓を持たない。人名ともあだ名とも付かぬ適当な呼称しか持たない。もちろん、貴族たちが誇らしげに名乗る付称——ノーレムリア貴族は名の後ろに自身の父の名を格変化させた第二の姓を持つ——など無縁である。青年はボリシェールと名乗った。マクシム・ボリジチ・ブラーギフブラーギフ家のボリスの子 マクシムではなく。
 ゆえに彼はボリシェールであった。
「行け! でかい図体の間抜けボリシェール!」
 警邏はひとしきり笑った後、右手を軽く払う仕草で青年を解放した。
 青年は難を逃れた。

 ◆

 ニコビルグの周縁部にある中央駅から都心の恩賜広場まで続く大通りを、彼はひたすら歩いた。本来であれば乗り合い馬車を使う距離だが、あいにく贅沢は懐が許さない。
 にもかかわらず、彼は運賃の何倍も何十倍も素晴らしい財宝を持っている。半刻歩こうが一刻歩こうが、あるいは一昼夜歩こうが、決して萎えることのない足である。かつて極寒のシビリでボリシェールの命を繋いだもの。それはつまり健康で頑強な肉体であった。

 大通りには無数の横道が生えている。大木の幹から伸びる枝。太いものも細いものも、実に多くの小道がある。その一本一本には、生い茂る葉——四、五階建ての集合住居が建ち並ぶ。ボリシェールは迷わなかった。行くべきところは定まっていた。
 目当ての集合住居は、昼過ぎの晴れ間にあってさえ、半ば暗がりの中にある。道を挟んで向かいの建物が陽光を遮るのだ。むろん対面の住居から見れば、こちらの建物の方が彼らの光を奪うに等しい。交互に太陽の熱をせき止められた路地の表面から雪の覆いが剥ぎ取られることは決してない。
 外壁に煉瓦を敷き詰めた五階建ての集合住宅。その二階が目指すところだった。建物の中央に設けられた分厚い木戸を押し開くと、男は静かに構内に歩を進めた。薄暗い廊下には未だ現役のろうそく立てが息を潜めて佇む。西方諸国は当然のこと、ここノーレムリアでも旧式になりつつある固形燃料のささやかな照明は、当然のことながら昼には無用の長物と化す。
 午後の二時、いかに日照が悪いといえど、外の光は這い込んでくる。否応なく。

 男はきしむ階段を上り、一つの古びた、赤茶けた木扉の前に辿り着いた。
 ついに。

 遙か彼方のシビリの村で想い、三年という、二十代の青年にとっては永遠にも等しいほどに長い年月を経て、ようやく。
 
 扉の中央に設置された手のひらほどの銅の輪。上部が戸板に固定されている。男の手は輪の下部を持ち上げ、落とす。
 濁った打擲音。二度、三度。
 木板一枚挟んで向かいに気配を感じる。やがて戸は開いた。

「どなたさまで?」
 彼の予想に反して、扉の向こうに現れたのは見覚えのない、中年にさしかかったとおぼしき肥えた女だった。茶の髪をきつく結い上げている。そこには余裕も遊びもない。至極実際的な、素っ気ない装い。一目で住み込みの女中と分かる。
「……マクシム・ボリジチだが。母は? 私は母——イレナ・シモノヴァ・ブラーギフの息子だ」
 母の家から見知らぬ顔の女が出てくるという想定外の展開に虚を突かれつつも、彼は静かに答えを返す。
「マクシム・ボリジチさま、と……。ブラーギフ家の? 旦那様、当家の主人とお約束が?」
 女中は微かな警戒を潜ませながらも、恭しく、さらに問う。
 ボリシェール——マクシム・ボリジチの風体はとても“旦那様”などと呼びかけるに値するものとは思われない。典型的な下層民の、あるいは元隷農の装い。しかし、その振る舞いと言葉遣い、発音の全てが、彼がしかるべき教育を受けた真っ当な身元の青年であることを証明していた。
 女中の前に静かに佇む男の姿は、先刻警邏にへつらいの笑みを浮かべて寛恕を乞うた下層民のそれとは似ても似つかぬものである。別人のごとく。しかし、幸か不幸か両者は同一の存在であった。
「当家、とは何を指すのだろうか。ここは母の、つまりブラーギフの家のはずだが」
「失礼ですが旦那様、お部屋をお間違えに……」
 女中の当惑を隠さぬ様子は部屋の奥に伝わる。

