タテガキ

第1章 子の物語

6猫 二

2026/07/27 07:43 公開

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 客観的には数分の出来事。しかし彼女にはそうは思われない。
 隷農たちの「相談」の行方を見守る時間はあまりにも長く感じられる。

 事ここに至り、カーシャは気づいた。
 自分は非常に危険な状況にあるのだ、と。

 知性を持たぬ隷農どもが後先考えずに獣欲を解き放てば、女一人に抗う術はない。四人に組み敷かれ、犯され、身ぐるみを剥がされ、殺され、うち捨てられる。
 大店おおだなとまでは行かずとも確たる資産を持つ市民メリニコス家の娘がそのような悲劇的犯罪に巻き込まれた場合、官憲は真っ当な使命感を胸に犯人検挙に全力を挙げるだろう。酒場で別れた党員達の証言からボリシェールが容疑者として浮かび上がる。真っ当な取調の結果、彼はその悍ましい悪行を告白するに至る。そして縛り首になる。おそらく他の三人も同様に。

 だが、悪党の隷農どもに罰が下るのは、自分が死んだ後の話だ! 

 今更ながらカーシャは理解した。
 すぐにここから立ち去るべきなのだ。全力で。大声を上げて走りながら。

 にもかかわらず、頼りの足は動かず、声帯は機能しない。むしろ正反対の挙動を示しさえする。
 上質な羊毛で仕立てられた外套の下の、形の良い二本の足は急速に力を失いつつあった。そしてついには身体の重みを支えきれなくなる。彼女は尻から地に落ちた。へたり込んだと表現しても良い。
 永遠と表現しても差し支えないほどに長い時間、彼女は凍り付いた路地に座り込んでいた。

 やがて四人の隷農どもが動き出した。三人が場を離れた。
 そして残った一人が、一人だけが、彼女の方に近づいてくる。

「カーシャ?」
 隷農の一人が自身の名を呼んだ。慌てて顔を上げた女の瞳に飛び込んできたものは、その予想に反して大きな手のひらであった。
 手を差し出している。巨大な男が腰を落として、座り込んだ女の視座に。
「少し待たせてしまった。申し訳ない」
 耳に届く男声を彼女は聞き覚えがある。

——ボリシェール!
 その瞬間、女の認識がすさまじい勢いで世界を捉え直していく。

——違う! 四人じゃない! 三人の男達と、同志ボリシェール!
 つい先刻まで当然のものと考えてきた「世界」に彼女は復帰を果たした。

 ◆

 どうかしていたのだと、そう自分に言い聞かせた。ボリシェールは三人のごろつき共を自分から遠ざけて、穏便な説得によって不毛な争いを避けたのだ、と。
 なんといってもボリシェールは真面目な労働者である。知性の面ではいささか心許ないが、それでも社会改良党の同志達の導きを素直に受け入れ人格向上を目指す、哀れながら善良な男性なのだ、と。

 無言の歩行がもたらす気まずさに耐えられなかったのはカーシャの方であった。
「ねえ、ボリシェール。あの人達と何を話したんですか?」
「大したことは何も。困っているなら明日にでも、まだ明るい時分に俺のところに来てくれと言った」
「あなたのところに? 何をするの?」
「分からない。ただ、何かしてやれるかもしれない」
「分からない? またそれですか。分からないのに呼んでどうするんです、あんなごろつき達を」
 男の口にした〝分からない〟の一言は見事に女の気分を裏返した。苛立ちは後ろめたさを覆い隠すのにちょうど良い。エカテリンは一度解き放たれたその感情を収める術を知らなかった。
「あんなたちがいまだに街路を屯しているなんて、我が祖国ノーレムリアはそれこそ大陸中の笑いものだわ。先進のシュトロワやランデネムにはもちろん、ヴァルシュヴィアにだってあんなのはいませんからね」
 西方の〝文明国〟であるサンテネリの首府シュトロワ、アングラン首都ランデネムはおろか、ノーレムリアと国境を接する〝後塵の地〟の同類レフ王国の首都ヴァルシュヴィアまで持ち出して、彼女は「あんな物たち」を罵った。実際には、それらの都市のどこにも行ったことなどなかったのだが。

