タテガキ

序 父の物語

8シュラーヴァ エリーナ 後

2026/06/14 01:46 公開

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「臣民の身分に関する勅令」
「私有地滞留農民の移動に関する布告」
「私有地滞留農民に与えられる不動資産に関する布告」
「不動資産取得を望む私有地滞留農民を対象とした補償金に関する布告」

 挙げていけば切りがない。君たちも学校で習っただろう。矢継ぎ早に発せられた政令の束について。
 ここで一つ一つを書き記すのは止めにしよう。教科書を読めば事足りるのだから。ただし、注意深く、もう一度読んでほしい。事実と価値判断を切り離して。事実は不変だが、価値判断は変わる。ある時代に善いとされたものが、ほんの十年後には悪いとされる時代を私たちは生きている。だから事実だけを見るといい。

 私は自身が携わったことを、自身の視座から書こう。
 私、というよりも、私を含むニコルス青年の内輪サークルが隷民解放について議論してきたテーマは非常に多岐にわたる。当然のことながら最大の問題は既得権者(つまり、隷民達の持ち主である貴族と正教会である)を納得させる方法とその実現可能性だった。国家が個人の財産を取り上げるのだから、その補償が為されねばならない。
 もちろんノーレムリアは専制国家なので、有無を言わさず収奪することは不可能ではない。日本に生きた私にはとても不思議なことに思われるが、そもそもこの国には憲法が存在しない。法は時々の皇帝(とその官房)が発する勅令や政令が全て。相互に矛盾した数百年以上にわたる命令と個々の判例が社会の規範となっている。それらをまとめた「帝国法大典」は存在するが、「まとめ」以上のものにはなりえなかった。皇帝の命令を法の基盤とする以上、過去のものとはいえ、それを改変することは皇帝の権威を侵しかねない行為であり、そう簡単に進められるものでもなかった。
 では収奪すれば済むかというと、そうはならない。相手は貴族達なのだ。彼らは皇帝の権力基盤そのもの。無理を通せば全員にそっぽを向かれて終わりだ。ゆえに皆を「ある程度」納得させる補償が必要となる。当然のことながら、貴族も正教会も一枚岩ではないので、個々に温度差がある。ノーレムリア帝国の更なる西方化のためにどこまで犠牲を払えるか、程度の違いだ。
 これを読み誤ると大変なことになる。我が国はどこからどう見ても専制君主国である以上、皇帝の命令に対して不服従を明言できる者はいない。そういう「建前」の国家なのだ。さらに、現実にも、西方諸国に比してかなりの程度まで理不尽を呑み込むのがノーレムリア貴族の流儀だ。なにせ我々貴族は奴隷頭なのだから。しかし裏返せば、我慢が限界を超えたら破局まで一気に進む。奴隷達が取れる行動は反乱か縛り首の二択である。
 ゆえに人々の「温度感」を探ることが重要になる。果てしなく、我慢強く、さりげない聞き取り調査を続けなければならない。「建前」の下にある本音を引き出し、相手が我慢できる極限を探る営みを。本来であればより長い時間をかけて、段階を踏んで、ゆっくりとやるべきことだった。
 だが、「海の戦争」が全てを変えた。性急すぎると分かりながら、手を付けるしかなくなってしまった。変化を求める社会の要請によって。

