タテガキ

第1章 子の物語

第7話 エカテリン・メリニコス 一

2026/09/12 11:24 公開

縦書きリーダーで読む

「エカテリン・メリニコス嬢。急な誘いで誠に恐縮ながら、来週末、この哀れな男に、あなたの最も貴重なものを恵んでもらえまいか? つまり、時間を」
 その台詞はあたかも歌うように紡がれた。中央大陸の外交公用語、西方列強の一角たるサンテネリ共和国の言語によって。
 単語間の断絶を極限まで避け、豊かに波打つ抑揚で表される叙情的なそれが、完璧な発音を伴って男の口から囁かれたとき、エカテリン——カーシャは一瞬意識が遠のくほどの衝撃を覚える。

 言葉とは人そのものである。
 見知った人が聞き知らぬ言葉をしゃべるとき、その者は明確に形姿を一変させる。具体的には、対する者の精神の内に存在する似姿を。
 現実の話者はといえば、変わったところなど一つもない。ぼろ切れと区別も付かぬ黒い外套を羽織り、首の大判布は垢に薄汚れている。波打つ黒髪は、折り目正しい若者が好む、後頭部までなでつけられた「適切な」髪型とはほど遠い。存在を忘れ去られた庭木の如く気儘に伸び、男の顔を半ば包む。
 つまりそれは、女がつい先刻まで人類愛とでもよぶべき感情、言い換えれば憐れみを垂れてやった無知な元隷農であった。男の姿には寸毫の差異もない。
 だが今、月明かりの下に相対する彼は、そのつま先、指先に至るまで見事な所作に貫かれていた。女に不安を抱かせぬよう適度な距離を取り、両手を後ろで組み、あたかも精緻な技巧をこらした彫刻の如く佇んでいた。微動だにせず。
 その男が請うたのだ。時間をくれ、と。帝都ニコビルグでさえ滅多にお目に掛かれない完璧な作法とともに。
「……ええ。ええ。私、……私は」
 カーシャは混乱のるつぼに放り込まれたまま、それでもなんとか返事を試みた。全く不慣れなサンテネリ語を思い出そうと必死に頭をひねるが、結果は散々なものであった。
 目の前に貴公子然と佇む青年に比すれば、彼女の在り様は全くの町娘に過ぎなかった。客観的に見てそれは妥当な見立てであり、本人の自覚においても同様であった。
「慣れた言葉でかまわないよ。私もノーレムリア語は分かる。少々不得手かもしれないが」
 冗談であることを明白に示すために、あるいはカーシャの緊張をほぐすために、ボリシェールは敢えて笑みを付け加えた。事実、その出自と受けた教育が必然的に導く帰結として、彼はサンテネリ語の方がより堪能であった。
「その、ボリシェール……。あなた、サンテネリ語をどこで?」
「その答えをきみに見せるためにも時間がほしい。少し付き合ってほしいところがあるんだ。同志トワーリエカテリン」
「もちろん。ええ。それは。でも、どこへ? お母様に外出のお許しを得ないといけませんから」
 彼女の心の中に否はなかった。一刻も満たぬ間に極端な上下を繰り返した感情は、女の精神を大きく揺すぶっていた。安定を失した心から生まれるのは常ならぬ感情である。揺れが大きければ大きいほど、情はよく混ざる。
「親戚の屋敷を訪ねたいと思っている。なぜきみを誘うかといえば簡単なことだ。きみの家の生業にも関わるところだから。もちろんそれだけではないよ。きみに共に居てほしいという純然たる希望もある。私個人の。ご迷惑かな?」
「いいえ。いいえ! でも、その……あなたの親戚って?」
 先刻まで哀れな解放隷農であった男の親類とやらがどのような存在であるか、先刻までの彼女であれば容易に想像することができただろう。だが今、明らかに堂々たる貴種の素振りを見せる偉丈夫のそれが何者であるか、カーシャには想像も付かない。
 ボリシェールは依然穏やかな笑みを絶やさなかった。大きな黒い瞳は先刻までの凪いだ、優しげな風情を失うことはない。
 違いはただ一つ。酒場を出たとき、男の目は少々間の抜けた忠犬の無垢と見えた。今、そこにははっきりと何か別の物が宿っている。
「その疑問は当然だ。だから答えよう。きみが知っているといいが。——オーリフ子爵家をご存じかな?」
「オーリフって、あの?」
「帝国勅任三等官。かつて財務官房の主として名を馳せた、そのオーリフだよ」
「それはもちろん、お名前を知ってはいます」
 先帝ニコルス五世の懐刀として帝国の財政を差配したオーリフ子爵の名は、皇帝暗殺による失脚の憂き目を経てなお、人々の記憶の中に残り続けていた。大小を問わず商家の者たちの間では特に。政治の実権を失したのちも、オーリフ家自体は依然ニコビルグ有数の商会を幾つも所有する大家たいかであり続けたのだから。
 ゆえにエカテリンはもう一つ、当然の疑問を投げかけた。
「オーリフ家とあなたにどんな関係があるんです?」
 男は事もなげに答えた。

