タテガキ

第1章 子の物語

第9話 マレク・ヤシコフ・オーリフ 一

2026/09/27 17:25 公開

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 小規模な客間に通された二人は、勧められた単座の椅子にそれぞれ腰掛け待った。
 表層には平穏な午後である。だがカーシャの心内は隅々まで強ばり、一向にほぐれる気配がない。
 鮮やかな、深い紺の天鵞絨びろうどが張られた椅子が身体に与える適度な硬さは心地よくも、自身の場違いを感覚で教えた。

 視線の置き所を探してボリシェールを見れば、なんとも見事にくつろいでいる。
 明るい茶の革張り椅子はその長身さえ十分に受け止める。事実、椅子は彼のために仕立てられたかのように在った。
 カーシャの視線に気づいた青年は、眉を軽く上げ、おどけた表情を作って返す。その様は女に再び名状しがたい感情をもたらした。怯える主人をなだめる大きな犬か。それとも、怯える少女をなだめる大人の男か。
「昔何度か訪れたことがあるが、ここはもっと大きく感じられた気がする。それが今となっては、なんとも適度な小部屋だ」
「いつ頃のことでしょう?」
「どうだろう。恐らくまだ十にも満たない。正確には覚えていない。……分からないな」
 男の〝分からない〟を何度聞いたことだろうか。その度にカーシャは苛立ちを覚えてきた。だがこの瞬間、オーリフ子爵家の小客間において、その言葉は些かも不快ではなかった。むしろその声色にも口調にも若干の親しみすら覚えた。
 先刻カミーチィなる御者との会話の中で飛び出した〝のんびり〟の形容が、ほどなく実例となって立ち現れたのだから。

 緩みかけた頬。
 しかしそれは瞬時に、再び硬直することになる。
 彼女の背後、部屋の戸口から発せられた、もう一つの声によって。

「是非とも思い出してほしいですね。マクシム・ボリジチ」
 不意に開いた扉から、そんな台詞と共に一人の青年が歩み入る。
 対しては綽然と腰を上げるボリシェール。一拍遅れで続いたカーシャは、連れ合いの視線が指す方向に合わせ背後を振り返った。
「まずはお嬢さんにご挨拶を。当主たる父ヤシク・シモノフに代わって申し上げる。当家へようこそ。エカテリン・メリニコス嬢。オーリフの後継子マレク・ヤシコフ・オーリフだ」
 本来であれば主役たるボリシェールがまず挨拶を交わし、後に彼が同行者としてカーシャを紹介する流れである。しかし予想に反して、手番は突如彼女の方に回ってきた。
 ボリシェールと比すれば大分に小柄な——カーシャとさして変わらぬ背丈の、適度に痩せた青年。几帳面に梳られた髪は黒と称して差し支えないが、ボリシェールのそれが底なしの漆黒とすれば青年のものは灰がかっている。
「その、わたくしは……この度はオーリフ様の……」
 マレク・ヤシコフと名乗った男の語りかけは、当然のことながらサンテネリ語によってなされる。民の言葉ノーレムリア語ではなく。
 カーシャの属するメリニコス家は民の中では上等の部類に入るも、それは飽くまでも平民の中においてのこと。ゆえに母語はノーレムリア語である。たしなみとして貴種の言葉サンテネリ語を学びはしたが、使う機会など女学校の授業以来とんとない。不意の語りかけに対して口ごもるのも仕方の無いことであった。

 彼女にとって、あるいはその場の皆にとってばつの悪い沈黙を破ったのはボリシェールである。
 彼の落ち着いた調子は、かつて愚鈍と思われたものと寸分の変わりもない。だが今、この場においては、羞恥のあまり身を隠すのにちょうどいい巨木のごとく感じられた。
「メリニコス嬢は少々緊張なさっておいでのようだ。というのも、人一倍臆病な私が一人で御家に伺う度胸などあろうはずもなく、彼女の驚くべき寛大さの美徳に甘えて半ば強引にお連れしてしまったのです」
「なるほど。そういうご事情ですか。あなたは昔から、少々引っ込み思案なところがありましたからね。その立派な身体もお変わりない。心身共に幼い頃の面影を今に残しておられるようです。神の御裾の下、あなたの無事と健康を寿ぎましょう」
 恐らく同年代の二人の男は、ごく丁寧に、ごくありふれた会話を交わす。