 隷農解放に対する補償が西方化改革の中心だとすれば、この大事業を支えるもう一つの重要な政策が教育政策だった。
 長期的な視点で見れば、むしろこちらの方が核であると言っても過言ではない。隷農を解放しなければならない理由は、「人」を増やすことにある。「人」とはつまり、主体的に社会に参画し、経済を回し、何かあれば武器をとって国家のために戦う存在である。このような「人」は野原から勝手に生えてくることは決してない。栽培する必要がある。私たちはそのための農園を整備せねばならない。
 では、どんな農園を作るべきだろうか。
 単純な話だ。私たちが必要としているのは優れた人ではない。ただの人である。つまり、大学でも高校でもなく、小学校が求められた。三角形の頂点を高めるのではなく、底辺を長く取ることが。
 それは自明のことであるにもかかわらず、皆を理解させるのは意外にもかなり難しかった。内輪サークルの中心ニコルスはじめ、ほとんどの者たちは中等以上の教育機関を充実させることに気を惹かれていた。
 教育改革を隷農解放と同時に行わねばならない理由は、着の身着のまま何も知らずに世間に放り出される隷農を、少なくとも次世代の彼らを「人」にするところにあるはずだった。にもかかわらず、皆頭では理解しながら、心ではそれを恐れた。はっきり言ってしまえば、「民に知恵を与えたくない」というのが、私を除くほぼ全員の本音であった。
あれはそもそも根本的な精神力がおれたちとは違う。哀れなほどに〝魔力〟が足りぬ、別の生き物だ。そう! おまえもたまには領地に帰ってよくよく観察してみろ! 酷いものだぞ」
 まだ学生だった頃、アレクシスが言い放った一言はとても分かりやすい。
 前に書いた通り、彼はその「素振り」に反して真っ当な常識人だ。ここノーレムリアにおいての。つまり、彼の言葉は我々の社会の常識であった。誰もその存在を信じていない〝魔力〟などという概念さえ当然のごとく顔を出す。もはや理屈の問題ではない。
「足りないのは〝魔力〟じゃないだろう。きみはそれを本当に、心から理解しないのか? 彼らに何が足りないのかを」
「ボリス。言いたいことは分かる。分かるよ。おまえの言葉を聞きすぎて、それはもはやおれの身体に刻み込まれたかのごとくだ。おまえのこだわりはよく分かるぞ。大抵のことには分別があるおまえが、この類いの話になると途端に頑固になる。一体なんなんだ? どこからそのこだわりが湧いてくる?」
「確かにそう映るかもしれないが、現実は見えているつもりだ。私だって一足飛びに実現したいわけではない。君たちが主張するように、高等学校の充実はいい案だ。認める。そこが弱ければ巡り巡って小等学校の制度も機能しなくなる。だから、つまり力点の問題なんだ。目的に照らせばどちらもやるしかない。私が問題視するのは限られた資源をどう分配するかだよ。何度も言うように、それに尽きる」

 高等学校の拡充を彼らは求めた。ノーレムリアの全州に渡って最低でも一校は設立したいと。そうすれば西方諸国に比して明確に立ち後れた我が国の知的階層を一気に増やすことが可能になると。理屈の上では確かにその通りだった。
 高等学校に分類される帝立学院と帝立女学院は、当時ニコビルグやモカヴァ、ノーヴィウムなど、首都とそれに準ずる巨大都市にしか存在しなかった。生徒達の多くは貴族であり、当然のことながら、その絶対数は国家の総人口に比して圧倒的に少ない。学院の卒業生の少なからぬ数が大学に進み、卒業後は官僚となる。

