タテガキ

第二章 旅

23国家

2026/05/04 03:00 公開

縦書きリーダーで読む

 人が為しうるおよそ全ての大事だいじがそうであるように、リュクルスもまた、その活動の当初においては展望のごときものを何一つ持たなかった。彼の心内に在ったのは単純で、ゆえに根源的な欲求であった。
 彼が求めたのは生存である。個人の、ではない。自身に連なる者たち——〝隊列〟のそれを彼は求めた。
 実際のところ、彼らが生き延びること自体は難事とは言いがたい。生粋のラケディア戦士と、ラケディアの水準にやがて達するであろう戦士。そして、一定の荒事をこなし狩りもできる少女がいる。皆若く、頑強な肉体を誇った。戦う術を持たない脆弱な少女と羊を養ってなお、彼らは生き残ることが出来るだろう。だが、所詮はその場しのぎに過ぎない。二人の男と二人の女で構成された集団は、いずれ森の奥に跡形もなく消え去ってしまう。単純な問題として、数が少なすぎるのだ。
 リュクルスはそのようにして消え去ることを望まなかった。脳裏に浮かぶ野心がどこから這いだしてきたのか、彼は自覚しえない。ただ、その心証にマルガリティアの言葉——あるいはイリスの祭司アポリアの預言がもたらした影響は無視できない。
 取るに足らぬ隷民女の妄言を彼は信じた。より正確には信じようとした。〝隊列〟の僚友ゲルギウスが導き手を求めたように、リュクルスもまた、心のどこかに同様の存在を求めていたのかもしれない。マルガリティア曰く、青年は「遍く全ての人を導く」のだという。その数は「浜の砂よりも多い」という。ゆえに彼は検討せざるをえなかった。彼らが森に消え去ることのない未来を。
 〝上の集い〟の中で暮らす選択肢は問題にならない。兄妹の父ガイオンと同様の末路が見えているからだ。一方で、緑壁の周縁に新たな〝集い〟を築くことも難しい。幾多の集いからあぶれた者たちを誘引すれば、集団を構成するに最低限の頭数は揃うだろうが、一方で周縁には特大の危険も潜んでいる。それは彼がかつてそう在ったもの、ラケディア戦士である。
 つまるところ、リュクルスが自身の望みを達するためには、隔絶しつつ折り合うことがない二つの巨大勢力——森の民とラケディア——の双方と良好な関係を構築する必要があった。〝上の集い〟を含む幾つかの集いと連携しつつ、ラケディアとも穏やかな交流を持つ。半ばラケディアであり、半ば集いであるような集団を組織せねばならない。
 それはラケディアの植民都市であり、森の民の植民都市でもある。

 ◆
 
 集落の最奥、一際ひときわ目を惹く巨大な館は他の家々とは明らかに異なる幾つかの特徴を持つ。組み上げた木材が太く、隙がない。壁は成熟した男の背を遙かに超えて、頭上に広大な空間を作っていた。
 館には壁で仕切られた部屋が存在しない。地には植物を編んだ敷物を広がり、所々これまた細枝で編み上げられた衝立が置かれている。
 一行はシャルメに招じられるがまま、空間の中央とおぼしき場所に腰を下ろした。横一列に並んだその様はまさに新たな〝隊列〟である。中央にリュクルス、左右をゲルギウスとゲルダの兄妹が占め、ゲルダの横にはマルガリティアが座した。常のごとく子羊アルカンを抱いて。
 ラケディアの青年に正対するのはシャルメの母アステラである。隣には娘が座り、後方に中年の男女が幾人か控えていた。
 リュクルスは森の民の座し方を幾分かの奇異を以て眺める。皆一様に尻の下に足を折りたたんでいた。ふと気になり左右を見れば、兄妹もまた同様の姿勢をとっている。午前に〝隊列〟でもった話し合いの場では適度に崩された足が、今は見事に格納されていた。
 ラケディアの風習は地に直接座することを厭う。それは礼法ゆえではなかった。極めて実際的な生存の工夫として。つまり、何者かに襲われた際、素早く立ち上がり態勢を整えられるかどうかが生死を分けるのだ。