 ボリシェールは一人興奮を膨らませる傍らの女に軽く視線を向けた。結い上げた髪がその頭蓋を殊更に小さく見せる。
 事実、男に比して女は小さかった。そして若くもあったかもしれない。まだ少女と称しても違和感がないほどに。
「カーシャ。落ち着いてくれ。彼らも好きでああして屯しているわけじゃない。事実、話せば分かってくれた。証拠に俺たちは今、こうして無傷で歩いてる」
「そうね! そうですね! それもよく分からないわ。なんであれはあなたを見逃したの? どんな取引をしたの?」
 そこには明確な悪意が存在した。つまりは八つ当たりであった。日頃の彼女であれば決して取らなかったであろう態度。なぜなら、ボリシェールは「同志」なのだから。だが、残念なことに、この夜のボリシェールが本当に「同志」であるのかどうか、カーシャには是とする自信がなかった。

 ボリシェールは直ぐには答えなかった。
 理不尽な怒りを回避する術を彼はしっかりと心得ている。それは第二の本性となりつつあった。人生の少なくない割合を哀れな解放隷農シュラーヴァとして生きてきたのだ。そしてこれからも、そのように生きていくのだろう。死ぬまで。

「答えて!」
 女の歩みが止まる。明るい茶の瞳は月明かりの中で一層鮮烈に輝く。
 男はそこに一つの情感を捉えた。あるいは自身に向けられた感情を。敵意といってもよい。女は混乱のただ中にある。

 彼はその様を無感動に眺めた。
 彼には分からなかった。大した出来事ではないのだ。
 命からがら軍役奉仕の地獄から帰ってきてみれば職はなく、物乞いと堕した三人の男達。彼らはちょっとした「お恵み」を願っただけ。ボリシェールは、恐れはおろか、面倒ごととすら感じなかった。よくあることなのだ。幸いにして、彼らは決して無作法ではなかった。理性的といえた。状況を理解できるだけの意識を酔いの中にも保っていた。
「俺の身体は大きい。彼らよりもしっかり栄養を取っていて、活力がある。きみには見えなかったかもしれないが、彼らは痩せて、小さかった。身体に障害を残した者もいた。ただそれだけだよ」
「じゃあ、あなたの巨体に恐れをなして逃げていったということ? たったそれだけのこと?」
「そうだ。俺はただ、何かあれば助けになると言っただけだ」
「つまり、要するに、あなたもあれらと同じなんですね。下民達と。結局なにも変わりません。その大きな身体——暴力をちらつかせて脅したんですから。それは隷農どもの習性でしょう!」
 自分でも何を言いたいのか判然としない。だが黙り込むのは癪に障る。だから口をつくのは意味不明の言葉でしかない。
「じゃあ、どうすればいい? 俺はきみを怒らせたくないよ。だから言われたとおりにする」
 
 男の落ち着いた声は不都合な事実を白日の下にさらした。
 鉄工所を営む歴とした資本家の娘であり、高等教育を受け知的階級に属する女が、取るに足らぬ愚かな解放隷農の男に言い負かされようとしている。

 ボリシェールの口ぶりは女の怒りを更に煽った。無知無学な無産労働者風情に侮られている。そう感じたのだ。
「そんなことは自分で考えて下さい。あなたの方が詳しいでしょうから。ああいう輩の性質に。あなた自身がそうであるように」
 あきれ顔。カーシャは男の眉が微かに下がる様をそう受けとった。事実かどうかは関係ない。確かに彼女はそう思ったのだ。

——侮られてる! 小娘と思われてる! 隷農に!

