タテガキ

第1章 子の物語

3ボリシェール 三

2026/07/03 01:15 公開

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 ボリシェールの若い肉体はシビリの寒村に吹きすさぶ雪風にも耐えた。ならば、いかに冬期とはいえ格段に温暖なニコビルグの夕にも耐えるだろう。

 彼は街中を走る運河の一つ、その川縁をひたすら歩いた。海の方へ。
 ニコビルグはノーレムリア帝国の首都であると同時に、北海に面した——世界に向けて開かれた「窓」でもある。運河は街中を貫くヴォル川に接続され、ヴォル川は北海へと流れ込む。
 川中には幾つか、ほどほどの面積を持つ中州が存在する。粗末な橋で繋がれたそれらはいずれも、真っ当な人々の生きる世界とは一線を画する別の世界だ。
 隔離された場所。ニコビルグという街にとって、あるいはノーレムリアという帝国にとって都合がよくないものが詰め込まれている。つまり監獄である。
 陽は沈もうとしている。遠く微かに見える北海の縁に。世界はこの一時いっとき、赤黒く染まる。

 彼は歩みを止め、対岸に見える巨大な円筒形の建造物に目を向けた。
 遙か昔、ニコビルグが建設された当初は城塞であったそれは、当時のままの無骨な石造り。灰とも黒とも付かぬ、剥き出しの色。しかし今、太陽はそれを紅く塗った。

 そこは兄アレクスが死んだ場所である。
 より正確には、殺された場所であった。

 父ボリスの死から二年後、兄アレクスは大学の構内で逮捕された。彼が所属するささやかな、学生たちの課外活動の延長ともいえる政治組織が、さる大胆な陰謀を企てたという。
 皇帝イーブン三世が式典出席のため大学に行幸する機を捉えた爆殺。
 それは明らかに杜撰な計画であった。否、計画と表現するほどのものですらなかった。ただ、そのような発想が存在したことだけは確かである。

 監獄に収監されたアレクスを助けるために、母イレナはできる限りの手を尽くした。亡き夫の友人たちに手紙を書き、赦免の口添えを求めた。時には——ようするに、ほぼ全ての嘆願の折には——結構な付け届けを欠かさなかった。ブラーギフ代々の家領をも切り売りして、母は息子の命を購おうとした。一家は住み慣れた西部の故郷を離れ、ニコビルグに転居した。一人の息子の命を救うために。
 アレクスの赦免を求める哀れな母の嘆願は皇帝にさえ届いた。
 事件といって本当のところは酒の席での放言を密告されたに過ぎない。現実には、彼ら「同志たち」は人一人吹き飛ばす程度の火薬すら手に入れる術を持たなかったのだから。
 自身の命を狙われながら、イーブン三世は寛大にも恩赦の意向を示した。ただし、ノーレムリアの偉大なる父皇帝が垂れる慈悲はアレクス一人にしか与えられなかった。理由は単純である。「同志」たちの中で、彼はただ一人の貴族であった。それも、父帝ニコルス五世と親密な関係にあった名門の。他の者たちは皆、富裕ながら自由民の息子に過ぎない。皇帝はアレクスを同胞と見なし、それ以外の者たちには共感を覚えなかった。

 アレクスは「転向」を拒否した。
 高度な教育を受けた青年にふさわしく煩瑣な形式を踏んだ文体をもって、ノーレムリアにおける不正を糾弾する手紙をしたため、皇帝に送りつけた。自身の行為が死に値するのであれば死を与えるべきであり、値しないのであれば仲間たちもまた死に値しないはずである、と。

 兄は弟にも手紙をしたためた。個人の専制による世界は必ずや行き詰まる、と。父亡き後、兄弟の間にのみ通ずる〝架空の世界〟の例を挙げて、自身の思いを綴った。マクシムは兄の急進的な思想をいさめたが、それに対する答えは激烈なものだった。
 もはや検閲を恐れる必要はなかった。決然と、帝国の父イーブン三世が伸ばした慈悲の御手をはね除けたのちのことなのだから。


「我が国最高峰の知の殿堂たる大学では、鼻持ちならぬ金持ちの子どもの間で賭け事遊びが流行っている。見事な蒸留酒を右手に、馬鹿みたいな大声で『勝ったぞ!』『畜生! いかさまめ!』と叫びながら、彼らは長い夜を過ごす。
 勝者は誇らしげに掛け金を要求する。敗者は誠に堂々と、貴人らしい鷹揚さでそれに応ずる。偉大なことだ。
 それがただのかねであったなら、どれほどよかったことか!
 違う。それは人だ! 二十の隷農を賭けて札遊びをするやつらがいる。凍る寸前まで冷やした発泡葡萄酒を左手に。狂ったように焚かれた暖房の熱にのぼせ上がったやつらには、それが心地よく感じられるんだろう。
 見ろ。マクシム。さぁ。我々の国の真の姿だ。結局何も変わっていない。