 純然たる部外者、観察者として、カーシャはその様を旧知の間柄のものと見た。
 わけてもこの館の住人マレクが見せる柔和な笑顔は、ボリシェールの言が全て偽りであり、それが露見した末につまみ出される可能性をいまだ危惧する彼女を深く安心させた。
「マレク・ヤシコフ。あなたが私を覚えていてくださったことを、確かに神に感謝しましょう。もう長く、本当に長く、あなたとお会いしていなかったのだから。その記憶は希有のものです。——ただ、過去の友誼にお縋りして、少々不躾な行為をお許し頂けるならば……」
「もちろん。マクシム・ボリジチ」
「それはよかった。いえ、大したことではありません。少し驚いただけです。自己認識と他者からのそれの隔たりに」
「というと?」
 男性にしては高く柔和なマレクの声が、俄に硬くなる。僅かな差異ながらカーシャは鋭く感じとった。
「というのも、子どもの頃の私は随分と活動的な質たちだったと自認していましたので。私たち兄弟は随分と自由に育てられましたからね。そして背丈もあの時分はまだ小柄であった気がします。——それを、変わりない、との仰りよう。なるほどそのように見えたものかと気づかされた次第です」
「……兄弟といえば、そうだ、マクシム・ボリジチ。あなたの弟君は息災でいらっしゃいますか? 彼とももう長くお会いしていない」
 マレクに比してボリシェールの声は低い。低く太い。
 それを知りながら、それに馴染みながら、なお女は驚きを禁じ得ない。彼の返答は常変わらぬ緩慢な速度にありながら、まさに地の底から湧き出した死者のうめきのごとく耳に響いたのだから。
「マレク・ヤシコフ。残念なお知らせをあなたに告げねばなりません。——ご親切にも気にかけてくださった私の兄弟が、あなたにお目に掛かる機会は決してないのだと」
 返答はなかった。
 ただ、あと少し言を継ぐようマレクが無言で促していた。
 その切れ長の目を、より一層細めて。
「可能性は常にあります。例えば今回は二つ。私が持つことができる兄弟といえば兄か弟のどちらか、あるいは両方です。まず、ご存じの通り、私には弟はおりません。よって、あなたと見まみえる機会はない。一方で兄は居りました。ご存じの通り。しかし今は居りません。彼があなたと再び出会えぬ理由をあえてお話した方がよいでしょうか? あなたの友人であった私の兄がどうなったか。……それを最もよく知るあなたに」

 存在を忘れられた傍観者の立場はエカテリン・メリニコスに貴重な時間を与えた。絶えず湧き出す新情報を整理するための。
 会話を聞く限りボリシェールの本名はマクシム・ボリジチというらしい。
 身元確かな子爵家の後継子であるマレク・ヤシコフがそう呼びかけた以上、自称ではあるまい。となると付姓を堂々と名乗った彼が〝正式な〟貴族の一員であることも間違いない。
 カーシャは安堵に安堵を重ねた。彼女をここまで連れてきた青年が詐欺師である可能性はほぼ消失した。となると、このオーリフ家が母の実家であるという主張もまた嘘ではないのだろう。
 ボリシェール——マクシム・ボリジチには兄が一人居るらしい。否、居たらしい。弟は居ないという。その口ぶりから兄がもはやこの世に居ないであろうことは明らかだった。つまり、ボリシェールには現在兄も弟もいない。しかるべき貴族家の唯一の男子ということになる。