 近代国家の骨格となる官僚機構の脆弱さはノーレムリアの代名詞となって久しい。貴族の終身奉仕制により、かつては西方諸国に対して優位を誇ったものの、西方諸国で平民が知的階層として確たる力を持つようになった現代においては、明らかに見劣りする貧弱な存在へと転落してしまった。それもそのはず、貴族と平民では絶対数に差がありすぎる。
 他国と釣り合いを取るために中央こそ比較的ましな外観を備えているが、地方行政は文字通り壊滅的な有様だ。行政単位としての州があり、そこには州政庁があり、長官がいる。形式は整っている。だが実体は目も当てられない。要するに、その州の大半を領地として占める貴族の家人たちが何から何まで差配している。
 かつて授業の余談として日本の廃藩置県について軽く触れたことがあるが、その際、生徒の一人が鋭い質問を投げてきた。「なぜ藩主達はこうもあっさり国を明け渡したのか」と。当時多くの藩が財政難に苦しんでおり領地はむしろ重荷であった、など、いくつか理由を一応読んだことはあったが、専門外ということもあり、恥ずかしながらそのときは即答できなかった。だが、今、現実にその世界封建遺制を生きた結果、究極的なところで藩主達にとって領地が「自分のもの」ではなかったからだろうと推測している。頻繁な国替えが支配者と土地の繋がりを長い時間をかけて分断したのだ。
 一方、我がノーレムリアの領地はまさに先祖伝来のものだ。国替えなどない。売り買いされることはあっても、それは上からの命令によるものではなく貴族達の個人的な経済活動に過ぎない。高い車を買ったらそれを大切にするのは当たり前のこと。ゆえに売買によるものも含めて、土地と持ち主の結びつきはかなり強い。
 その上に国のシステムが乗っかっている。これが実効性のあるシステムであれば一悶着となるところ、実体は殻をかぶせただけだから、今までは万事問題なかった。土地に住む人々は隷農、つまり貴族の所有物である。そして土地もまた貴族のものなのだから。
 しかし隷農を解放するとなると話は変わってくる。解放された人々はもはや貴族の持ち物ではなく、帝国の臣民である。結果として、我々皇帝の政府は地方の行政機構まで管理することを求められるだろう。何が起こるかといえば、これまで貴族の家人が回してきた諸業務を新たに回す官僚が必要となる。
 この中級官僚のなり手が甚だ少ない。先ほど述べた帝立学院の生徒達は大学に進み中央官房に職を得るため、地方にまではとても行き渡らない。知的階層の中流から下流を埋めるためにもいわゆる「高校」の充実は必須だった。
「きみの持論は分かるけど、まさにその理論からいって、まずは学院の充実だと思うよ。しかるべき自由民の若者が教育を受けられる場所がまず必要なんじゃないかな。今後必要になる数を見積もっても、これまでの貴族子弟だけじゃ到底到底」
 ヤシクが追い打ちをかける。彼はつい先代までまさにその「しかるべき自由民」、言葉を換えれば富裕な平民層の家系である。その辺りの事情を心得ている。
「さぁボリス・イリイチ、どうするかね。俺も疑問に思うところがある。君の構想する小等学校、誰が教鞭を執る予定かな?」
 我らが皇太子の一言が駄目押しした。
「そのための学校を作る必要がありますね。単科学校として」
「正教会の学問所はどうだ。これまでも結局、初期の教育は教会で担ってきただろう。そこに隷農も混ぜればいい」
 数少ない自作農と都市自由民の子弟に基礎教育を与えてきたのはまさに教会であった。
「正教が解放隷農の子ども達を真っ当に扱うのであれば、当座はそれでも構いません。ですがニコルス殿下、どう思われます? 彼らは果たしてそうするでしょうか。自分たちもまた、その〝持ち物〟を奪われるのに?」
 恐らくは受け入れることすら嫌がるはずだ。正教会にとって隷農とは従順に導かれる家畜に等しい存在であるのだから。さらに実際的な問題として、正教会は各教区においてしかるべき規模の領地を所有している。土地を持つということは隷農を持つことと同義である。
 明言は避けたがもう一つ懸念がある。私たちが欲するのはノーレムリアの「市民」であって「正教徒」ではない。宗教に教育を委ねるということは、その宗教の持つ世界観・価値観を植え付けるに等しい。
「……確かに否定はできない」
 こんな会話を幾度も繰り返した。
 その度に私は、鉋で精神を削り取られる苦痛を存分に味わった。日本での経験がいかに「役立たず」であるかを痛感させられたのだ。

