タテガキ

序 父の物語

7シュラーヴァ エリーナ 前

2026/06/13 03:02 公開

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 ここから先は君たちも知っている話だ。

 私とイレナは君たちとともに暮らし、君たちに様々なことを教えた。
 だが、教えなかったこともある。あまりに複雑で都合の悪い現実の出来事を私は家に持ち帰りたくなかった。
 だから君たちが好み、せがんだ「空想」の話ばかりした。
 私は嬉しかった。
 かつて生きた日本。今となってはその存在すらも妄想なのではないかと疑うほどに薄らいだ実感——そこで確かに私は生きたという証を、私は君たちに伝えることで何とか取り戻そうとした。年月を経て退色したインクの文字をなぞり、それを蘇らせるように。

 ゆえにここでは当時君たちに話さなかったこと、つまり複雑で都合の悪い現実の出来事について書き記しておこう。
 人は自身の失敗を語るとき自然と口が重くなる。無意識に弁解や言い逃れをする。多分私もそうだろう。そうであってなお、残しておかなければならない。
 私たちが何を為そうとしたのか。


 ◆


 第十九期の折り返し、一八四八年から一八五〇年にかけて、我が国ノーレムリア帝国は例の戦争——「海の戦争」を戦うこととなった。
 我が国の意図は明白であった。ニコルス大帝の南方蛮地平定以降、我が国は内海への窓を手に入れた。商船と艦隊の根拠地となる幾つかの港——をいち早く支配し、周辺諸地域——もまた、長い年月をかけて我が国固有の領土に組み込んできた。ただし、内海の全てを支配できた訳ではない。内海は我が国の内なる海ではなかった。内海の南半分に隠然たる影響力を保持する〝対岸の帝国〟テルシアは常に目障りな存在であり続けた。
 このように表現するのはいささか傲慢が過ぎるだろうか。ニコルス大帝の大改革以前、まだ脆弱な〝凍てつく森の民〟に過ぎなかったノーレムリア人にとって、圧倒的な国力と壮麗な文化を誇る当時のテルシアは畏怖の対象であり、とても「目障り」などと呼べる相手ではなかったのだから。
 だが、当時においてすら「建前」は立派に機能していた。ノーレムリア新しいレムリア帝国は、遙か昔中央大陸の大半を支配した古期レムリア帝国の後裔を称している。これが「建前」である。
 何を根拠に? レムリア帝国の末期まつご、南から逃れてきた正教僧たちを受け入れたがゆえに。では僧侶達が逃れてきた南とはどこか。それこそがレムリア帝国の故地、現在のテルシアなのだ。私たち森の蛮族は、文明の唯一の灯火たる正教僧たちから代々そう教わってきた。テルシアがかくも強大な国家である理由は、レムリア帝国の大いなる遺産をかすめ取ったからに他ならぬ、と。本来の相続人は他にいる、と。

 第十九期の現在、力関係は明確に逆転しつつある。我々が正しい道を歩んだがゆえに。正しい道とはつまりニコルス大帝が敷いた道、西方諸国へ向かう道である。
 先進の人文学や工学を貪るように摂取し、心身の改造に励んだがゆえに、我々は彼ら西方諸国に似た外見を持つに到った。サンテネリの言葉を話し、アングラン風の服を着て、我々は生きている。

 ノーレムリアが〝海の戦争〟に到った理由を詳らかにしようと思えば膨大な紙片を消費する必要があるだろう。だが、根本的なところをまとめれば二つしかない。
 内海の「ノーレムリアの内海」化による実利的な報酬と、「新たなるレムリア」の建前を現実のものにする観念的な報酬。
 我が国は、テルシア帝国内に少なからず存在する同胞たるレムリア正教徒が不当に虐げられている現状を憂いていた。もう数百年に渡って正教徒たちはそう扱われていたのだが、当時、たまたま皆が思い出した。そして考えた。同胞を救うべきだ、と。テルシアの皇位継承に関する争乱がその偶然を誘発したことは言うまでもない。
 我々は正教徒同胞の保護と、それに付随するやむを得ない措置として内海の南岸、つまり対岸の領有を目指してテルシア帝国と戦端を開いた。

