タテガキ

第1章 子の物語

5猫 一

2026/07/11 01:03 公開

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「猫が死んだんだ。カーシャ」

 定例の集会に珍しく遅れてやって来た男に向けて、エカテリン——カーシャは気軽に理由を尋ねた。すると男は平板な声でそう答えた。
 注意して観察すれば男の外套の裾には土埃が付着している。すり切れた袖口からのぞく両の大きな手は赤みを帯びていた。冷気の中に長く素肌を晒したがゆえであろう。
「そう……。それはお気の毒に。埋めたんですか?」
「埋めた。造作ないことだ」
「造作ないって、この氷の地面を掘って? 大変だったでしょう」
 カーシャは男を請じ入れ、酒場の中央近くに置かれた木製の円卓に誘う。内心戸惑いを覚えながら。
 野良犬や野良猫の死などそう珍しいことではない。それらは途方もない繁殖欲で個体数を増やすが、冬の寒さであっさりと消え、再び増える。それが自然の摂理である。安否を気にする者など誰もいない。にもかかわらず……。

 風変わりな男。元から抱いた印象をエカテリンは補強せざるをえなかった。
「野良ですか? それともあなたが飼っていたの? ボリシェール」
「飼ってはいなかった。少し前に部屋に入ってきて、勝手に住み着いたんだ」
「それでもあなたは世話をしたというわけですね。その……最後まで」
 男は巨体を粗末な木椅子に沈める。黒い蓬髪は乱れ、所々雪の欠片をまとわりつかせている。
 対面に腰掛けた女はじっと男の顔を眺めた。
 茫洋たる黒い瞳はときおり焦点が合わない。渇いてひび割れた唇から発する言葉は常に即物的だ。そこには深みがない。知性の。ただ、事実を事実として語ることしかできない哀れな唇である。
「そのままにはしておけない。死体は放っておけば腐る」
「ええ。もちろん。でも意外ですね。あなたに猫を愛でる優しさがあったなんて。ねえ、名前はなんていうんですか? せめて弔いましょう」
 中身のない、図体だけは大きく頑丈なこの男——ボリシェール愚鈍な巨体とあだ名された男の心内に、動物を飼うなどという高度な精神的営みと余裕が隠されていた事実はエカテリンの興味を惹いた。
 これから酒場の舞台で始まる定例の演説。それまでの暇つぶしにはもってこいであった。

「エリーナ」
「まるで人の名ですね。雌ですか?」
「きっと」
「かわいかったですか? エリーナは」
 場末の酒場は狭く天井は低い。人々が吹き上げた煙草の煙が四方八方から漂ってくる。男は目に這い入ったそれ、その刺激を嫌ってか、両の瞼を閉じた。
「どうだろう。多分。——でもカーシャ。もう忘れたんだ」

 カーシャと愛称で呼びかけられても不快感を抱かない程度に、女は男と親交があった。
 鉄工所を営む富裕な自由民の父を持ち、女学校にまで通った彼女は、自身を一端の知的階層に属する存在であると考えていた。家政に役立つ算術や読み書きに加え、正教の教学、そして歴史まで学んだ。さらに誇らしいことに中央大陸の実質的な公用語として君臨するサンテネリ語を多少読むことすら出来る。
 エカテリン・メリニコス
 二十二歳の女はやがて訪れる——正確には父がもたらすであろう——縁談までの猶予期間を使って、これまで学んだ高等な学問を生かそうと望んだ。つまり、男たちと並んで男たちのように政治や経済を語り、より大きく国家の行く末について議論するという。

 女の人生における最重要事は嫁に行き子を為すことであるとするノーレムリアの常識を鑑みるに、エカテリン——カーシャは少々風変わりな女だった。
 だが風変わりに過ぎるほどでもない。先帝ニコルス五世の治世が都市部にもたらした自由主義の気風は、彼女のちょっとした冒険を苦笑交じりに許容する程度の残り香を漂わせていた。
 女学校を卒業したカーシャは学友に誘われて、ある政治結社に所属した。社会改良党パルティ・ ヴェル・レフォルマシオン・ソシエと名乗るその組織は、党名に母語ではなくサンテネリ語を採用する程度には衒学的であり、上品なものであった。彼らは月に一度新聞を発行することを活動の中心としている。それ以外の時間は、例えばこの日、正教新暦一八七九年二月十日の夜のごとく、行きつけの酒場に集まり議論を交わす。そして時には有志が演説をぶつ。