 私は一教師に過ぎなかった。現場で生徒達を教えることが全てだった。更に悪いことに、こういった〝政治の話〟を面倒くさがりすらした。
 誰が教務主任になるか、学年主任になるか、校務分掌(教員の役割分担)をどうするか、出入り業者の選定、広報。そういった仕事は全て「雑事」だった。お鉢が回ってきて嫌々ながらに担当したこともあるけれど、常にやっかいごととしか捉えてこなかった。
 だが、その雑事、やっかいごとこそが学校を構成するものであり、学校があるからこそ授業ができるのだということを、異世界にやって来て初めて痛感した。私は一教師だったのではない。極めて近視眼的な一教師だった。

 それであってなお、なんとか足掻かねばならない。
 この呪いのごとき知識——ひょっとしたら私の精神的な疾患から来る妄想かもしれない世界の記憶が、現在のノーレムリアが辿る可能性のある道を私に教えるがゆえに。
 何の手当もないままに放り出される農奴。彼らの一部は都市に流入するだろう。そして立派な無産市民となる。一方で、自国の「遅れた」様子を何とかしよう試みる、無駄に行動力を備えた知識階層の若者がいる。彼らは至る所で〝新しい考え方〟を布教するだろう。今はまだ穏健な「博愛」思想が、何をきっかけに、いつ、より過激なものへと変貌を遂げるかは誰にも分からない。それらの要素がどう結びつくのかも不明確だ。
 地球とは状況が違いすぎる。ただ、可能性は常にある。
 この可能性を知るがゆえに、どれほど痛かろうが、私は足掻くしかなかった。

 最終的に私がもぎ取った成果は折衷的なものだ。
 ニコビルグを含む西方中核四州の各市での小等学校設立と、帝立師範学校の創設。
 ノーレムリア全土にそれを広げる力は私にもなかったし、ニコルスにもなかった。つまり金がなかった。比較的都市化が進んだ地域から徐々に広げていく他はない。

 私の「天職」はなんだっただろうかと、今になって後悔交じりに回想することもある。
 内務官房の教育監(五等官相当)の一人にでもなって、教科書やらカリキュラムの構成をするあたりだろうか。いや、それすらも日本でいえば文科省のキャリアや教育学の研究者、国立学校のスター教諭がやる仕事だから、きっと私には荷が重い。
 となると、帝立師範学校の一教師を務める程度が相応しい。それだって人生をかけるに値する、価値ある仕事だ。成績を付ける際の評価基準について「先生はちょっと甘すぎるんじゃないかな」などとケチを付けられたり、あるいは学園祭の出し物決めで無茶な提案をする生徒を苦笑しつつ傍から見守ったり、授業中隠れてスマートフォンを弄っている生徒を中途半端に注意したり。同僚と飲みながら、昨今の大学入試システムの問題点を愚痴ったり。
 そんな生活を送りながら、ただ一つ、「学ぶこと」「知」の素晴らしさだけは真摯に伝える。生徒達に。

 それだけでよかった。
 だが、誠に残念なことに、私が素案を作った師範学校には学園祭も部活もない。スマートフォンもない。平の教師は八等官相当の下級官吏にすぎない。
 実際の私は皇帝ニコルス五世の内務官房に勤務する三等官なのだ。

 それだけで済むならまだよかった。
 私は自身が学生時代から主張し続けた小等学校の設置を「現実のものとする」責任者とならざるを得なかった。それが何を意味するか分かるだろうか。
 つまり、純然たる「労働力」を引き抜かれることを嫌がる家庭から子どもを引き剥がし、従来の職域と財産を侵された正教会と対峙し、変な施設を自領に建てることを嫌がる貴族を黙らせ、より過激な自由思想を抱いて人々を扇動する活動家たちを捕まえる仕事だ。
 これら全てを管轄できる役職は一つしかない。

 結局の所、私は帝国中核四州総督・三等官・ブラーギフ伯爵となった。


 ◆


 後悔に満ちた回想は一時中断して、より明るい話を記そう。
 これから私が書こうと思うことは、君たちが知るよしもない過去の一挿話である。あるいは断片的に覚えているかもしれないが、当時は幼すぎて、その全貌は知らぬままだろう。
 エリーナのことだ。