 結果は君たちも十分知るところだろう。
 アングランとサンテネリがテルシア帝国に加担した。特にサンテネリの介入は苛烈だった。内海の先に広がる、より巨大な「中海」はサンテネリの海なのだ。ゆえに新参者の存在は目障りである。
 我々は判断を誤った。
 長い間比較的良好だったサンテネリとの関係性を過信した。今回の出兵に対し、彼らが最低でも中立を守ってくれることを期待したが、それは明らかに身勝手な空想に過ぎなかった。より踏み込んで言うならば、それは我々の拗くれた心性から生まれた希望的観測であったように思われる。
 ノーレムリアは偉大なレムリアの裔、第二のレムリアを名乗りながら、その実、心の底では自分たちを取るに足らぬ存在と認識しているのだ。西方風の立派な陸軍を揃え海に軍艦を浮かべても、性根は未だに〝凍てついた森の民〟である。そんなちっぽけな我々の些細な望みを、かの大国サンテネリが真剣に受け取ることはなかろうと信じていた。だが、幸か不幸か、客観的に見て我々はもはや森の蛮族ではなかった。
 同様の状況はアングランとの間にも存在する。サンテネリが「中海の主」であるとすれば、アングランは「世界の海の主」である。その本土こそ小さな島に過ぎないが、海外の領土を全て合わせれば我がノーレムリアとさして変わらぬ土地を領有している。至る所に。さらに、目に見える土地以上に重要なもの、交易に関わる様々な権益を様々な地域に保持していた。それこそどこにでも。例えばテルシア帝国にも。そこは彼らにとって「市場」であり、原料の供給地であり、交易の中継点である。
 アングランとノーレムリアの関係は比較的古い。二国は北海を通して様々な物品を売り買いしてきた。我が国にとってアングランは、定番の穀物に加え、我が国の極東部で大量に採れる毛皮のような「特産品」を売りつける相手であり、先進の工作機械、船や武器の類いを買い付ける相手でもあった。両者の間に大きな諍いはなく、商売は概ね順調に行われていた。つまり、アングランもまた、ノーレムリアと自称する後進国の極控えめな望みを本気で取り合うことはなかろうと思われた。

 結果はご覧の通りだ。
 目と鼻の先にある海と土地を戦場と定めながら、圧倒的に遠距離、遙か西方の両国が寄越した艦隊の方が速かった。我が国の軍がぎこちない動員に励む間に、彼らの船は内海に侵入し我らの貧相な「艦隊」を叩き潰した。
 沿岸部に上陸したサンテネリ・アングラン・そしてテルシアの連合軍と対峙した陸軍は、敵が持ち込んだ文明の精華たる最新の砲と銃によく耐えた。
 今日こんにち、中央大陸において我々が辛うじて影響力を持ちうるのは、このとき我が軍が示した奮戦の結果に他ならない。奮戦とは何かと言えば、まさに敵である西方諸国の「お下がり」の武器を手に、弾薬も食料も満足に行き届かぬ中、自らの身体を捧げて抵抗した事実である。

 私はかつて生きた世界で「海の戦争」と比較的類似性の高い事例を学び知っていたが、その私ですら事態を楽観視していた。
 地球における史実のクリミア戦争とは事情が大きく異なることは明白で、規模も今回のそれの方が小さい。戦争とも呼べぬ、紛争として終わるだろうと思っていた。それくらいならばやれるだろうと。実際のところ、サンテネリやアングランにとってはまさにその通りだった。彼らにとっては小競り合い程度のものに過ぎなかった。だが、我が国にとってこの戦争は、国家の屋台骨をへし折るに相応しい痛打となった。
 言い訳をさせてもらえるならば、私は自身の懸念をしかるべき人間——ニコルス皇太子に伝えてはいた。個人的友誼を辿って。だが、内務官房に所属してまだ日も浅い二七の青年に何が出来るだろうか。地位の点から考えて何かが出来るとすればニコルスしかいなかったが、彼とて当時は皇太子である。皇太子に過ぎない
 帝国の全てを決するのは父帝ニコルス四世と彼の側近たる〝官房の主達〟だ。私もヤシクもアレクシスも、そしてニコルス太子も無力な若者に過ぎなかった。