 政治結社の常として社会改良党の面々は官憲を恐れたが、官憲の方は彼らを眼中にとらえてすらいなかった。ニコビルグは帝国の首都である。彼らのような小集団は掃いて捨てるほど存在する一方で、それを取り締まる警察の人員は潤沢とは言いがたい。故に優先順位が付けられる。党員二十名にも満たぬ「良識的」で「身元確かな」構成員から成る集団など、最後尾に置いて差し支えない。お陰で彼らはその活動を存分に楽しむことができた。薄らと漂う背徳感とともに。彼らが望んだものは非日常ではあったが、真のそれではなかった。あくまでも適度な刺激である。

 富裕な自由民の子女を中心に結成された社会改良党が、一見場違いな一人の解放隷農シュラー ヴァを受け入れたのも、それがまさに適度な刺激であったからだ。
 彼——ボリシェールは党員の一人の家業である繊維工場こうばで働いていた。いつやってきたのかも定かではない、素性も知れぬ男だが、一部の熟練者を除き工員など替えの利く、使い捨ての道具に過ぎない。用が済めば打ち捨てられるちり紙の来歴など、誰が気にしようか。
 ただし、男は比較的ましな道具であった。常に不平を溜め、監視の目を逃れるやいなや不正と怠業を繰り返すのが本性の無産労働者たちの中にあって、定時に職場に現れ黙々と仕事をこなす。監督の理不尽な罵声や杖打に逆らうこともない。
 知性の欠片も感じさせぬ、まさに隷農のごとき勤務態度ながら、なぜか、いつしか、男は労働者たちのまとめ役のような立場を占めていた。不思議なことに、失うものなど何もない刹那的生を送る工員たちが彼の言うことには耳を貸すのである。
 その代わりに、彼は工員たちを代表して些細な交渉ごとの矢面に立つことになった。はじめは監督と。次は工場長、工場主と。そして最後には工場主の息子と知り合い、その「趣味の活動」に誘われたのである。

 若者たちが抱く夢想的な平等思想を満足させるに足る、ちょうどいい刺激として。

 ◆

「ボリシェール! 猫の話なんてしている場合か! 今日の俺の演説は勉強になるぞ。我が国の双肩を押さえつける政経の諸問題を簡便に分析する内容だ。君にも分かるようにするから、ようく聞いておけ。そして君も、そうだな……次の集会では君が話してみろよ。研究の成果を」
 細身の青年がそう言いながらボリシェールの肩を抱く。背後から。丁寧に切りそろえられた金の巻き毛を揺らして。
 カーシャの目には二人の男の容姿は対極に映る。人知れぬ山奥にひっそりと佇む巨木と、宮殿の庭で丁寧に剪定された観葉樹木。
「……ドミトル。あなたとは違って、俺にはそういうのは向かないんだ。語る言葉を知らないから」
 突然の闖入者にボリシェールはさして驚かなかった。自身の肩から首にかけて腕を絡めてくるドミトルの仕草はいつものことだ。
 身体的接触が親密さの証である西方の開明的文化を愛し、そう装うことにご執心のお坊ちゃん。ボリシェールが勤めるカラハン繊維工場の持ち主の息子であり、ニコビルグ商業大学を卒業したばかりの未来ある若者。どこからともなく流れてきた解放隷農にして無産労働者であるボリシェールとは、その依って立つところが天地ほども違う。この先拓けるであろう未来も。しかし、ドミトル・カラハンはそんな些事は気にしない。より正確には、気にしない風を装っている。
「そうかな? 僕には決してそうは思われない。いいか、ボリシェール。人には無限の可能性がある。いくら解放隷農シュラーヴァといったって人であることには変わりがないんだ。だったら君も、根気よく学べばいつかは真理に辿り着くことができるはずだ」
「そうなるといいな。ありがとう、ドミトル」
 ボリシェールは耳元で発せられた「若旦那様」の励ましに、言葉少なに感謝の意を告げる。
 カーシャにはその様がある種哀れにすら感じられた。
 ドミトルの〝装い〟はしばしば鼻につく。しかしボリシェールは無知故に、それに気づかない。愚かであることは罪ではない。それが彼の運命だったのだ。ならば侮蔑ではなく哀れみを与えるべきである。彼女はそう考えた。

