第二章 旅
第22話 エウロイの黄金 二
2026/05/01 09:01 公開
「ゲルギウス。これを」
呼びかけられた黒髪の青年は軽く屈み、リュクルスの掌上を凝視する。〝兄〟が見せた物体が何であるかを理解したとき、彼もまた驚きはしなかった。さしたる興味も。
「ああ……金ですか」
「この辺りではよく採れるのか?」
「さぁ、私には分かりません。もとより興味もないので。こういう類いのものは女たちにこそ相応しい」
「まさしく。この世に幾多ある物の中で、最も無意味な塊だ。武器にするには柔らかにすぎ、杯にするには重すぎる」
「ええ。女を飾り立てるだけの代物に過ぎません」
ラケディアにおいて、金は〝無価値〟の象徴である。リュクルスが断じたように、それは武器にも日用品にも不向きである。剣と槍は鉄で、壺と杯は土、あるいは木材で作ればよい。家は石で。それ以上のものを市民は必要としなかった。
だが、外の世界——堕落都市群の愚か者達が、この鈍重で不気味な黄褐色の金属をこの上なく愛好することを知ってはいた。それこそが、他の都市群の惰弱、汚濁の証である。
〝石を金と為す者〟
赤子であったリュクルスに与えられたこの神託は、ラケディアの常識においては明白な烙印であった。不名誉の。そして恐らくは、この緑壁においても事情はそう変わらないであろうことを、彼はゲルギウスの反応から推測した。
「では、これは女たちにやろう。しかし、おれにとっては、粗末な花冠の方が遙かに美しく映るが」
言いながら視線を川辺に向ける。
そこには三人の女がいた。車座に集い何かを夢中で語り合っては、時折男たちの方を横目に見て、再び会話に戻っていく。自身とゲルギウスが話題の一部であろうことは容易に想像が付いた。背に、胸に、腕に、尻に、密やかに投げかけられる女たちの眼差しを彼は感知している。
ラケディアの戦士は自己を射程に収める瞳に対し殊更敏感であらねばならない。こちらが敵を狙うのと同様、敵もこちらを狙っているのだ。眼球や足のつま先、そういった物理的な〝動作〟に加えて、現象として立ち現れる以前のもの——敢えて言葉にするならば「空気」とでも呼ぶべきものを感じ取る必要がある。それはまさに「必要」であった。必要な技能を持たぬ者は早々に死ぬ。
リュクルスは大体において事情を理解する。二人の男が品定めされているのだろう。三人の女に。二人の男が三人の女に対してするのと同様に。
不快はない。当然のことだ。健康で頑強な男をつがいに選べば女は長生きできる。市民の同等を強くうたうラケディアにおいてさえその傾向はあった。「名誉」という言葉で〝文明化〟されてはいたものの。エイレーネがリュクルスを、あるいはパレイオスを好ましく思ったのは、極言すれば彼らが最も強い男たちであったからだ。堂々たる風采、将来執政官にすら届きうる知性、戦場における並外れた勇気。それらは一纏めで「光輝ある市民」と称される。真っ当な市民の女が「光輝ある市民」の男に好意を持つのは当然のこと。
だが、本質はより単純なものだった。その男が強いかどうか。
緑壁はそれを彼に教える。
ラケディアと緑壁は異なる世界であるが、隔たりはそれほど大きくない。
「一つ尋ねたい。ゲルギウス」
彼は静かに語り出した。掌の黄金を握りしめて。本来は摘まむべき大きさの欠片を、敢えて青年は握った。
「なんでしょう。兄」
「きみたち——緑壁に住む者たちは、なぜ平地近くまで降りてくる? ここのように奥深いところであれば、ラケディアの戦士に襲われることはないはずだ。彼らがここまでやってくることはない」
「簡単なことです。〝集い〟で生きられる者の数は限られますから。限界を超えれば溢れるしかありません」