 隷農解放の嚆矢として発せられた皇帝ニコラス五世の勅令「臣民の身分に関する勅令」布告間もない一八五五年八月、イレナと君たちはブラーギフの領地に向かった。避暑のために。
 朝から晩まで休むことなく書類の束と格闘し、ひっきりなしに訪れる官房の部下達の相手をしていたつれない夫をニコビルグに残して。

 前年父の死を看取り、私はブラーギフ伯爵となった。そしてイレナはブラーギフ伯爵夫人となった。そして君たちはブラーギフ伯爵子となった。家領においてイレナは「奥様」であり、君たちは「若君」だっただろう。
 当時三十になったばかりのイレナは、それまでもノーレムリアにおける〝理想の妻〟だった。控えめで従順で、編み物を好む。子ども達を慈しみ育てる。そういった類いの。出会った当初の幼さも人見知りもなくなって久しいが、私たち夫婦は仲良く暮らしてきたつもりだ。
 だが、正直に書こう。実はこのときまで、私の中の彼女は「子ども」の印象を保ち続けていた。
 君たちにも時折話してきたが、私は日本において教職にあった。教師とはつまり子ども達を教える仕事だ。たくさんの子ども達——生徒と接した経験は、私の中によほど強く根を張っていたらしい。
 ノーレムリアにおいては四歳しか変わらないにもかかわらず、初対面の十七歳という年齢が影響したのか、とにかく彼女を子ども扱いするところがあったように思う。二人の男児を設けた後でさえも! 日本であれば離婚の切っ掛けになりかねない態度で、たとえば上から教え諭すような口ぶりで彼女に接していたかもしれない。だが、幸か不幸かここノーレムリアにおいては家長の権限は圧倒的であり、この社会の「当たり前」の中で生きてきたイレナが私の態度に強く反発することはなかった。
 それらの全て、私の傲慢と偏見が見事に打ち砕かれたのがこの年だ。一八五五年、私はイレナと真の意味で夫婦になったのかもしれない。

 彼女は喧噪著しいニコビルグから、畑と森以外なにもないブラーギフ領にやってきた。数年前までは両親が、母が亡くなってからは父が前年まで住んでいたため屋敷こそ手入れも行き届いていたが、そこを離れれば見るべきものは何もない。雨が降ればぬかるみ、晴れが続けば土煙を巻き上げる貧弱な街路が、街とも村ともつかぬブラーギフの館付近から近隣の村々に伸びている。
 そんな田舎の片隅で、彼女はふと思いついた。村を回ってみよう、と。
 後で尋ねたところ、特に深い理由はなかったらしい。要するに退屈だったのだろう。そんなわけで、彼女は君たちと従僕達を連れて小旅行に出かけることにした。

 そしてある村で、イレナは一人の少女と出会った。
 その子は村で一戸しかない豪農の家——こう書くと誤解が生じる可能性がある。実体は一般的な自作農に過ぎない。だが、小なりとはいえ〝自分の土地を持っていた〟——に居た。
 木造家屋の土間の片隅に蹲っていたそれは、イレナと君たちが招じ入れられるとき、戸主に追い払われたという。
 イレナはその少女の存在について尋ねた。戸主である中年の農夫が見せた態度は、どう見ても実の娘に対するものとは思われなかったようだ。
 聞けば、二年ほど前に両親を相次いで病で亡くし路頭に迷った隷農シュラーヴァの娘だという。小間使いにでもする予定と言う割には、何らかの教育を施している風でもない。戸外に追い立てられるその一瞬においてさえ、少女の足や腕に紫色の大きな痣をいくつも認めることができた。
 名前を聞けば「猫」だという。