 男達の対峙は長く、沈黙もまた長い。しかし終わりでもない。
 堂々たる巨躯のボリシェールと優美な短躯のマレク・ヤシコフは、一瞬たりとも視線を外さなかった。互いに。
 ゆえに、カーシャはこの機会を捉えて恐る恐るながら会話に加わることにした。ボリシェールが正統な貴種である以上、その彼が連れてきた自分が邪険に扱われることはなかろうとの確信が行動を後押しした。
「皆様。一つ、伺っても……よいでしょうか?」
 口慣れぬサンテネリ語で女は語りかける。誰にともなく。強いていえば二人の男に。
「これはメリニコス殿。我ら二人で盛り上がってしまったようだ。許して欲しい。何しろあまりにも久方ぶりの顔合わせだった。更に言えば、あまりにも唐突な、ね。——さぁ、お聞きになりたいことがあればご遠慮なく」
 マレクの繊細な口元が紡ぎ出す言葉が、優しげに女を誘った。
「ええ。では。とても基本的なことを。……マクシム・ボリジチ様はどちらのお家の方なのでしょう? 実はわたくしどもが知り合ったのは最近のことでして、わたくしはマクシム・ボリジチ様を深くは存じ上げません」
 マレクは虚を突かれたように目を見開くと、カーシャに向けていた視線を再びボリシェールの元に投げた。
「確かに、彼女と真に出会ったのはつい一週間ほど前のこと。ただ、ご婦人の名誉のために付言するならば、一般的な、ありがちな関係性ではありません。それだけは誤解無きように」
「なるほど。しかし、では、お二人はどのようなお知り合いなのか。無礼に当たるかもしれませんが、お聞きしたいところですね。こうして我が家にお迎えしたのだから」
 ここに到り、カーシャは自身の発言が示唆する含意に気づいた。
 ボリシェールと彼女がしかるべき仲——家を通した付き合い——でないのであれば、残る関係性は限られる。貴族の男子と平民の娘が〝個人的に〟付き合うということは、つまり「愛人」として以外にない。
「その、マクシム・ボリジチ様とわたくしは……」
 羞恥に頬を仄かに染めながら彼女は言葉に詰まる。
 何と言えばよいだろうか。
 子爵家の後継子と対等に言葉を交わす間柄の、おそらく高貴な身分を持つ男が、自身の知人である平民の所有する繊維工場こうばで働く工員であるなどとは荒唐無稽にもほどがある。
 しかし幸か不幸か、それこそが事実なのだ!
「マレク・ヤシコフ。それを説明するためには、まず、ひどく込み入った事情をお話せねばなりません。あなたが私を信じてくださるのであれば、これからいくらでもお話しします。ですが、今は彼女の質問に答えましょう」
「あなたがその〝込み入った事情〟を話してくれるのであれば、順序はご随意に」
 マレクは両の腕を組み、小さく首肯した。
 同意を得たボリシェールは女に向き直り、無造作に告げた。

 これまで見事に操った貴種の言葉サンテネリ語ではなく、女になじみ深い民の言葉ノーレムリア語で。

「ブラーギフ。おれの家名だ。カーシャ」


 ◆


 続く会話の中で生じた状況の変転はカーシャを完全な混乱に落とし込む。
 柔和ながら、どこかしら隔たりを感じさせる態度に終始していた小柄な青年が、徐々にその様相を変じていく。
 対するボリシェールは分かりやすい変容を見せない。ただ、明らかに肩の力を抜き、くつろいだ様子が傍からも感じ取れる。
 二匹の犬が互いに警戒しながら近づき、匂いを嗅ぎ合い、やがて友好に到りじゃれつく|様《さま》に、それはどこかしら似ていた。

 マレクはついに、足早にボリシェールに歩み寄ると、勢いよく両腕で彼を抱擁した。そして述べた。
 言葉は流れなかった。むしろ弾けていた。
「やはりマクシムだ! きみは! ——マクシム! きみはあまりにも薄情なやつだ。何年だ? 何年顔を見せなかったと思う? 分かっているか? 僕たちがいかに気を揉んだか。きみは本当に変わらないよ。昔、悪戯に屋根裏に隠れて一晩出てこなかったときと同じだ。いつも僕たちを心配させる。僕と、君の兄カリウスをね」
 回した手で背を何度も叩きながらマレクは言いつのる。
 対するボリシェールはいつもの無表情を捨て、笑みを浮かべた。だが、それは旧友との再会を純粋に喜ぶ体には思われない。
 カーシャが観察する限り、それは苦笑である。
 果たして青年は答えた。
「マレク。きみも変わらない。おれにはそれが嬉しいよ。きみはいつも慎重で思慮深い男だ。昔、悪戯に地下室に隠れたとき、見事な推理でおれを見つけたのはきみだった。そんなとき、兄アレクスは全くの役立たずだった」