 ボリス・イリイチは俺たちになんと言った? なんと教えた?
〝すべて《《国民》》は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない〟
 そう我々に教えなかったか? この一文を手に入れるため、あの国、あの世界の幾多の人は北海を紅く染め上げるほどに大量の血を流した、と。
 国民! 国民だ! 我らは平等はおろか、国民すら持たない。
 結局のところ、偉大なる古代レムリア帝国の裔、中央大陸の列強、つまりこの呪われた地には国民などどこを探しても一人もいない。国民はいない。いるのは太った豚と痩せた豚だけだ。

 この現実の、不正の大地において、誰がそれを為す? 
 親愛なるマクシム・イリイチ。この世でただ一人の俺の弟。
 誰かがそれを為さねばならない。太陽は放っておいても世界を照らすだろうが、不正は自然には糺されない。決して。

 誰かがやらなければならない。
 一人が倒れれば次の一人が。その者が倒れれば次の一人が」


 マクシムは、この果てしなく綴られた兄の手紙に極度の興奮と、いくぶんか、空しい陶酔を見た。
 ニコビルグの恩賜大学に入学する前、まだ所領の館で共に生活していた頃からその片鱗はあった。物事に過度に熱中する癖だ。父の「お話」にしつこく食い下がり、議論をふっかけるのは常に兄アレクスだった。多くの場合、弟マクシムとエリーナは舞台ではなく観客席に居た。そして役者たちの会話劇を興味深く見守ったものだ。
 
 だが一方で、兄の文面に心沸き立つ瞬間を自覚する。
 マクシムとて、まだ二十才にもならぬ若者である。兄から一方的にもたらされただけの情報を真に受け、憤るだけの純真さを十分に備えていた。それは若者の特権である。
 彼は返信した。短慮を戒める長い文章を。そして末尾に一言。
「いずれ自分も兄さんの活動に加わる。しかし、それは今ではない」と。