 床板のきしむ音とともに、女の背後に初老の男が現れた。
「何ごとですかな?」
 白くなった髪を丁寧になでつけた男は緩い仕立ての上着を着て、首元に白い布をしっかりと巻き込んでいた。ボリシェールは男の来歴にあたりをつける。退職した下級官吏といったところであろうと。
「こちらの部屋のご主人でいらっしゃる?」
「いかにも。あなた様は?」
「私はマクシム・ボリジチ・ブラーギフと申します。所用あり長くニコビルグを離れておりましたが、最近戻りまして。久々に母の住まいを訪ねたところ……」
 部屋の主はじっと青年の言葉を待つ。
「……つまり、ここが、母の部屋なのです」
「ここが? ああ、なるほど。マクシム・ボリジチ殿は、ようするに前の方の縁者でいらっしゃる!」
「前の方とは?」
「ええ。私がこの部屋を買ったのは、ちょうど半年ほど前のこと。大分安値で売りに出ていましてね」
 ボリシェールは動じなかった。その黒曜石のごとき両の瞳を眼下の老人に向けたまま、続きを待つ。
「なんでも前の持ち主が急に亡くなったそうで。相続人もおらず、残ったのは若い召使いの女一人と聞きました」
「亡くなった? 母が?」
 青年は動じなかった。それは誠にもって立派な態度である。
 老人は心内に抱いた疑念を幾分和らげる。この一連の流れが新手の押し込み強盗の手口ではないか、という。
 それほどに、見窄らしい風体に反して青年の振るまいは落ち着いていた。肉親の死に接してなお感情を抑制できるのは、そう在るように教育されたがゆえである。貴族の証明たる付姓を名乗った際も、若者に不自然な様子はなかった。何らかの事情で手の込んだ変装をした若君。総体的に見て老人は判断する。
 家主に落ち度はない。判断は正確であった。廊下の薄暗がりが隠したものを見落としたとして、責めるにはあたるまい。青年の両の手が、微かに震えている様を。
「あなた様が真にご子息であられるならば、お悔やみ申し上げます。母君は恐らく、神の御裾み すそもとに安らいでいらっしゃいましょう」

——神の御裾の下。
 中央大陸で広く信仰を集める正教は、神はその姿を人間の前に表すことは決してないと教える。人が目にするのは神の足下、翻る長衣の裾のみ。人は死後、神の衣の裾に抱かれる。

「お悔やみの言葉、痛み入ります。ただ、突然のことゆえ未だ整理が付かない。詳しいことをご存じの方は?」
「さぁ、どうでしょう。なにしろ半年も前のこと。役所の競売です」
〝役所の競売〟。
 この台詞に力がこもる。老人が行った取引は国家が認めた「正当なもの」である。前の持ち主の正当な相続人が現れたところで今更状況は覆らない。それを明言する必要があった。ただし、できる限りさりげなく、かつ上品に。
 長く知的階層の末端に生きた老人にとって、それは密かな矜持である。彼は自分が教養を備えた紳士であろうと望んだ。そして、他者からそのように見なされることもまた。
「では……では、その」
 ここまで堂々たる振る舞いを崩さなかった青年の乱調、ある種懇願の色さえ乗った逡巡の様を老人は静かに見守る。彼が続けるであろう言葉を。相続に関する交渉ごと、あるいは文句であれば、はっきりと拒絶の意を示さねばならない。
 だが、青年の言葉は老人の想像を裏切った。幸いにも。
若い召使いの女……その所在も?」
「召使い……。残念ながら存じません。まぁ、常識的に考えれば、またどこかの家で女中の口を見つけたことでしょう」
 老人は余計なことは言わなかった。
 常識的に考えれば、若い下層民の女にふさわしい職はそれだけではない。工場も娼館もある。女の器量が水準以上であれば、金持ちの旦那に囲われる道もある。
 だが、その女は、ひょっとしたら目の前に立つ青年の愛人だったのかもしれない。ならば無用の軽口は慎んだ方がよい。貴族が財を失い路頭に迷うことはこのご時世それほど珍しいことでもないが、訳ありであることに代わりはない。そして訳ありは危険である。老人はごく当たり前の人生経験を備えていた。
「確かにその通りです。詮無きことをお尋ねしてしまった」
「なんの。お気になさいますな。……そして気を落とされますな。人生は長い」
 老人の言葉には真情がこもっているように思われた。そして幾ばくかの安堵も。

 青年は軽く頭を下げた。
 それ以上、何も答えなかった。