第1章 子の物語
第8話 エカテリン・メリニコス 二
2026/09/20 11:59 公開
カーシャは母に、ニコビルグ駅から河岸市場に向けて近年再開発が進んだ盛り場「百貨廊」へ、女学校時代の友人と連れだって買い物に行くと告げていた。
悪くない言い訳だった。
「百貨廊」は富裕な平民や中級官僚貴族を客とする上品な商店が軒を連ねる回廊である。そのような商業区は他にもあるが、最新の「百貨廊」において特筆すべきは路地全体をすっぽりと覆う鉄骨と硝子の庇の存在である。半円状の屋根の下、客は半端に溶け出した雪の泥濘に気を取られることなく、快適に多くの店を見て回ることができるのだ。メリニコス家が居を構えるヴォル川南岸の自由民居住地区と隣接した、比較的まともな繁華街であった。
ボリシェールが借りてきたとおぼしき橇馬車は黒い塗装が所々はげて少々やれた風合いだが、車体は頑強そうな厚みを感じさせるものだった。どこかの金持ちが売り払った中古品なのだろう。
客室から降りてきた男の姿は、お嬢様を見送りに出たメリニコス家の召使いに少々奇異な印象を残した。その者自体はよく知っている。お嬢様がご友人方とささやかな夜宴を楽しまれた後、彼女を無事家まで送り届ける命を受けた、どこかの家の召使いとして。
よって問題は、その召使いが御者の席からではなく客室から出てきたことにある。それは明白な怠業、思い上がりであった。にもかかわらず、遠目には普段と一切変わることのない青年が、この日に限ってはやけに相応しく見えたのだ。客室に在ることに。
一方、カーシャが目にした男の装いは、いつもよりもほんの少しまともなものに見えた。
外套は黒い綿の素材に変わりはないが、普段身に纏ったつぎはぎだらけの着古しよりも幾分か新しい。首元には薄ら焼けた、しかし繊細な刺繍が一面に施された白い大判布が巻かれている。
全体的に、お世辞にも立派なものとはいいがたい。貧者が何とか用意できる上限といってよいだろう。
「メリニコス嬢。どうぞ」
男は女の手を取り、踏み台を使うのを助けた。
カーシャの嗅覚は刹那、微かな香油の痕跡を捉える。重く華やかな、溶け出した黄金の如きそれは、まだ昼間というのに早くも揮発しつつあった。
ノーレムリア人は貧富性別を問わず、総じて蒸し風呂を好む。大都市ニコビルグには、王宮の一室と見紛うほどの豪華なものから路地裏の貧民窟といった体の小屋まで、大小無数の風呂屋が存在する。
恐らくボリシェールは前夜、どこか馴染みの店に行ったのだろう。日々の垢を汗と共に落とし、香油を塗り込めた肌。比較的丁寧にそられた髭。
手指を触れた瞬間に、カーシャはこれらすべての変化を体感した。正確には空想した。
「ありがとうございます。ご丁寧に。ボリシェール」
「いいえ。私の不躾な誘いを受けて頂いた以上、しっかりとお持て成しをせねば」
男は気負うところなく、到って平静にサンテネリ語で答えた。
先日とうって変わって単語一つ一つを明瞭に聞き取れたことに気づいたカーシャは、隣に腰掛ける男にあらためて遠慮がちな視線を投げた。彼我の身長差からすれば、見上げた、と表現して差し支えのない眼差しである。彼はカーシャの能力を慮り、敢えてしゃべる速度を落としている。
ゆえに女の頬は薄らと紅をさす。
一月前であれば「侮られた」と心底気分を害したであろう彼の〝配慮〟が、今はなぜか、とても心地よく思われた。
「カミーチィ、頼む」
「応よ。同志。それにしてもボリシェール、今日随分とめかし込んできた理由がやっと分かったぜ」
「ああ。こんな可愛らしいお嬢さんをお連れするんだ。いつもの見苦しい形はちょっとな」
「ちげえねぇ」
客室と御者席の隔壁を切り抜いた小窓を通して飛び交う会話は、一転して砕けたものだ。
ボリシェールが語りかけた御者——カミーチィは「石」を意味するその名にふさわしく、鋭角な岩塊のごとく重い声をしていた。
二頭立ての橇馬車が動き出す。
カーシャは硬い木板の座席で不思議な緊張感に包まれて在った。すべてが変な調子なのだ。
上品なサンテネリ語を流ちょうに操る若き貴公子と、カミーチィなる、恐らく解放隷農か下層民の男と親しげにノーレムリアの田舎言葉を交わす解放隷農。
隔絶した存在であるはずの二者が、ボリシェールという一人の男の中に併存している。
「ねぇボリシェール、そちらの方はお知り合いですか?」
「ああ。あんな石のように怖い顔をしているが、実際は気のいいやつだよ。今日もこうしておれの頼みを引き受けてくれた」
「この馬車ですね。お高かったでしょうに」
カーシャは座席の使い込まれた木材を撫でる。鈍く光り、触れる肌に抵抗を残すその様子は、表面に何らかの油脂がゆり込められていることを示していた。