「母の実家だ」

 ◆

 二十余年に及ぶ女の生において、これほどに焦れる一週間はついぞ経験したことがないものであった。
 カーシャは富裕な製鉄業者の家に生まれ、女学校を出て、あとは他家に嫁ぐだけの、いわば完成した若い女である。当世流行りの思想に惹かれ、幾分かの逸脱的行為もするが、それを苦笑を以て許すだけの度量を両親は備えていた。適度に開明的な家庭で適度に活動的に育った女。ただし分限は弁えている。
 どこまでは許され、どこからは許されないのかを、賢い彼女はよくよく理解していた。理性をもってではない。美しい自由思想に共感する同世代の若者達と同様、生理的な反応としてである。ゆえに線引きは無自覚に為される。
 あの日、二月十日の夜の出来事を女は幾度も反芻した。自身の内面に潜む偏見を自覚さえした。正確には、自覚したと思い込んだ。常に善くあろうと望む善良な女である自分は、あの日を境に、より進歩的な意識に目覚めたのだと自負した。

 彼女は週末の約束に向けて、極細の羊毛を見事な紅に染め上げ絹の如く滑らかに織った、手持ちの中で一等豪華な衣装を準備した。そして首元に純白の兎毛飾りをあしらった外套もまた。
 カーシャを誘った男の言を信じるならば、行く先はオーリフ家なのだ。一時の威勢は望むべくもないが、平民である自身の家とは比べものにならぬ格と規模を誇る大家たいかである。富を競うことなど考えもせぬが、せめて見苦しくならぬ程度ではありたいと彼女は考えた。頭では。
 一方、心は沸き立っていた。恐らくは訪問先よりも、同行する男の存在ゆえに。
 ボリシェールは言った。母の実家である、と。仮にその言が真であるならば、当然のことながら、男の立場も輝かしいものである可能性が高い。オーリフ子爵家の令嬢を母に持つということは、父も当然貴族、しかも子爵家かそれ以上の格を誇る名家の出であろうことは明白であった。
 しかし、青年が貴種であるのならば、なぜこれまで何年にも渡って無産工員を装ったのか。その生活に甘んじたのか。カーシャは想像の翼を広げる。目一杯、見事な羽がもげそうなほどに。十も二十も、仮説が際限なく湧き出してくる。それらを比較検討した末に、最も妥当と感じられる筋書きは以下のようなものに落ち着いた。
 オーリフ家のご令嬢はある身分違いの男と恋に落ち、誠に不幸な、はしたない結末を迎えた。子を宿したのだ。明白な醜聞である。ゆえにその事実は隠蔽され、子は里子に出された。ただし一族の男子には違いないのだから、いかに厄介払いとはいえ、預ける相手もしかるべき立場の人間となるだろう。よって、あの夜、ボリシェールが完璧に操った正統なサンテネリ語の出所も辻褄が合う。預けられた家で真っ当な教育を受けたからに違いない。
 彼は成長し、立派な青年となった。父方の下等な血は母の高貴な血統と真っ当な教育によって乗り越えられた。だが、彼の存在は母が後に嫁いだ相手——ボリシェールから見れば継父に当たる——の知るところとなる。妻の名誉と家の名誉(明らかにこちらの方が重要だ!)のために、継父は彼の命を狙う。それに気づいた育ての親は、慌てて東の地に彼を逃した。やがて時が過ぎ、ほとぼりがさめた頃合い、彼はニコビルグに戻った。ただし、取るに足らぬ解放隷農と身分を偽り、工員の身元など気にすることもない適当な工場に潜り込んだ。そして……。
 身の上話をほとんどしないボリシェールだが、かつて「党」の会合——会合という名の酒盛りの折にぽつりと漏らしたことがある。同志の誰かが彼の粗末な身なりを心配して、あるいは揶揄して言ったのだ。「そんななりで寒くはないのか?」と。彼はいつものように愚直な、半ば無心とも感じられる口ぶりで答えた。「前は東の方に住んでいたから、寒さには強い」と。カーシャはその光景をすっかり忘れさっていたのだが、それが今、俄に、あたかも昨日の出来事であるかのように鮮明に思い出された。
 この推論は女の好奇心、言い換えれば願望を満たすに十分なものであった。
 つまるところ、ボリシェールは貴種の落胤である。そして、その身に流れる高貴な血のゆえに命を狙われている。これまでの無知蒙昧な口ぶりや素振りはすべて、雌伏する身を守るための欺瞞だったのだ!
「ボリシェール。……本当のお名前を、私にも教えてくれるでしょうか。あの方は」
 自室の寝台の上、女は独語する。
 彼女の心は幾重にも慰められた。あの日の夜、自分が圧倒された相手は決して解放隷農シュラーヴァの如き下賤の者ではなかったのだ、と。彼が貴種の血を引くのであれば、自由民である女が気圧されるのも当然のこと、仕方の無いことである、と。
 この発見は理性によるものではない。
 彼女が受けた立派な教育は先天的な要因による人間の優劣を否定する。原理的には。正教が教える通り、人は神の前には等しく塵芥にすぎない。さらに、西方諸国の先進的な思想は〝魔力〟のような、神の視点から見れば誤差に過ぎぬ、だが人の間かんにあっては圧倒的なものである先天的差異の存在についても明確に否定する。それらの知識をカーシャは当然のこととして知っていた。頭では。
 しかし、その心を慰めたのは黴の生えた聖句典の文言でもなければ、知識人を気取る小道具たる西方思想の論文でもない。彼が貴種の出であろうという一事のみが為し得たのだ。当然のことながら、その機序に彼女は無自覚であった。
 ボリシェールが貴種の出自であるならば、その運命的悲劇の渦中にある彼から秘密を打ち明けられた唯一の女が自分であるという事実に喜びを感じないわけにはいかない。これも当然のことながら無自覚に、カーシャは悦びを覚えた。
 まるで新聞の連載小説のようだ。通俗的に過ぎる〝作り話〟と父が食卓で顔をしかめ嘆くような。
 しかるべき血統を誇る貴族の若者が西方諸国の先進思想を学び、この世界の正義に目覚める。彼は数奇な運命から知り合った不幸な自由民の娘を見初め、いつしか親密な関係を築く。男は、自由民でありながら自由を奪われた(つまり将来が定まっていることだ!)哀れな女にこの世界の現実——適度に加減された貧困の悲惨——を見せ、その不正を糺す正道へと彼女を導く。最後、二人は魂と肉により別ちがたく結ばれる。子を為すのだ。二人が救ってやった元隷農の召使いたちが、この幸福な若夫婦の世話をするのだろう。あたかも家族のように。
 あまりにも夢想が過ぎる。カーシャは想像の羽を畳もうと決意する。彼女が生きたこれまでの時間の中で、劇的なことなど何もなかった。過去にないものは未来にもまた存在しないだろう。そう反省できる程度には女は成熟していた。
 だが。
 あの晩ボリシェールが女の耳に残した低声は、その瞳に残した優雅な四肢は、「もしかしたら」を掻き立てる。