気のよい森の民の青年はあっさりと答えた。
「ゆえにあの有様か。きみは既に分かっているだろうが、おれはラケディアの戦士として幾度となく〝間引きの仕事〟をこなしてきた。数えきれぬほどの〝魔物〟を屠った。だが、そのほとんどは驚くほどに脆弱な者たちだった。老いた者、女、子ども。我らのような若者もいたが、その数は多くない」
「いらないものから捨てられるのです」
気のよい森の民は、再び答えた。端的に。真実を。
リュクルスは瞑目する。自身を兄と呼び慕う青年の言が、彼の想像通りであったがゆえに。
河の流れは曲部に到り緩やかに、午後の陽光は木々を隔てて穏やかに、軽やかな女の笑い声。鳥の囀り。
青年の周囲の世界はそのようなものであった。彼はそこに居た。生まれたままの姿、半身を水に沈めて。
手には黄金の欠片を握り込み、剣は河岸に。
一人の〝僚友〟とともに、彼はそこに居た。
——認めなければならない。おれたちは同じだ。
何もかもが異なるように思われる二つの世界は、基層において同様の条件に規定された存在である。それは「生存」である。異なる場所で「生きる」には異なる仕方で生きねばならない。ただそれだけのことに過ぎない。
——犬と狼は異なる振る舞いをする。だが、どちらも同じ類いの生き物だ。犬は野に放たれればじきに狼となる。狼は家に招かれればやがて犬と化す。なにも変わらない。
ラケディア、麗しの都の光輝ある市民、執政官テセウスの子リュクルスは、緑壁に分け入ってはただのリュクルスである。野に放たれれば狼となる。
——ならばここで生きることに何の不都合があるだろうか。猛きマヌはおれを遣わされた。〝名もなき御方〟の巫女のために。そして緑壁へと導いた。限生の者に神意は計りがたい。だが、何らかの意味があるはずだ。確かなことはそれだけだ。
彼の脳裏に浮かんだものはあまりにもあいまいな、輪郭の定まらぬ思いに過ぎなかった。ただ、他ならぬ自分——リュクルスが導かれた以上、彼にしか為し得なぬ何かの存在だけは確実である。彼ははからずも自省を余儀なくされた。彼が持つものはラケディアの秩序と道徳、知恵、そして〝力〟である。これらはいずれも緑壁においては無用のものだ。独り山に登るためには。
だが、他者とともに生きるとき、それは何らかの価値を持つだろう。
「ゲルギウス。緑壁の縁に赴いた者の中に、自ら望んでそうした者はいただろうか?」
「ええ。事情はそれぞれ異なれど、新天地を求めて進んだ者もいたはずです。森の上は安全ですが、少々窮屈でもあります」
「不躾な推測かもしれないが、敢えて問おう。きみもそうだったか?」
両手ですくい上げた水を盛んに頭にかけている〝弟〟に続けて問いかける。〝弟〟は手を止め、〝兄〟に向き直る。二人の男は相対する。瞳が混ざり合う。
「リュクルス兄……。正直に、嘘偽りなく述べましょう。兄。私もまた、そうでした。あれは幾分ましですが。私は父と長く共に生きました。父ガイオンは常に私に教えました。こんな森の奥よりも、より善い場所があるのだ、と。私はそれを信じました。ここは自身の在るべき場所ではないと、常に感じてきました」
右腕の傷を所在なげになぞりながらゲルギウスは答えた。後ろめたくも晴れ晴れしくも感じられる口ぶりであった。
「より善い場所は、ない。それはもう分かっているな?」
「はい……」
黒い瞳は無邪気な、しかし微かに寂しげな色をたたえている。心なし肩を落とし佇む巨体は、捨てきれぬ年相応の幼さを感じさせる。
父を失い、妹を奪われかけ、村を抜け、新たな地を目指した青年。短慮はあれど、勇気と責任感もまた、確かにある。導き庇護する者もなく、従うべき規範もなく、内心の不安を押し殺しながら、彼は生きてきた。リュクルスが出会った青年とは、まさにそのような男だった。