 最終的に、帝国勅任三等官ボリス・イリイチ・ブラーギフの長男アレクス・ボリジチはその念願を立派に果たした。同志たちと共に絞首刑に処せられたのである。

 しばらくしてマクシムも逮捕された。
「いずれ自分も兄さんの活動に加わる」
 この一文は存外に重い意味を秘めていたことを、若きマクシムは知った。

 二十才になったばかりの彼に課せられたのは、三年間の辺境矯正労働刑——流刑であった。



 ◆



「そこのあなた! 今は時期が悪いわ! 寒いし、もうじき暗くなるでしょう? 水泳は明日になさったら」
 背に刺さる溌剌な女声を、ボリシェールは自身に投げかけられたものとは思わなかった。否、気づきもしなかった。
 父はもういない。兄もいない。母は亡くなり、エリーナも消えた。一人残った彼は大逆未遂の徒。元から尽きかけていた財産すら受け継ぐ資格もない。彼は明確に理解していた。何もないのだ、と。
「ねぇ、あなた! お耳が聞こえないのかしら?」
 振り返ったのは、ゆえにただの反応に過ぎない。
 見れば道ばたに止めた馬車から女が降りてくる。深い臙脂色のエプロンドレス姿。ニコビルグの貴族女子学校の制服であることはすぐに分かった。主人たる少女を慌てて追いかける屈強な男は御者兼護衛。手には非常用の棍棒らしきものを握りしめている。
「何かご用が? ——お嬢さん」
「ご用もご用だわ。だから言っているの。今は身投げの時期じゃないって」
「ご忠告ありがたく。身投げなどしないが」
 少女の顔は紅い。それは沈む日の赤である。おそらくは、透き通るほどに白い肌をしているのだろう。ゆえに光の色が簡単に乗る。
「ではこちらで何を?」
「散歩だろうか」
「その割には、ずっとそこに立ちすくんで! こんなにも寒い日に」
 ボリシェール——マクシムは眉を軽く上げた。彼は寒さなど感じていなかった。シビリの村に比べれば何ほどのこともないからだ。
「たしかに寒い。だが、私はもっと寒いところから来たのでね。私は寒さに強くなった」
 少女はその深い茶の瞳を注いだ。男の横顔に。それは明らかに心を波立たせるものであった。
 屋敷と学校を往復し、退屈な正教儀礼と礼儀作法を繰り返すだけの日々に飽き飽きした若い女にとって、身投げを思案する哀れな男ほど興味をそそるものはない。
「あなた、変に堂々としているのね。その身なり、解放隷農シュラーヴァでしょう? ……怖くはないの?」
「怖いとは、そこに控える御者の棍棒を?」
「いいえ! いいえ! 私は貴族の娘よ。恐れてしかるべきではないかしら?」
 青年は既に、何かを取り繕う意義を失っていた。
 警邏に絡まれた際、彼には「目的」があった。母とエリーナの元に帰るという。ならば波風は立てぬに超したことはない。
 しかし今、彼にはすべきことがない。ゆえに恐れるものもない。
「恐れは何かを失う可能性から生じるものだ。失うものが何もなければ、恐れもない」
「でも、もしもあなたに無礼があれば、わたしはあなたを縛り首にだってできる。ちょうどそこの、あの監獄に送り込んでやることだってできるわ」
 長身のボリシェールからは頭一つ低い背をピンと伸ばし、威勢よく川向こうの建物を指し示す少女。
「そうすればいい。俺は自由と命を失うだろう。特に惜しくはないよ。だが……あなたはより貴重な物を失うことになる」
 青年は淡々と返した。
「わたしが? 何を?」
「正義を」
「なぜ?」
「あなたに対等な口をきくことは死に値する罪だろうか」
「カリヨラン侯爵家の娘に解放隷農シュラーヴァがそうすれば、罪でしょう? 人には分というものがあるもの。それを守ることが大切なの」
「女学校でそう教わったのか。教学の時間に。〝海のものは海に、山のものは山に生きよ〟とでも。あるいは〝魔力〟の社会階梯説あたりか」
 正教は、全ての人間には生まれつき〝魔力〟が備わっていると説く。魔力の強い者は弱い者を従える権利を持つ、と。中央大陸において、王と貴族が人々を支配する際の論拠として、その教説は驚くほど長く効果的に機能した。ちょうど百年ほど前までは。
 青年の返答は明らかに少女の虚を突いた。それはしかるべき教育——少なくとも自身と同等の——を受けた者の語り口であったから。
「あなた……元隷農シュラーヴァではないの?」
 少女が名乗ったカリヨランはノーレムリア帝国有数の名家である。たとえ庶民といえども知らぬ者などいない。しかし男はその光輝ある名を耳にしてなお平静を保った。
 ゆえに少女はかすかに恐れた。身の危険を、ではない。得体の知れぬ何かに出会ったときのおののき。
「貴族か自由民か解放隷農か、それはとても重要なことだな。この社会では。お嬢さん」
「謎かけは止めなさい! ——名を述べよ!」
 眼前に聳えるがごとく立つ青年が自身をほとんど相手にしていないことに気がついた少女は、恐れよりも憤慨を選んだ。帝国宰相位すら占めたこともあるカリヨラン侯爵家の娘ソーフィア・アレクシノア・カリヨランにとって、それは許しがたい侮辱であった。
 男は微かに笑った。柔和なものではない。むしろ情けない、弱々しい、捨て犬のような表情である。
「ボリシェール」
「……ボリシェール大木? ほら! やっぱり隷農じゃない!」
 くるぶしまで覆う緋色の外套。その中に隠れた長靴の踵を少女は踏みならす。思わせぶりな態度に一杯食わされた悔しさか、あるいは安心か。
「それにしても、あなたは幸運ね。素晴らしいご主人様の元に生まれたの。隷農にまでしっかりと教育を施してくださるなんて、ご主人は貴種の鏡だわ。感謝なさいね」
 口ぶりは居丈高ながら声色には暖かさがあった。この正体不明の大男が過分に幸せな境遇にあったことを喜んでいる。
「そうしよう」
「〝嘆きの日には我を呼べ。さらば我、汝らに物語らん〟この聖句を知っていて? 本当にその通り。神の御裾にお祈りなさい。そうすれば神はきっと、あなたの〝物語〟を教えてくださるんだから」
 哀れ路頭に迷う解放隷農の守護者を気取ってか、ソーフィア・アレクシノアは優しげな口調で忠告の言葉を与えた。

 哀れ路頭に迷う解放隷農のボリシェールに。

 それは正教の僧侶が教学の授業で教えた「慈悲」の実践である。
 少女は善行を為したのだ。

 青年は無言で軽く頭を下げ、その場を離れた。

 陽は落ちた。