「ところで顎のそれはどうした? 工場こうばで?」
 カーシャはそこで初めて気づく。ドミトルが指さす先、ボリシェールの左頬から顎にかけてかすかに赤く腫れているのを。
「いや。……猫を埋めるときに転んだ」
「転んだ! それは不幸だ! しかし君は痛みには慣れてるだろう? 気にするなよ」
 心配する素振りは、結局のところ素振りに過ぎない。女は冷徹な観測者である。その彼女をしても、ドミトルの言葉は少々醜悪に過ぎると思われた。
 社会に何の後ろ盾も持たない無産工員は打擲を受けることに慣れている。だが、殴る側の人間がそれを当たり前のこととして笑い飛ばしてよいものではない。ことに「人の平等」を謳う者であるならば、なおのこと。
「ドミトル・カラハン。もう少し言い方があると思います。同じ党の同志に対して」
 たまらず女は口を挟んだ。それが彼女の倫理であった。哀れな男には憐れみを与えてやるべきである、という。
「それもそうだ。すまなかったな、〝同志トワーリ〟ボリシェール!」
 ドミトルは即座に前言を翻す。
 しかしこの陽気で善性の男は責められるがままでは終わらせなかった。普段好んで用いるサンテネリ語の〝同志カマラート〟ではなく、あえてノーレムリア語で〝同志トワーリ〟と呼びかけたのだ。
 そこに密かな当てこすりを感じ取ったカーシャは瞬間怒りを覚えるが、言われた当人ボリシェールの不器用な笑みがそれを鎮めた。

 彼は静かに、何事もなかったかのように答えた。あるいは何も理解しなかったかのように。曖昧な、何ものを表すことのない微笑を浮かべて。

「気にしないでくれ。——同志カマラートドミトル・カラハン」

 ◆

 夜半、雪は既に止み、空には月が顔を出していた。
 エカテリン——カーシャは軽やかな足取りで大通りを歩く。その繊細な、小柄な肉体を、横を進む男の巨躯が作り出した影が覆う。

「迎えの馬車もないのに、今日もまた、よく来たな」
「ええ。あいにく、うちには一台しかありませんから。父が使ってしまえば、他の者は歩きか〝乗り合い〟しかありません」
「乗り合いを使えばよかった」

 男にはそうぼやく権利があった。
 日が暮れてしまえば乗合馬車は走らない。予約を入れて貸馬車を手配可能とはいえ、それ相応の金がかかる。ゆえに彼女は夕暮れ時、徒歩で酒場に現れた。
 女一人で街を歩くのは褒められた行動ではないが、日中であれば風聞以上の問題はない。しかし夜は別だ。物理的な危険がある。それを防ぐためにはお付きの者が必要だった。
 カーシャは普段、「党」の会合に参加する際の送迎に実家の馬車を使う。だが、この日のように都合が付かないときは徒歩だった。それは一個の冒険である。いずれ訪れるであろう逼塞した人生へのささやかな反抗である。彼女はそこに自由を見いだすがゆえに、家族の反対を押し切って街に出る。一人で。

 大胆な冒険行の終わり、日が暮れた後、彼女を家まで送り届ける役目は常に、ある特定の党員に回ってきた。ボリシェールである。
 同志カマラートたちは皆、彼が適任であると言った。周囲を圧する長身と頑強な肉体を彼が備えているから、と。他に理由はない。なぜなら、彼が解放奴隷シュラーヴァであり身分違いの存在であるがゆえに、自由民のお嬢様の従者にちょうどいい存在であることは自明の、所与の事実である。人は当たり前のことを理由としてあえて述べない。
 例外はない。カーシャもまた、ボリシェールが自身を無事家まで護衛することを当然と考えていた。