「あなた方……森の民ヒューレンはとても平和な生活をなさっているようだ」
 会話の口火となった青年の一言は、ラケディア市民に相応しくない婉曲さを秘めていた。
「否。我らは皆、剣を取る。常に」
 アステラの答えは断固としたものながら、口調には幾分の緩やかさがあった。飛ばされた視線から導き出されたであろうリュクルスの推測を正しく把握するがゆえに。
「ではなぜ、あなた方はそのように座るのだろうか。長時間そのような姿勢を保てば足が痺れ、萎えてしまう。機敏な対応が出来ない」
「敵が不在ならばこそ、礼をとる。ラケディアの方。——リュクルス殿」
 対するに銀髪の女は笑みをもってした。中年に差し掛かり、血気豊かな若者を微笑ましく見守る素振りとすら感じられる。
「承知した。ならば誤解を避けるためにも述べておこう。これがラケディアの礼であると」
 自身の佇まいを指して明言する。
 事実、彼はこの場においてアステラとその配下とおぼしき男女に対し、敵意を覚えてはいなかった。ただし、今後生まれぬ保証はどこにもない。ゆえに見積もってもいた。降りかかる火の粉を払うことが可能かどうかを。彼は十分に可能と踏んだ。ゆえに座したのである。
「存じている。ラケディアの戦士よ」
 小さな首肯をもって応じるアステラ。
 その余裕は青年に一つの疑問を想起させる。〝上の集い〟の頭目——おそらく昨日から、已むなく——であろう女はラケディアの作法を理解していると明言した。自身の祖父、シャルメにとっては曾祖父に当たる男はラケディアの戦士であったのだから、知識を持っていてもおかしくはない。ならば……。
 リュクルスには尋ねるべきことがあった。
「では、昨夜のもてなしもまた、ラケディアの習いを知った上であろうか」
 打てば響く言葉の応酬は見事に中断された。沈黙が場を支配する。
 青年にとって、この空白こそが何より明白な答えであった。目前に座する女たちは、ラケディアにおいて最も忌避される行為を、そうと知りながら彼に為さしめたのだ。何も知らぬ彼に。
「リュクルス?」
 静寂を破ったのはマルガリティアである。彼女は呼びかけに意図を持たなかった。持つのは子羊のみ。膝上に。ゆえに、ただただ男の名を呼んだのだ。その心象を敢えて名付けるならば、「心配」とでもするところだろう。青年はゲルダの身体越しに、かすかに声の方を見やる。視線は交わり、言葉は交わされない。
 ラケディア、麗しの都の戦士であった男は、アステラの返答を静かに待った。
 やがて回答が示された。
「然り。我らは最上の歓待を為した。ラケディアの戦士が我らの好意を受け入れんことを願う」
 女の顔からは、先ほどまで乗った薄い笑みが完全に消え失せていた。その瞳は静かに観察している。青年を。
「なるほど。は侮っていたようだ。あなた方は仲間を大切にする心を確かにお持ちだ。——〝共同体〟の僚友を殺されてなお、自身の命惜しさに敵に媚びる卑劣な心性を、確かにあなた方は持たない」
 この返答もまた、彼がもはやラケディアの戦士ではないことの証左である。かつての彼、光輝ある市民リュクルスであれば問答など決して成立しなかった。戦士は剣を抜き、汚らわしい〝魔物〟の女の喉を即座に突いただろう。しかし今、この場において、青年は座したまま言葉を交わす。穏やかに。

 つまり、彼はもはやラケディアの戦士ではなかった。
 彼はそれ以上の者になりつつあった。

 〝上の集い〟の者たちは、真相を知ったリュクルスが怒り狂う可能性を承知の上で、あえて恵みを供した。そこには明確な報復の意図がある。一方で、彼らの文化においてそれは最上の饗応である。この上ない歓待を喜んで受けながら、後になってそれを口実に暴れ回るとすれば、青年はまさに忘恩の徒と堕する。名分を失する。ラケディアの道徳はそのような振る舞いを恥とする。ただし、同等の相手との関係性においてのみ。つまり、リュクルスが彼ら〝上の集い〟の者たちをどのような存在と位置づけているかが問われていた。
 ラケディア戦士の常識に従い彼らを〝魔物〟と見なすのであれば、森の民にとって彼は従うべき相手ではない。その暴威によって鏖殺されることになろうとも、あくまで鳥のごとく在るゼーヴべきだ。一方で、青年がそれをあえて呑み込むのであれば、彼我の関係は新たな展望を見せるだろう。
 夫と子を一度に失った女の、あるいは〝上の集い〟総意の歓待に秘められた二重三重の「問い」を、彼が完全に理解することは不可能である。経験不足ゆえに。だが、薄らとではあるが、輪郭を感じ取ることはできた。
 緑壁の奥深く、彼は何やらよく分からぬ新しい世界に足を踏み入れつつあった。
 そこは慣れ親しんだ戦いの場である。だが、剣は用をなさない。