「必要な出費だから、こればかりは仕方ない。先触れを出す余裕がない以上、門前払いを避けるためには」
「じゃあ、今日はお約束していないんですか?」
「もちろん。おれは北岸の繊維工場に勤める工員に過ぎない。先触れに出す従者なんていない。おれに従う者なんて、工場の犬くらいのものだよ」
しかるべき立場の人間が他家を訪問する際には先だって人をやり予定を告げるのが礼儀である。急な来訪もないではないが、それは主人と客の間に確固たる関係性が結ばれている場合に限られる。
「ということは、時折顔を出されてるんですね。オーリフのお屋敷に」
カーシャがそう解釈するのは自然のことだった。
どれほど巨大な商会の主も夜会で出会えば歩を譲るニコビルグの名士オーリフの家に先触れなく訪問したところで門前払いされるのは明白である。
だが、傍らに座る男が泰然とした調子を崩さないとなれば、両者は既に親密な仲——なにしろ母の実家だ!——を築いているはずだ。
「いや、もうずっと、何年もご無沙汰だよ。屋敷の場所すら覚束ないほどにね」
しかしボリシェールの答えはかくも驚くべきものだった。
「おいおい、ボリシェールよ! 大丈夫なんだろうな。官区の目抜き通り沿いっていうが、おれは分からねえぞ。官区なんぞご縁がねえんだ。一体どれだけあるんだよ、通りが」
「ああ、一度下見に行ったから確かだ。一番大きな、聖木通りを目指してくれ。そこからはおれが案内する」
「聖木通りか。それなら問題ねぇ。——我らが麗しのニコビルグ! 麗しのニコビルグ! 神は示せり、かの豊穣の地を。聖なる大木目印に……」
御者席からカミーチィが歌い出す。返答の代わりに。
ニコビルグ創建の際、候補地を求めてヴォル川沿いを検分したニコルス一世は、河岸に独り堂々と聳える大木に目を留めた。そして神託を受けたという。「この地に都を」と。神の御裾の下に。
聖句典にも同様の逸話があることを思い出した若き皇帝は即決したと伝えられる。
今日のニコビルグ、ヴォル川南岸の川沿いに建つ王宮正殿を起点として南方に放射線状に広がる官区は、まさにノーレムリア帝国の心臓であり頭脳である。各官房が軒を連ねるのは当然のこと、先帝の遺産——忌まわしき、あるいは誇るべき——〝評議会〟の議場もまたその一角に存在する。
この官区の中央を南北に貫く大通りこそが聖木通りである。
先触れの有無など気にもかけず、調子外れの民謡をがなるカミーチィを尻目に、カーシャは内心の不安を押しつぶそうと必死だった。
門前払いなど恥ずかしいにも程がある。そんな顛末が噂にでもなればメリニコスの家名に傷がつくのは明白だ。下賤な元隷農に言葉巧みに騙され、はしたなくも連れだって馬車に乗ったあげく、無様にもオーリフ家の従僕達に追い散らされるなど。
「ねぇボリシェール。あなたの言葉が真実であると誓ってください。分かっていますね? 元隷農のあなたが、このメリニコス家の娘を欺いたとなれば……」
女の瞳は小窓から這い入る光を受けて殊更に赤く染まって見えた。
ボリシェールは返事の代わりに横目で女を見た。
しばしの沈黙を経て、彼は口を開く。
「きみは言っていなかったか? かつて〝党〟の集会で。見事に。堂々と。人は皆等しい、と。その思いに変わりはないかな」
「ありません。その証拠にこうやって、あなたに付き合ってあげてるでしょう」
「ありがたいことだ。ついでに一つ聞きたい。——きみは信じるか? その、元隷農の言葉を」
男はゆったりと問うた。
そこには詰問の色はない。疑念を抱かれた怒りもない。無知故の空虚もない。
ただ、分厚い毛布で女の四肢を包み込むような、柔らかい重みだけがあった。
「ボリシェール。……あなたを信じようと思います」
◆
体面喪失を恐れるこの哀れな女の不安は半ば的中し、半ば外れた。
大通りの道沿いに切れ目なく立ち並ぶ二階建ての白い建物は、それ自体が居室であり、かつ外壁の役割をも果たす。領地に本邸を持つ富裕な貴族達が首都滞在中に使用する屋敷としては恐らく最大のものの一つだろう。
正面玄関の巨大な木戸は、開け放てばどれほど豪華な馬車も難なく呑み込んでしまう。外壁を越えて内奥に踏み入れば贅をこらした中庭が広がっている。さらにその先に本宅がある。
メリニコスとて一角の財産を蓄えた家だが、所詮〝市民〟の上流に過ぎない。
今彼女が車窓を通して眺める屋敷は、貴族としての歴史こそ浅けれど先帝の寵臣として国家の財政を握った大物の住まいだ。その規模は比べるべくもない。
数代前にレフ王国から移住してきた商人の一家がごく短期間に築き上げた富。それがどこからやってきたのか、言葉を換えればどこから引っ張ってきたのかについて、彼女は疑問を覚えなかった。
しかし、門前に停めた馬車から一人降りようとする男の呟きだけはしっかりと耳に届いた。