 君たちも理解する通り、この挿話に悪者は一人も居ない。
 隷農とは要するに〝しゃべる家畜〟だ。両親を失い餌を貪るだけの獣を引き取っただけでも、戸主の自作農民は立派な男といえるだろう。戸主の判断を受け入れた家族も。
 そして名前もまた同様のこと。隷農は家畜である。いや、なお悪い。我々は愛玩する〝本物の〟犬や猫に人を擬した名を付けることがある。だが、隷農にそれをすれば、隷農は「人」になってしまう。何せそれらは人の外観を持ち人の知性を持つのだから。その上名前まで人のものとなれば、それは「人」に他ならない。だが、実際のところ隷農は人ではなかった。ノーレムリアの「当たり前」とはつまりこのようなものであった。

 だからイレナの決断は明らかに「当たり前」を踏み越えたものだった。
 状況を俯瞰する限り、痩せこけた幼い「猫」は自作農の一家にとってお荷物でしかないことは明白であった。ゆえに彼女はそれを引き取ろうと申し出た。
「では、わたくしが引き取りましょう。ちょうど〝猫〟が欲しかったところなの」
 彼女に同行した従僕の言を聞く限り、その台詞は誠に堂に入った驕慢な貴婦人のものに聞こえたらしい。普段のおっとりした姿を知るだけに、妻がそのとき演じた素振りを見てみたくも思う。
 そんなわけで、イレナは連れ帰った。蚤と埃にまみれ襤褸を纏った少女を。自分の年齢すら、名すら知らぬ子どもを。身体を清めさせ、清潔な服を着せた。

 そして名付けた。エリーナと。
 つまり、彼女——私の妻は偉業を為したのだ。人に人の名を付け、人にした。

 それこそがまさに、私が成し遂げたいと心から望んだことだった。
 崇高な理念や重厚な理論は他者を説得する道具としては有用だが、あくまでも道具に過ぎない。私がそうしたいと望んだ理由はただ一つ。私がこの世界の「当たり前」に耐えられなかったからだ。
 私は自分の「当たり前」を押し通すべく様々なものを利用した。障害は排除した。当時の私は専制君主ニコルス五世の側近であり、内務官房の三等官、いわゆる「官房の主達」の一人だったのだから。
 内務官房は国内の警察機構を管轄する。皮肉なことに、私たちの隷農解放政策に反旗を翻したのは貴族達だけではない。解放された当の隷農たちもまた、鍬や鋤を手に諍いを起こした。貴族達については、手放さざるを得ない財産の保障に関する条件闘争であり、これはヤシクの領分だ。
 だが「より良い待遇」、言い換えれば保証金なしの土地分与を求める元隷農の過激派を取り締まるのは私の仕事だった。

 隷農身分の解放は、臣民の権利という理念の確認から始まり、次に実質的な問題——貴族への財産保障に進んだ。元隷農は耕作地の所有権を貴族から「買い取る」ことで自由を得る。だが、彼らにはそんな金はない。ゆえに国家が融資を行う。ただし、あくまでもそれは「融資」であり「給付」ではない。結局の所、元隷農たちは返済金の形で収穫物を収め続けることになる。貴族にではなく国庫に。恐らく生涯をかけて。
 何も変わらない。地租を収める対象が変わっただけ。そう主張する者たちは多い。知識階層の中にも、あるいは元隷農の頭が回る者たちの中にも不平分子は存在する。
 前者は西方諸国から伝わった「人の平等」の理念を旗印に、後者は「金の頸城からの解放」という実利を求めていた。