 抱きしめる腕に一層の力が籠もる。
 そして緩み、やがて離れた。
 先刻までの落ち着きを取り戻した青年は、無言で客人達に椅子を勧め、自身も一脚に腰を下ろした。
「……すまない」
「気にしないでくれ。おれはなにも気にしないよ。きみはそうせざるを得なかった。多いのか?」
「最近はそうでもないね。だからこそ会おうと思った。久しぶりだったんだよ。マクシム・ボリジチ・ブラーギフを騙る者の来訪は」
「迷惑をかけたようだ」
 マクシムの短い言葉はカーシャの耳に重い余韻を残した。
 所々かみ合わない会話。剣呑な視線。歓喜の素振り。
 それらが意味するところのものを彼女はようやく理解する。

 ノーレムリアにおいて、人の身元を保証するものは他者からの記憶をおいて他にない。査証の類いなど当てにならない。
 オーリフ家はニコビルグはおろか帝国全土に名を知られた富豪の家。とすれば、何かを騙り、懐に入り込もうとする輩は後を絶たないはずだ。ならば用心する他はない。顔かたちさえも、長く会わぬ相手とあっては信用できないのだから。

「君は今、何をしている。もう一つ言わせてもらえば、なぜ今なんだ。さらに重ねて問うならば、君は、——なぜ生きている?」
「生きていない方がよかっただろうか」
「いや。だが、生きているならば、それを知らせてくれた方がなお良かった。できる限り早く、ね。——きみの死をイレナ・シモノヴァきみの母に知らせたのは僕の父ヤシクだ。彼女に残された最後の子ども、つまりきみの死を、僕の父が、兄として妹に伝えたんだ」
「君たちがおれの死をどうやって知ったのか、聞いても?」
「シビリの、郡の役人が手紙を寄越してきた。君が隷農どもを集めては何やらやっかいなことを吹き込んでいる、とね。それは〝大鷲の家レムリス朝〟への不敬であり、皇帝への反逆と見なされる可能性がある、と」
〝可能性〟。
 その語を耳にした瞬間、ほんの一間ひとま、青年の瞳が見開かれた。
 そしてエカテリンに視線を移す。どう思う。そう尋ねんばかりに。

 事情はまるで見通せぬながら、何やら本当に危険なことが語られようとしている。その雰囲気は女の四肢を強ばらせる。これまで彼女が熱心に取り組んできたお行儀の良い「進歩的活動」とは一線を画する、本当に危険なことだ。
「あの……ボリシェール、私は席を外しましょうか。久しぶりの再会でしょうから、お二人でじっくりと思い出話をなさっては?」
 たまらずカーシャは声を上げた。これは本当に危険なことかもしれないのだ。この会話自体が。

 赤茶けた革張りの巨大な椅子は男の身体に良く馴染で見えた。
 深く腰かけ、背を預け、動かない。
 ただ、大きな黒い瞳だけが鈍重に巡った。
「カーシャ。気にしないでいい」
「でも……」
 正直なところ思い出話などどうでもよい。彼女はとにかく立ち去りたかった。
 これ以上は巻き込まれる可能性が高い。遊びでは済まない。
「何も気にする必要はない。——なにせ君は同志トワーリだ」
「それはっ!」
 所属する〝社会改良党〟において、確かに二人は同志であった。同志ボリシェール。同志エカテリン。そう呼び合う仲だ。
 党の会合において、機会さえあれば常に軽んじられ揶揄われたこの大男を、彼女は半ば義務的に半ば義憤の元に庇ってきた。
「その言い様ざまは旧弊を引きずってはいませんか? たとえ元隷農とはいえボリシェールは私たちの同志トワーリなんですよ? 忘れないでください」と。
 思い返せばそれは、自身の周縁的立場——女性という——から生まれた同情であった。しかし、憐憫という美しい覆いの下には不都合な真実が隠されている。
 彼女にとってはボリシェールこそが唯一、庇護下の存在であった。男達の輪から丁重に弾かれるか、あるいは〝お客様〟としてのみ受け入れられてきた女にとって、さらに下の、言い換えればさらに遠くに疎外された彼は、ある種の安らぎをもたらした。

 だが今、状況は変わった。

 愚かな元隷農は愚かな元隷農ではなかった。それは恐らく元からだ。
 愚かな者が賢くなったわけではない。怯懦の者が勇敢になったわけでもない。
 犬が決して狼とならぬように。狼は初めから狼である。

「おれはね、カーシャ。君が同志であると信じているよ」