あなたたちは何も学ばず、獣欲のままに生きていますね。考えるのは汚らわしい欲望を暴力で満たすことだけ! 道理を弁えず理性を持たない獣。そうでしょう? ——ボリシェール。あなたの可愛い猫は本当に死んだの?」
「死んだ」
「本当に? あなたたちはよく動物を殺すでしょう? 憂さ晴らしに。ああ、それとも食べるのかしら? いずれにしても、言葉は正確に使うべきです。——〝殺した〟ことを〝死んだ〟とは表現しないんですよ?」
 彼は無言で女を見下ろしていた。微動だにせず。
 腕を少しでも動かせば、眼下のかよわい生き物は震え上がり、さらに過敏に、攻撃的になるだろう。だから彼が自由にできたのは舌だけである。
「エカテリン・メリニコス。きみはとても賢い。エリーナが死んだというのは正確ではない。——正確には、猫は殺された。流行り病を予防するために衛生局の方がいらしてね。俺たち労働者の寮に。エリーナは首を捕まれて、麻袋に入れられて、警棒で叩きのめされた。エリーナはずっと鳴いていたよ。最初は錯乱して大げさに、最後はか細く。俺に助けを求めて。俺は止めに入って……俺も殴られた。ああ、殴られるのには慣れてる。俺は気にしないから、君も気にしないでくれ」
 ボリシェールの顔には表情がない。全く。
「おれは立派な旦那様役人方の足にすがりつき、血と糞尿に染まった麻袋を返していただいた。寛大な彼らはお恵みをくださった。彼らはおれに蹴ってよこした。それを。猫だったものを。……衛生局の役人たちを恨みはしない。確かに猫はやまいを運んでくることがある。惨事を未然に防ぐのは彼らの義務だ。そうやってこの国ノーレムリアは浄化される。立派な国になるだろう」
 男の声があまりにも平板に、単調に響くが故に、女の興奮は鎮静に向かいつつあった。
「——君もそう思うか?」

 火照った頬が急速に冷えていく。
「その……猫はその……気の毒でした」
同志トワーリメリニコス。国を綺麗にする方法を、君は知っているか?」
「……」
「俺は知っているよ。汚いものを全て殺してしまえばいい
「ごめんなさい! ボリシェール。どうかしていたんです……。いきなりごろつきに話しかけられて、ちょっと混乱してしまって……変なことを、失礼なことを」
 エカテリンは堰を切ったように語り出した。
 先刻男にぶつけた八つ当たりの言葉がいかに非理性的であり、非論理的なものであったか。それに気がついたのだ。
 彼女は事実、大切な同志であるボリシェールを解放隷農——下民と同一視し、侮辱した。ボリシェールは〝汚いもの〟などではないのに。自身の同志であるはずなのに。
 謝罪と取り繕いが為されねばならない。そう感じられる程度には、エカテリン・メリニコスは善良な女であった。

 しかし、彼女の言い訳混じりの謝罪は男の言葉に遮られた。
 半ば独語のそれに。
「ずっと昔、子どもの頃、父が教えてくれた。それを実際にやった世界の行く末を。何千万もの人が死んだらしい。〝汚い〟とみなされた者たちは皆死ぬ。ただ清潔にしたかっただけ——善意の人間が、それを為したと。それは人類の悲劇であり、決して起こってはならないことだと」
「何千万? どこの国のお話ですか? サンテネリにもアングランにもエストビルグにもそんな大事件はありませんよ? 神の御裾の下、この世界が創造されて以来一度も、そんなことは起こっていません」
 冷静さを失いつつあったカーシャだが、男の言葉を世迷い言と断じるだけの正気はまだ残っていた。それは明らかに作り話である。中央大陸が経験した最大の動乱はサンテネリの大改革レフォ ルマシオン・グローであり、新大陸のそれは独立戦争であるが、どちらも死者はそれほど多くない。数千万と言えば国家が丸々一つ消滅するほどの数だ。
 そんな基本的な知識すら持たない隷農父子の口伝が、彼女には滑稽にすら思われた。

 だが、笑い飛ばすことも憐れむことも彼女には出来ない。決して。
 月光を背に受けて闇に沈む、自身と対峙した男の気配がそれを許さなかった。
 カーシャが双眸に収める男の姿は、かつて見たことのないものであったから。

 ボリシェールは図体こそ大きいが、お世辞にも知的とは言いがたい、素直で無口な男であった。事実彼女は彼の佇まいから、主人に忠実ながら少し間抜けな大型の番犬を連想したこともある。
 黒い毛並みの、大きく、おっとりした犬。撫でてやり、餌をやり、構ってやれば懐く。主人に牙をむくことなど決してない、安全な飼い犬。
 だが今、女の身体を丸々覆い尽くす巨大な影を作るこの男は、明らかに彼女の番犬ではなかった。