 だが、これらの事情は全て客観的な事実に過ぎない。本当のことを書き記しておく必要がある。
 実際のところは、私たちも皆、乗り気だったのだ。


 ◆


 例の戦争がどのような事情から始まり、どのように終わり、どのような影響をノーレムリアと世界に及ぼしたか。その全貌が明らかになるのは遙か未来のことだろう。私たちは人目を惹く表層の部分しか分からない。歴史的な出来事は、それが遠景となって初めて本格的な考察が可能となる。一方で、私たちは未だその渦中にいる。

 より正確には、私たちは渦の中に引きずり込まれてしまった。
〝海の戦争〟終結を前にニコルス四世が崩御したのだ。
 この表現は因果が逆転しているかもしれない。むしろ、ニコルス四世の死があったらばこそ戦争が終わったとも言える。内海航行における優越的地位を放棄するという誠に屈辱的な形で。我々は海への出口を一つ喪失した。それはニコルス大帝以来、三〇〇年をかけて手に入れたものであった。
 一方で、手に入ったものもある。
 変化への情熱こそがそれだ。敗戦の原因を突き止め問題を解決する。そんな小綺麗な「理屈」とは違う。私たちが手に入れたものは「情熱」——つまり感情であった。
 とにかく現状はよろしくない。だから、何をどうすればよいか分からないが、とにかく何かを変えなければならない。この曖昧ながら強烈な情動をノーレムリアの人々は身分の上下を問わず共有した。これは案外馬鹿にならない強力な武器である。
 私たちは普段、何かを変えることを好まない。今のままでなんとかなるならばそのままでいい。多少の非効率や犠牲を呑み込んでも現状を守ろうとする。だが、現状の善くないところが一定の水準を超えたとき、社会は一気に動き出す。これまでぼんやりと、なんとなく忌避されてきた「変化」は、一躍ぼんやりと、なんとなく歓迎される。
 明確な専制君主制国家であるノーレムリアにおいて、たとえば「改革」という言葉は、普段ならば口に出すことすらある程度の勇気が必要なものだ。体制批判のように明白な危険を伴うものでなくとも、どんな些細なものであれ、社会の雰囲気——空気がそれを敬遠する。
 敗戦はこの空気を入れ換えた。
 今や「改革」こそが人々が口にすべき言葉となった。どんな些細なものであれ変えるべきなのだ。ならば、より大きなもの、より根源的なものを変えることも許されるだろう。

 変化の端緒は新帝の即位だった。
 私の友人の一人、見事な赤毛の、風采のよい、頭は切れるが時折子どもっぽいところも見せる例の青年が戴冠した。彼は大鷲の家レムリス朝の首長、皇帝ニコルス五世となった。

 ノーレムリアは専制君主国家である。皇帝の意志を掣肘するものは(理論上は)何もない。ゆえに統治の諸々は全て、皇帝とその側近に握られることとなる。君主の交代は各官房における権力の移動とセットだ。もちろん先帝に仕えた官房の主達がいきなり力を失うことはない。余程のことがない限り失脚するわけではない。統治の連続性と一貫性を維持するためにも、彼らが得た経験を後進の者たちに引き継がせる必要があるからだ。
 だが、重心は明らかに変わる。