 私の仕事を一言でまとめれば、そのような者たちを抑えつけ、時には処分することであった。
 

 ◆


 避暑を終えてニコビルグに戻ってきたイレナに事の顛末を聞いた私は、少女を使用人として受け入れることとした。「臣民の身分に関する勅令」は既に発せられていたのだから、彼女はもはや隷農シュラーヴァではない。賃金を受けて働く労働者である。
 だが、当然のことながら、まだ十にも満たない少女に任せる仕事などない。
 イレナは私にこう言った。
「ボリス様、実は私、娘が欲しかったのです。ずっと。——編み物を教えてあげられる、かわいい娘が」
 妻と私の子どもは君たちしかいなかった。男児二人の兄弟だ。欲張りな妻はその上、娘を欲した。猫ではなく。
 なぜエリーナと名付けたのかと尋ねた私に、彼女は答えた。
「もし娘を授かることがあれば、私の名前をあげようと思っていました。許していただけますか?」
 父の名を息子が、母の名を娘が受け継ぐことはそう珍しくもない。イレナという名はレフ王国で使用される「帝国」方言の発音である。ノーレムリア風に発音したとき、それはエリーナとなる。
「もちろん。素晴らしい名だ」
 私は妻の案に賛同した。
 
 人は変わりうる。
 私はごく普通のノーレムリア人である妻に対して、地球から持ち込んだ人権やらなにやらをふりかざしはしなかった。隷農制シュラーヴィキの愚を〝教育〟しようとはしなかったし、してもこなかった。
 だが、私が何を実現しようと望んでいるのか、聡明な彼女は理解した。

 兄であるヤシクも夫である私も、それをノーレムリアから取り除くことに命を賭していた。さらに、我らが君主、開明帝ニコルス五世もまた。
 これら身近な者たちに、恐らく彼女は影響を受けた。その善し悪しは措いておこう。ただ事実だけがある。

 人は変わりうるという。


 ◆


 毀誉褒貶や浮き沈みはあれど、客観的に見て、私は幸せな生を送ってきた。
 ノーレムリアの名門貴族の長子として生まれ、皇帝の知遇を得て三等官に上り、帝国中核四州の実質的な支配者となった。加えて内務官房の〝主〟の一人であった。
 食うに困ることは決してなかったし、他者から軽んぜられることもまたなかった。皇帝ニコルス五世さえも、私の言は何であれ一考に付すほどに(もちろん彼は、比較的多くの者の言葉を真剣に聞いた希有な君主だったが)。
 では、そんな私がこの生、この〝物語〟において最も気に入っている場面はどこかといえば、それは迷うことなく即答することができる。

 まだ幼い君たちは、少年らしい余所余所しさを秘めながら、一方で、少年らしい優しさも持っていた。
 外に遊びに繰り出そうとする君たちの名を呼びながら、その後を拙い足取りで追うエリーナ。君たちは本当は、自分たちだけで遊びたかったのだろう。決闘ごっこや虫取り、庭の木々の手入れ。そういった遊戯は男の子の領分だからだ。にもかかわらず、少々かっこうを付けてしぶりながらも、結局君たちはエリーナを仲間に入れてやった。いつも。
 決闘ごっこの際はエリーナを見届け人にしてやったし、虫取りでは彼女が喜びそうな綺麗な色をした甲虫やら蝶やらを探してやった。庭の手入れでは、男子の趣味とは思われない小さな花壇を彼女のために拵えてやりさえした。
 やっかいもの年下の女の子を仕方なく仲間にいれてやるのだ、と、そんな素振りをあえて見せつつ、君たちはエリーナを受け入れた。
 
 君たち——幼い三人が遊ぶ姿に心奪われる。だが、それが矮小な感傷に過ぎぬことは十分理解している。
 エリーナは運が良かっただけだ。
 運良く、両親の死後も身体を大きく損なわなかった。四肢は欠損せず、荒れ野のごとき髪は丁寧な手入れを受けて、明るい茶の艶を取り戻した。運良くイレナに出会った。運良く我が家に引き取られた。
 彼女のような〝物語〟を持ち得なかった幾多の人々。その存在が訴える不運と不正に対して、私は責任を取るべき立場にあった。私は皆をエリーナのごとき境遇に導く責務があった。しかしそれは叶わなかった。言い訳はできない。

 だからそれは純然たる感傷だ。
 そしてそれは、今はもう何者でもない私が持ちうる唯一のものでもある。

 いつの日か、が、エリーナと君たちのように暮らせる世界が来ることを願う。