ゆえに眼前に鋼のごとく——あるいは石のごとく立つ〝兄〟の言葉は、ある種の画期となって響いた。
リュクルスは言った。
「だが、ゲルギウス。新たに作ることはできるだろう。——きみは共に来るか? おれと」
◆
できる限り水を絞ったものの、未だ生乾きの生地がそれぞれの肌に張り付いている。胸甲を身につけた男たちに比して、女たちのそれは身体の形状を露わにした。
マルガリティア、ゲルダ、そしてシャルメ。
三人の女は皆そろって若いが、身体の発達度合いにははっきりとした差がある。風が吹けば折れそうな薄い四肢のマルガリティアに対し、ゲルダはある程度の厚み——恐らくは筋肉の密度を備えていた。シャルメはといえば、ゲルダが持つ筋肉の上に、年相応の肉を纏わせている。
汗と垢を川で流したのち、女たちの髪は自由を取り戻した。元から手入れされていたシャルメのそれに大した変化がない一方で、隷民の少女と森の民の少女のそれは見違えるほどの輝きを取り戻した。陽を浴びて半ば白く透き通るマルガリティアの金髪と、世の光を遍く吸い尽くすゲルダの漆黒の髪は好対照を成した。前者のそれはある種の神性——この世のものならぬ異形——を、後者のそれはある種の活力——生き物の生性を感じさせた。
一方、わずかながら二人よりも年長のシャルメには静けさのようなものがある。一見マルガリティアと似た雰囲気だが、少女が見せる年相応の騒がしさを彼女は持たない。
三人の女に共通する点があるとすれば、揃って頭上に乗せた花冠くらいであろう。貧弱な野花で編んだ、細い輪。男たちが身を清めている間、短時間で拵えた簡易的なものである。
「きみはそれを作るのがよほど好きなようだ、マルガリティア」
前日の昼にも似たような手慰みの冠を作っていたことを思い出して、リュクルスは端的に語りかけた。揶揄はない。事実の確認に過ぎない。
「だって、少し暇でしたから。 お二人とも随分丹念に身体を洗われていたようですし」
「出来る限り匂いは消したい。〝敵地〟においては特に」
ラケディア以外の街にあっては他者——潜在的な敵——を、森にあっては獣を呼び寄せるのは匂いである。
「お陰でたっぷりお喋りができました。それに、おまけも一つ」
マルガリティアの背後から現れた子羊。その頭上にまで小さな冠が一つ乗っている。
「こいつは大人しい質だな。されるがままとは」
存外気に入ったらしく、子羊は自身に与えられた冠を振り落としはしなかった。
「この子はリュクルスよりもよっぽど賢くて、よっぽど勇敢な方ですから! 他の雌にふらふら付いていくこともありませんし」
「彼は執政官だ。だから当然、おれよりも優れている。認めよう」
二人の他愛ない会話をゲルダが通訳する。シャルメ——他の雌——に。
シャルメは軽く発作的な笑いを漏らし、〝森の言葉〟を口にする。それを再びゲルダが訳した。正直に。
「羊の周りには魅力的な雌がいなかった。だから付いていかないだけ。リュクルスも同じ。でも、彼は魅力的な女に出会った」
我関せずと無表情で訳すゲルダの態度に納得がいかないのはマルガリティアだ。
「ゲルダさん? 今の言葉、意味を分かっていますか?」
「分かっている。でもそれが真実。シャルメはよい子を産める。成熟している。私たちは違う。まだ」
それは純然たる事実である。
「その話は後でいい。——ところで、この川では黄金が採れるのか? 聞いてくれ」
掌に載った欠片をゲルダに示し、通訳を依頼するリュクルス。答えた少女は〝森の言葉〟でシャルメに伝えた。
話題転換のために提供したどうでもいい話だったはずが、シャルメの答えは存外彼の興味を惹いた。