 先帝ニコルス五世が主導した自由主義改革の一環として初等学校が整備されたとはいえ、残念なことに、それは甚だしく不完全であり、かつ停滞していた。より正確に述べるならば機能不全に陥っていた。
 初等学校は身分を問わず万人に開かれた学びの場である。だが、万人が卒業することは叶わない。隷農身分から解き放たれてなお、都市農村を問わず下層の民は下層に置かれたまま、その生活様式が大きく変わることはなかった。つまり彼らにとって子どもたちは純然たる労働力である。度重なる官憲の説得——時には暴力を伴うものをもってさえ、彼らから子を奪うことはできなかった。農村にあれば畑仕事で、都市にあれば工場で、盛り場にあれば物乞いやスリで稼ぐことができる〝完成途上の人間子ども達〟の群れは、初等学校に形だけ籍を置くも校舎に顔を出すこともない。そしていつしか消えていく。消滅は書面上の場合もあれば物理的な場合もある。
 ゆえに、ボリシェールが見せた彼女のそれを遙かに凌ぐ語学力と身のこなしは、彼の身分を何よりも雄弁に、国家が作成する査証の類いよりもよほど堅固に保障した。役人に幾ばくかの金を払うことでなんとでもなる紙切れに比して、それを身につけるためには膨大な時間と資金、そして個人の努力が必要となる。ゆえにカーシャは、つい一週間前まで哀れみと慈愛をもって接してやった取るに足らぬ解放隷農の男を、たった一週間の後のちには、あたかも仰ぎ見るかのように夢想した。

 煎じ詰めればこの女——少女から女へと変容しつつある一人の善良な自由民女性は、日々に飽いていたのだ。