「大変結構。御身の言葉により、我らは持て成しの報いを得た」
 アステラが両手を合わせ喜びを示す。その様は一昔前の格式張った「正しい言葉」と相まって、奇妙な——場違いな雰囲気を醸し出していた。
「あなたが喜んだのならば、私も光栄に思う。だが、我らはあまりにも長く隔たった。あなたの祖父フィリポスの代からどれほどの時が過ぎたことか。——ゆえに我らはかつて一所にありながら長く別たれ、今や大きく異なる存在だ。となれば当然、嗜好も異なる」
 マルガリティアは瞠目せざるをえない。
 彼女は自負を打ち砕かれつつあった。最もよく知るはずの青年が、全く見知らぬ姿を見せつけているのだから。
 〝我ら〟。
 この一語は明らかに森の民を包含している。青年がかつて声高に、汚らわしい魔物と罵った存在を。
「はっきりと述べよう。私はあなた方の〝恵み〟を好まない」
「それは御身の嗜好か?」
「違う。より普遍的な感覚として。代わりに——私はあなた方に、より良いものを提供したい」
 苦笑とも憫笑とも付かぬ曖昧な笑みがアステラの頬に宿る。無言の返答ともいえる。表情は時に言葉を超える雄弁を秘めている。
「アステラ殿。一つ問いたい。あなた方は心からあれを好むのだろうか。その味を」
「他の味はない。あれはこの地において至上の物なるがゆえに」
「仮定の話だが、もし、より良いものがあるとすれば、あなた方の嗜好は変わるだろうか。あれは言語を解し、労働を為しうる存在。その肉だ。他の味があれば、あえてあれを食する必要もないと思うが」
「他の味とは、それのような?」
 女の言葉をきっかけに森の民の視線が一点に注がれる。マルガリティアの腕の中に収まる小さな生き物に。
「確かに羊もいい。それに、豚や牛も」
 子羊を盗られぬよう抱きしめて身体を丸めた少女を尻目に、リュクルスは平然と答えた。
「リュクルス殿は解さぬか? この地がいかなる場であるか」
 侮りと紙一重の声色にさえ、リュクルスは特段の反応を示さなかった。
 戦いにおいて、冷静さを欠いた者が幸福な結末を得ることはない。かつて「帝国」との戦いで身を以て学んだ教訓である。敵の挑発に乗り、憤り、突出し、串刺される。その憤怒と独断は〝隊列〟を危機に陥れる。そうやって幾多の僚友が命を落とした。ゆえにリュクルスは平然と在る。
 だが、意外なことに、ここ緑壁においても〝僚友〟の激発が起こった。ゲルダである。少女は蠱惑的に揺れるくせ毛を振り乱し、身を乗り出し、早口でまくし立てる。森の民の言葉で。
「ゲルダはなんと?」
「その……リュクルスけいは決して愚か者ではない、と。緑壁の事情は理解している、と。ああ、その……敗者は大人しく従え、と」
 普段聞いたこともない妹の激しい口調に面食らいながら、ゲルギウスがたどたどしくあらましを告げる。リュクルスもまた意外であった。ゲルダとは今朝も口論したばかり。好意を抱かれているとは考えがたい。だが、個人的な好悪を除いたところでは理解できなくもない。面前に座するアステラは彼女の友を殺した相手なのだから。
 ゆえに歯止めをかける必要があった。彼を庇う真心が、〝上の集い〟への敵愾心に染まる前に。
「ゲルダ。止めろ」
「リュクルスは分かっていない! この女はリュクルスを軽んじている。軽い、大したことのない、取るに足りない者だと考えている!」
「そんなことはない」
 いきり立つ少女に対して、リュクルスは至って穏やかに述べた。
 ただし、その場に居合わせた全ての者の心胆寒からしめるほどに凄惨な、重みを含んだ言を継いで。
「アステラ殿はそれほどに愚かな方ではないだろう。彼女は十分理解しているはずだ。おれの言葉が何を裏付けに発せられているのか」
 それは「力」である。
 彼と彼が率いる〝隊列〟が、〝上の集い〟の戦士たちを鎧袖一触に屠ったものである。ゆえに森の民の当主は居住まいを正した。
「了解している。リュクルス殿」
「それはありがたい。このむすめもそうだが、も口が達者な方ではない。槍を扱う方が得意だ」
「勇ましいこと。そして頼もしいこと」
「ならば聞いてほしい。大したことではないが。私が伝えたいのはつまりこういうことだ。——我々は野に進むべきだ
「森の外に?」
 アステラもシャルメも、後ろに控える者たちもまた驚きはしなかった。恐らくは何度も話題に上り、その度にうち捨てられた企図なのだろう。
「こことペルピネの野は離れすぎている。その境に街が……あなた方の言葉で言い換えるならば〝集い〟があってもいいだろう。野は食い物を産む。食い切れぬほどの穀類と肉を。幸い立地には事欠かない。」
「かくも皮肉な成り行き。貴殿がそれを語るとは」
「確かに皮肉だ。あなた方を阻んだのがまさに我々だった。ラケディアの」
 悪びれもせず、かといって尻込みもせず、リュクルスは堂々と言い放った。
「理解するならば、く結論を示されよ。ラケディアの戦士殿」
 豊かな銀髪を飾る金の冠。
 エウロイの岸辺でイリスの少女が編んだ草冠はここ〝上の集い〟においては黄金で編まれる。木の脂が維持する炎はか細く、ゆえに輝きは鈍い。