「ねぇボリシェール。こうやって夜道を歩くのは、女にとって、とても楽しいことなんです」
「ただ疲れるだけに思うが」
「その疲れが心地いいの。身軽な男のあなたにはたぶん分かりません」
「確かに俺には分からない」
 石畳に薄く張り付いた氷の層を女は長靴の踵で蹴り込む。微細な粒子が月光を受けて微かに瞬いた。
「前から言おうと思っていましたけど、あなたには〝分からない〟が多すぎます。ドミトルが先ほど言ったことだって、口ぶりはさておき、そう間違ってはいませんよ」
「どの話だろう」
「つまり、あなたはもっと熱心に学ぶべきだということです。今日の彼の演説でも触れられていましたね? この世の不幸と不正は常に無知から来るものです。農民たちや解放隷農シュラーヴァ……その……新たに加わった臣民たちだって同じ人間なんですから。法学と経済を学んで世界の仕組みを知れば、必ず真理に辿り着くはずです」
 カーシャの丁寧に結い上げた深い茶の髪は、一つの球体を成して前後にかすかに揺れた。その言葉を自分に言い聞かせ、強いて納得せんとするかのように。
「彼らが奪われているものは土地の権利や自由ではありません。まず知性を奪われているんです」
 女の赤茶けた瞳は、街灯の弱々しい灯りを吸って煌めいた。そこには一つの使命感があった。隣を歩くボリシェール愚か者を教化してやらねばならないという。

「気を悪くしないでほしいんだが、カーシャ。一つ疑問がある」
「何かしら?」
「彼らは——その、おれたち労働者は“いつ”それをすればいいんだろう」
「それ?」
「学ぶことを」
 ボリシェールの言葉には純粋な疑問の色があった。少なくとも女はそう感じた。
「いつって……仕事の合間に。それに夜も。休日だってあります」
「それは簡単なことかな」
「ええ。賢くなりたい、善く在りたいと願うなら簡単なはずです」
 カーシャにとって、それは自明のことであった。
 人は人として尊重されるべきなのだ。そのためには、人は人未満であってはならない。
 先進の西方諸国の研究によると、驚くべきこと、彼女たち自由民はもとより、ニコビルグの冬宮に住まう〝大鷲の家〟の主皇帝ですら、解放隷農たちと寸分変わらぬ肉体を持つのだという。仮にその説が真であるならば、人と人未満の存在を別けるものが知性である。となると、努力でなんとでもなる。人未満の者たちは、皆その悲惨な境遇から抜け出したいはずなのだ。
 しかし残念なことに、彼らは行くべき道を知らない。だから教えてやる必要がある。カーシャやドミトルのような知的階級に属し、かつ〝善良な〟人間が彼らを導いてやる必要がある。根気よくそれを続ければ、いずれノーレムリアは西方諸国のような「立派な国」になるだろう。
 つまるところ、それは彼女が属する社会改良党の理念であり、ニコビルグにひしめく〝進歩主義者〟たちの総意であった。

 ◆

 大通りの枝葉、脇道に入ると周囲は一気に光を失う。街灯はない。
 二人の行く手、道の端にうずくまる複数の人影はほどよく暗がりに馴染んでいた。だからだろうか、月光の残滓がうずくまる数人の男たちを掠めたとき、カーシャは思わず息をのむ。

 それは原初の感情であった。女たちが男たちと接する際、常に潜ませている微量の不安。肉体の差異、強弱は如何ともしがたい警戒心を生む。
 そしてもう一つ。意識の裏側に、もう一つの恐れがある。男たちの纏う粗末な外套は、自身と彼らの生きる世界が全く以て異なるものであることを瞬時に知らしめた。それは「階級的恐怖」とでも名付けるべき思いかもしれない。異物と遭遇した際に惹起される感情である。

 だが、幸運にもこのとき、彼女の傍らにはボリシェールがいた。
 実際には幸運などではない。帝国の首都として最良の治安を誇るニコビルグとはいえ、日が落ちてなお女の一人歩きを許容するほどの清潔さはなかった。よってカーシャにとって、ボリシェールは必要な道具であった。その「自由」を謳歌するために。