 海の戦争の最中さなかにありながら即位式は荘厳を極めた。
 首都ニコビルグにおいては世俗権力の長として、古都モカヴァにおいては正教の大いなる庇護者として、ニコルスは二度の儀式を挙行した。
 二九歳という新帝の年齢は理想的なものだ。
 肉体はまだ若く激務に耐えうる。精神はさすがに若者のそれを脱しつつあった。
「あの拷問器具のような王冠を売り払ってしまおうか。そうすれば、この首の痛みともおさらばだ。きっといい値が付くぞ。——ボリス。内務には入り用ではないかい? そういう類いの器具が。買ってくれ」などと、身近な我々にどうしようもない愚痴をこぼしながらも、ノーレムリアの若き〝父〟を演じきるだけの技量を確かに備えていた。

 彼が過日より拵えた内輪の者たちは、ニコルス五世登極の一八五〇年春以降、ノーレムリア政界の中心に座を占めることになる。
 兄の急逝によりカリヨラン侯爵家の後継子となっていたアレクシスは外務官房に、ヤシクは父親と同様財務官房に、そして私も父イリヤ・ニコライエフと同じ内務官房に籍を置いたが、私たちが新たな皇帝の新たな手足であることはかなり前から明白だったので、自然と父親達は職を離れた。
 ノーレムリアの職制は貴族の直接的奉仕に期限を定めない——つまり、文字通り終身の奉仕である——ため、彼らは純然たる名誉職の顧問官に就任し、同時に自領に戻った。

 私たちはといえば、ニコルス五世即位の翌日には四等官に上り、各官房の実務を差配する立場となった。私たち全員、為すべきことはこれ以上ないほどに明確であった。
 アレクシスは戦争の幕引きを図る交渉を、ヤシクはその交渉の結果必要となるであろう臨時の資金——端的に言えば賠償金の類いである——調達を、そして私はといえば、大荒れとなることが火を見るよりも明らかな、治安の維持である。
 いずれも三十に届くかどうかの若者が独力で為しうる問題ではない。実際のところは各官房が総力を挙げて臨む、もう一つの戦争といってもよい。
 では我々の役割は何か。
 簡単なことだ。専制国家において君主が理性的な君主であり続けるために必須のもの、信頼できる部下であることだ。気の遠くなるほどの段階を経て上がってくる様々な情報の信頼性はトップの判断の妥当性に直結する。そして、下した命令が正しく実行されるかもまた、主従間の信頼に依存する。

 我々は潔く負けを認め、できうる限り最速で講和条約にこぎ着けた。他国船の内海自由航行容認は避けられぬものとして、それ以外にも数多くの要求があった。
 戦中は一応中立を守ったプロザンや「帝国」への譲歩も迫られていたが、まことに幸運なことに、今回の戦争の主役たるサンテネリは、東の隣人である両国の焼け太りを警戒し、我らを必要以上に弱体化させることを厭った。ゆえに交渉はぎりぎり妥当と言ってよい範囲に収まる。
 もちろん国内は荒れた。
 内海の支配権放棄はニコルス大帝の偉業を無にするものであり、かつ、我らが長い年月をかけて征服した南部諸地域の異民族同胞に対して明確なメッセージを与えるものとなった。つまり、ノーレムリアは弱い、という。
 私の仕事はこのやっかいな状況をなんとかすることから始まった。

 一八五〇年秋、戦争は終結した。

 私たちは息つく暇もなく、次の「変化」を齎さねばならなかった。
 今にして思えば時期尚早だったのだろう。当事者たる私たちですら頭の片隅に不安を抱いていた。「早すぎる」と。だが、断固として為さねばならなかった。屈辱的な敗戦の後、我が国の人々が求めたことを。
 それは「変化」、言葉を換えれば「改革」だ。

 私たちがまだ自由な学生だった頃、決闘騒ぎの後、ニコルス青年も交えて酒盛りをしたあの頃からずっと目標に掲げてきたこと。

 隷農シュラーヴァの解放である。