 ——手間をかけた黄金クルスよりも、マルガリティアが拵えた貧相な花冠の方が幾重にも美しく思われる。おれには。
 その感性は、リュクルスという青年が何者であるかを雄弁に物語っていた。

「私は森の民ではない。ラケディアの市民だ。いまはまだ。ゆえに彼らと話ができる。槍を向け合うことなく」

 ◆

「ラケディアの戦士様は、皆さんあんな風に夢見がちなたちなんでしょうか。ね、ゲルダさんもそう思いますよね? ゲルギウスさんも。ね、アルカンも」
 一行に割り当てられた宿舎に帰る道すがら、マルガリティが軽口を叩く。
 リュクルスが明かした計画はイリスの少女をして苦笑を禁じ得なぬほどに夢想じみていた。しかし、愚行の理由を分からなくもない。正確な自己認識は存外難事である。行きがけの駄賃とばかりの気軽さで両親を殺され村を滅ぼされた隷民の少女は、ラケディアの戦士がどのような存在であるかを当の本人よりもよく理解していた。
「マルガリティア。きみは〝名もなき御方〟の巫女かもしれないが、ことラケディアに関しては猛きマヌの領域。本質は知るまい」
「本質! ラケディアに本質があるんですか? 行く先々で恐怖を振りまき、戯れに人を殺す以外に。それは知りませんでした」
 直截な台詞をぶつけられるのはリュクルスが真っ当なラケディア市民ではないがゆえ。彼が未だ光輝ある〝共同体コムネス〟の一員であったならば、少女は決して語ることができなかった。その可憐な喉を見事にかき切られたのちには。
 この皮肉はイリスの祭司に暗い喜びをもたらした。リュクルスはもはや真っ当な市民ではない。決して。それは喜ばしいことだった。
「ラケディアの本質は、同胞への愛だ」
「では駄目ですね。リュクルスはもう同胞じゃありません。ラケディアの。リュクルスは私たちの同胞なんですから」
「認めよう。おれはきみたちの同胞だ。だが一方で、麗しの都もまた、おれを再び受け入れるだろう」
 マルガリティア、ゲルダ、ゲルギウス。三者ともに怪訝な顔で互いに視線を交わし合う。突如「おれは空を飛べる」と言い出すのと同等に奇矯な発言を受け止めるにはそうするほかなかった。

 リュクルスは立ち止まり、向き直り、マルガリティアに両の手を差し出す。
 一瞬思案の後、男の望みを察した彼女は手渡した。

 子羊アルカンを。
 川水で丁寧に清められ、誇りの白い毛並みを取り戻した子羊は、月光を浴びて見事に輝く。

「燔祭の遣いが無事帰り着いたならば、その任を全うした戦士はラケディアに迎えられる。歓呼を以て。マヌによみされた者として。その言はしかるべき重みを持つだろう」
「それで……これまでにいらしたんですか? 帰り着いた方は。マヌ神の祝福を受けた方は」
「いた」
 虚を突かれ、少女は黙り込む。
 一方で、にわかに興奮しきり問いかけたのはゲルギウスであった。猛きマヌに嘉された戦士の存在は青年の好奇心を揺さぶった。無邪気な。
「どなたです? それは。ラケディアの歴史において名のある方ですか?」

 腕の中の羊。
 その首筋を男の手がぎこちなく撫でる。だが、生憎アルカンはそれを厭い四肢を捩る。少女の繊細な愛撫をこそ好むがゆえに。

「ラケディア、麗しの都の市民の中に、その名を知らぬ者はない。決して」
 
 緑壁の夜半、人声は絶えれど音は止まない。虫の、あるいは獣の発するは響き合い、溶け合い、弾力を秘めた実体のごとく広場に鎮座する。

 リュクルスのは、それを一閃した。見事に断ち切った。

「マヌの愛し子。建国の王。——アルトクレス」