男——ボリシェールは御者を務めるカミーチィに少し待つよう告げると、一拍の間を置いて長く息を吐いた。
そして吐き捨てた。「なんと素敵な家だ」と。
全ての要素が互い違いに感じられる。
台詞は屋敷の壮麗さを賛美しつつ、口調には侮蔑の色が乗る。そして表情はといえば、真正そこには何もなかった。
男は馬車を降り、正門脇にある通用口から表れた従僕とおぼしき男に歩み寄ると何かを語りかけた。カーシャはできることならばその会話を聞きたいと望んだが断念せざるを得ない。邪魔が入ったのだ。御者席から。
「……お嬢さんは、どんなお知り合いなんで? あいつと」
「知人の所有する工場で、彼は働いているの」
カーシャは言葉少なにそう答えた。
真実を話すことはできない。
何しろこのカミーチィなる男、短躯の、しかし石塊のように凝縮された密度を感じさせる肉体を外套で覆う下層民と知り合って一刻も経たない。身元も分からぬ存在に、自分たちがある種の秘密結社の同志であるなどと伝えようものなら、その後で何が起こってもおかしくはない。明日の食い物にありつくためならば親でも子でも売るのが下民の習性である。
それが真実か否かは重要ではない。彼女がそう理解していたという事実、厳然とした事実だけがある。
「それで、あなたはどのような?」
こちらが話したくないときは相手に語らせればよい。それはありふれた会話の技法に過ぎない。だが、彼女にとって技巧以上の意図が皆無であったとは言い切れない。自身が見知らぬボリシェールの姿に興味が無いなどとは。
「まぁ、なんというかね、昔なじみとでも言えばいいんですかねぇ」
まるで大したことはない。どうでもよいこと。そんな印象を与えるためだけに装われた気の抜けた答えは、かえってカーシャの好奇心を煽った。
「昔って、どれほどでしょう? 知り合ってもう何年も経ちますけど、彼はずっと工員でした。カラハン工場の」
「……じゃあ、その前でしょうや。きっと。あいつがその〝立派な仕事〟にありつく前だ」
「工員になる前、ですか。彼は何をしていたんです。今の〝まともな職〟につく前に」
「さぁ。〝まともな職〟につく前ってこたぁ、まともじゃない職についていたか、それとも職についていなかったか。どっちかじゃねぇかなぁ」
居室と御者席の仕切りを切り抜いた小窓から見えるのは、男の後頭部だけだ。それは手持ち無沙汰に飽いて右に左に揺れていた。
「ボリシェールは……あなたのようなお仕事をしていたんですか?」
「俺のような? ていうと、俺が何をしているか、ご存じってわけですかい」
「御者、でしょう?」
「おうおう。なるほど。そうだ。そうですよ! そう言っていい。たしかに俺は御者だ。このぴかぴかの、大層ご立派な馬車の」
徐々に投げやりになっていくカミーチィの返答は明らかに女を苛立たせたが、一方で、如何に下民相手とはいえ少々不躾な、つまり前のめりに過ぎる問いを続ける無作法をも自覚させた。
カミーチィは時間つぶしの問いを、半ば礼儀として寄越したに過ぎない。証拠に彼は、既にこの面倒な会話に飽きている。
「それにしても、ボリシェールは不思議な人ね。いつもぼんやりしているのに、ときどき……」
「ぼんやりか。たしかにあいつはそう見えますわな。ぼんやり。いやいや、いい言葉だ」
「そう見えるだけ? では、本当はぼんやりしていないの?」
「どうでしょうねえ。俺にはとんと分かりませんや。ただ一つ言えるのは……」
男の言葉はそこで途切れた。話題の対象が戻ってきたのだ。
「お待たせしたかな」
客室に乗り込み、先刻までと同様カーシャの対面に腰を下ろしたボリシェールは、静かに告げた。御者に。あるいは知人に。あるいは旧知の友に。
「構内に入れてくれ。正面につけたら戻ってくれて構わない。明日にでも巣に寄るから、払いはそのときに」
「おう。そりゃありがてえが、帰りはお連れ様とそぞろ歩きかい?」
「いや、帰りの馬車は先方が用意してくれるだろう」
「話はついたってわけだ。平気な顔をして、まぁ大したやつだよ。俺はときどき思うね。おまえはボリシェールじゃなくて、ボリシェールなんじゃねえかって。あの晩からずっと、密かにそう思ってた。とんでもねえ度胸を備えたやつってのは、傍からは何も考えてないように見える」
馬の尻を軽くつつき進めながら謎かけめいた台詞を吐く友に、肩をすくめる仕草で青年は答えた。
「カミーチィ。きみの観察はあべこべだ。何も考えてない人間のことを、人は度胸があると勘違いする。度胸なんてその程度のものだ」
緩やかに速度を落とし、やがて完全に停止する馬車の動きと連動するかのように、ボリシェールは語を結んだ。
「さぁ、メリニコス嬢。行こうか」
そして女に語りかけた。絹のように滑らかな言葉で。