 犬ですらない。

 それが何であるか理性は判別しえない。
 ただ、全ての生物が備えるもう一つの機能——本能が答えを告げていた。

 狼であると。

 心臓が早鐘を打つ。喰われる。彼女は平らげられてしまうだろう。
 肉を、ではない。

 この狼はおそらく、魂を喰う。

 ボリシェールはカーシャの言葉を聞き流した。それは対話ではない。それは独白である。
ボリス・イリイチが教えてくれたように、ゆっくりと、静かに変えていくことが善なのか。それともアレクス・ボリジチが命を賭けたように、すぐ取りかかるべきなのか。俺には分からなかった」
 青年の言葉をカーシャは理解できない。言語の意味するところを判ずるのは容易いが、そこに込められた意図を知ることは不可能だ。彼女は訥々と語る眼前の男のことを何一つ知らないのだから。どこから来て、どのように日々を過ごしているのかを。何一つ。

 ボリシェールの舌は踊り続ける。ためらいがちに。何が入っているか分からない麻袋の中に恐る恐る手を入れて、中身を探るように。
 否。実は分かっている。つい先刻、昼過ぎに、彼は同様のことをしたところなのだ。袋の中に手を投じ、そこにある柔らかい、茶の毛並みを撫でた。

 まだ暖かかった。

「もちろん第三の道もある。何もしないでいることだ。俺はそれでよかった。俺にはもう何もない。家族も名前もない。世界など知ったことか。だからそれでよかった」
「……ボリシェール? 何を……?」
「だがカーシャ、君はとてもいいことを教えてくれた。確かに〝死んだ〟と〝殺された〟は明確に違う事象だ」

 男は女を見下ろしていた顔を上げ、さらに上げ、大きく上げて空を見た。
 そして言った。

「父は漸進を目指して殺された。兄は変革を求めて殺された。それは仕方がない。それは彼らの行為の対価だ。だが、エリーナは何もしないで殺された。そこに居ただけで。——猫が、殺されたんだ。同志メリニコス」



 ◆◆



 大指導者ボリシェールの生涯とその偉大な業績を物語るとき、避けて通ることが出来ない人物の一人がエカテリン・メリニコスである。
 周知のごとく、同志メリニコスは忌むべき富者——鉄工所の〝不当な所有者〟——の裔として生を受けた。当時、女性が政治的行為に関わることの難しさは現代の比ではない。恥ずべき父権的階級性と富者の生態が女性という存在を著しく不平等な位置に押し込めていたため、真っ当な教育を受けられたのは抑圧側の人間である富者の娘たちだけであった。ゆえに同志の出生の恥は已むなきことと理解する必要がある。
 しかし、カーシャ——ボリシェールは同志メリニコスへの信頼を込めてしばしば彼女を愛称で呼んだ——は賢明にも、長じてこの世界の真理を知り、「党」とその運動に身を投じることとなった。

 同志本人の証言にある通り、彼女は出会いのまさにその瞬間からボリシェールの精神に蔵する気高い魂を感じ取り、心酔した。当時の厳格な身分制に発する差別感情の蔓延を考えるに、特権階級の娘であったメリニコスが最下層の無産労働者たるボリシェールに、当初から絶大な敬意を抱いていたという明白な事実は、圧倒的な活力と知性、そして気高い理想が若き大指導者のうちに備わっていたことの何よりの証左であろう。
 そしてまた、ボリシェールの偉大さを偏見なく感じ取ることができた同志メリニコスもまた、党を支える重要な活動家となる未来に相応しい素質を持っていたと考えられる。

 同志メリニコスの業績は、その仕事の大半がボリシェールの秘書としてのものであったがゆえに、歴史に華々しい痕跡を残してはいない。かの光輝ある冬の蜂起にも、ボリシェール一世一代の決断である富農根絶運動にも、彼女は主導的立場を持たなかった。
 だが、ボリシェールが彼女に、あるいは彼女がボリシェールに送った膨大な私信の内容は、彼女が常に大指導者の忠実な「手」であり続けたことを示している。


『ボリシェール伝』(初等学校版)第二章・抜粋(連邦文化院編集・党出版総局認可)