「そこな旦那様、お嬢様。どうかお恵みをくだせえな……」
 焼けて掠れた、しかし揶揄いを含んだ声が二人の横顔にかかる。
 何もなかったかのように、普段通りに、あたかも互いが互いを認識せぬかのようにすれ違い、別れようとした二つの集団は、その一言をきっかけに交わることになった。
 カーシャは答えるべきだった。
 路地の一角で古びた集合住宅の軒先を借り、けだるく屯する男たち。彼らこそがまさに、彼女と党が教導し救うべき者なのだから。しかし結局は使命よりも習慣がまさった。彼女は無産の貧民どもと語る経験を持たない。
「あいにく持ち合わせがない。何か助けてやりたいところだが」
 代わりに口を開いたのはボリシェールである。無言で立ちすくむ女をその背に隠しながら、彼は落ち着いて答えた。それが彼に与えられた役目であった。たとえ役目でなくても気負うことなどなかっただろう。それが彼の日常なのだから。
「でもね、旦那。旦那よ。あんたはあったかい服を着て、別嬪の、匂い立つような若いお嬢様と歩いてる。おれたちは寒空の下、むさくるしい男ばかりで座り込んでる。——それはあまりにも不公平じゃねぇですか」
 皺になった帽子の下、舌の回らぬあやふやな口調で言いつのる男は明らかに酔っていた。襤褸とさして変わらぬ灰の外套を纏った、小さく、痩せた身体。着古された軍服。往時は輝かしく糊がきいていたはずの生地は、今やよれて見る影もない。
「言いたいことはわかる。俺たちは仲間トワーリだ。でもお互いのために、今日は静かに別れよう」
仲間トワーリ? 仲間だと?」
 事の帰趨を見守っていた男たちの一人が吐き捨てる。
「そうだ。おまえたちの前に〝旦那様〟なんていない。よく見てくれ」
 ボリシェールは手を広げ、じりじりと距離を詰める男たちに自身の身なりを露わにした。継ぎの当てられた黒い外套は、長年の酷使を経て色を失いつつある。一目に分かる質素な出で立ち。
 三人の男は静かにそれを眺めた。潰すべき鶏を品定めする牧場主のごとく。あるいは、仲間ト ワーリを嗅ぎ分ける野犬のごとく。

 月光はボリシェールの顔を陰影豊かに描きだした。
 屈強な、のみで荒々しく削り取られた大理石の如き頬を。中程から微かに曲がる鷲鼻を。そして、太い眉の下に埋め込まれた眼球を。黒い。
 青年は一歩、また一歩、ゆっくりと、その動きを誇示するように男たちの元へ近寄っていく。無意識に、弱々しく後ずさるカーシャと対照的に。

 女はボリシェールの背中を注視した。せざるを得なかった。
 この夜の路地において彼女を守ってくれるものは彼をおいて他にない。命綱ともいえる存在が自身から遠ざかっていく状況に恐れを抱いたとて不思議ではなかった。

 カーシャ——エカテリン・メリニコスはそのとき、不思議なものを視界に捉えた。

 男たちを押し返すように彼女から遠ざけるボリシェール。
 低いささやきの応酬。
 半ば暗がりの中に消えた男たちの姿。

 彼女は両腕で自身の身体を強く抱きしめながら、注意深く事の推移を見守った。唾を飲み下す音すら耳の奥に響く。
 微かな月光は気まぐれに男達を照らし、気まぐれに隠す。

 不意に女は見た。
 四人の男が、八つの眼が、彼女を見つめている。

 本来であれば、彼らは三人と一人であるはずだった。三人の浮浪者と、党の同志であり勤勉な労働者であるボリシェール。三人は敵手であり、ボリシェールは彼女の護衛である。
 だが、意識がどれほど糊塗を望もうとカーシャの内心は認めざるをえなかった。彼女の目に映った四つの人影が一群をなして見えるという事実を。
 それは彼女の「認識」そのものであった。

——隷農シュラーヴァたち。

 脳裏に浮かぶ言葉を彼女は誤魔化すことが出来ない。
 それは自分の思考そのものなのだから。

 カーシャは明らかに、ボリシェールを認識しなかった。
 そこに見いだしたのは四人の隷農であった。