「採れる。〝降られた方〟が退かれたのち、人々はその存在に気づいた。——かつて〝森の民〟は争ってそれを採った。採ったのち、奪い合った。この世で最も無意味。だから最高の価値があるもの。それを得た者は人々を支配できる。でも、やがて人々はそれを止めた。皆の心の中から欲が失われた」
「正気に戻ったわけか。当然のことだ。金は力とはならない。鉄をもってすれば豚の脂のごとく切り裂けるだろう。脆弱な金属だ」
だが、リュクルスの言は見事に、鮮やかに論駁された。
「ちがう。黄金は人を支配できる。無意味なものでさえも、たくさん集められる。それが〝力〟」
◆
「〝無用は用。逆もまたしかり〟」
〝集い〟へ戻る道すがら、マルガリティアがぽつりと呟く。
「それも〝名もなき御方〟の教えか?」
「はい。聖句典に記されています」
「意味は?」
「私たちはこう解釈します。用無用、価値無価値は人のあずかり知らぬところである、と。限生の者が尊ぶものなど、しょせん儚いものです。やがて塵と消えます。大きな家も、豪華な食事も、大切な人も。それは人の尺度に過ぎません」
女が信じる神の言葉を記したとされる〝聖句典〟。その一節を引用するとき、彼女は決まって神妙な面持ちとなる。
リュクルスはそれを当然のことと受け止める。いかに知覚しない神とはいえ、神であることには変わりがない以上、その言葉は戯れ混じりに発してよいものではないからだ。
「きみの神の言を信じるならば、不変のものはこの世に何一つ存在しないことになる。おれたちが大切にするもの、なんであれ、全ていつか塵となるというならば」
「それこそが〝物語〟です」
「では、おれたちは何を求めればいい? きみの神はどう教える?」
二人の会話は意外にも兄妹の興味を惹いていた。口を挟まぬながら、じっと耳を傾けている。シャルメもまた、時折ゲルダを促し意味を聞く。
緑壁の午後。夕暮れまでまだ一時。
ここに三つの「言葉」が集った。ラケディアの、森の民の、そしてイリスの民の。より端的に述べるならば、それは「考え」である。彼らは一所に集い、持ち寄った言葉を共に煮込もうとしている。
混ざり合う「言葉」はいつしか変容し、原型を超克する。つまり思想の始まりである。
「信じるんです。リュクルス。神の尺度は限生の者には分かりません。ですから、そこにだけ、私たちは自由を得ます。私たちは、私たちが尊いと信じるものを尊びます」
「だが、それは思い違いかもしれない……」
青年の疑問はごく自然なものであった。
「その通りですね。思い違いかもしれません。でも、それを知ってなお信じる者は、やみくもに信じる者よりも遙かに——強いでしょう」
価値を確定しえない行為に対して全力で取り組むこと。それはラケディアにおいても偉大な戦士の証であった。戦において無意味な死が発生する瞬間は数限りなく存在する。極言すれば、〝隊列〟の最前で敵の槍を受けるという、ごくありふれた事象すらそうなのだ。
刺し貫かれる瞬間、戦士は自身の明白な死に意味づけを望む。ラケディアのため。僚友のため。そういった類いの。だが事実は分からない。一戦士の死に価値があるかどうか。確かめる術はない。彼は死ぬのだから。ゆえに信じねばならない。不可知のことと知りながら、あえて信じることによってのみ、戦士は誇りある振る舞い——勇敢な戦死を達成する。
「理解した。確かにきみの言葉はある面で理に適う」
簡潔に応答した後、リュクルスは黙した。
——ならば、おれが為そうと望むこと、この地に新たなラケディアを打ち立てんとする望みもまた、その意味を信じねばならない。あたかもこのちっぽけな欠片——黄金に、限りない価値があると信じ込むがごとく。