タテガキ

第二章 旅

24神の御裾の下に

2026/05/06 09:19 公開

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 道は常に存在する。人であれ獣であれ、凡そ全ての動物は移動する。動くがゆえに動物である。そして動きはどれほど微かなものであれ、何らかの痕跡を残す。頻度が増せばいつしか地は踏み固められ、道となる。
 ペルピネの野に生きる民にとっては未踏の空間、魔の領域と思われた緑壁においてさえ事情は変わらなかった。そこに動物が棲む以上、必ず道ができる。

 パレイオスを軸に結成された即席の〝小隊列〟は、燔祭の遣いとして旅立った共同体の市民リュクルスを探索する任務を与えられたものである。ゆえに僚友は捜索対象と縁深い二人の戦士——エイレーネとダイオスと相成った。
 通常の間引き仕事と異なり、今回の〝隊列〟は更に一人の供を加えていた。緑壁間近の村に住む中年の狩人である。その男は勇敢にも緑壁の周縁に足を踏み入れ、小動物を射止めることで生計を立てていた。
 捜索は慣れ親しんだ巡回路を進むだけの仕事ではない。彼らはより深く往かねばならない。周縁では比較的大きな間隙を持つ木々も、ある地点からは格段に密度を増す。巨木が掛けた枝葉の天蓋もまた、陽を遮るに足るだけの細密な織り目となる。ゆえにラケディアの戦士たちは案内人を必要とした。動物——特に〝魔物〟が拓いた細道を見分け辿るのだ。
 音。色。肌触り。そして匂い。五感の全てを総動員して空間を泳ぐ。

「戦士様方、こちらを」
 案内人として問答無用で徴発された狩人は声を潜めて地を示す。湿った土の上に残された人跡に加えて、小さな二股の窪みがある。
「これはなんだ?」
 息を潜める供の男とは対照的に、パレイオスはよく通る声を遠慮なく、ことによっては誇示するように堂々と発する。ラケディアの戦士たちはその存在を周囲に知られることを全く恐れなかった。〝魔物〟が誘引されたならば、それは幸いである。〝間引き〟の手間が省けるからだ。また、幸運にもマヌ神の並外れた加護があったならば、捜索の対象たるリュクルス本人がその声を聞くことさえあるかもしれない。かの僚友が自身の声を即座に聴き分けるであろうことは、パレイオスにとって自明であった。それもそのはず、彼自身がそうなのだ。友の声を忘れることなど、決してない。
「豚か……羊でしょう。まだ小さい。——戦士様が仰っていた〝子羊〟やも」
「そうか! 〝魔物〟どもは動物を飼う術など知らぬ。何せやつら自体が畜生なのだ。知恵などない。ならば、ここに散らばる足跡と交わる獣のそれは、ラケディア、麗しの都の市民のものである可能性が高い」
 エイレーネとダイオスもまた同様に地面を観察していた。ラケディア市民は獣の足跡などもとより知りもせず、また興味も持たぬが、反面、人のそれには多大な注意を払う。彼らの仕事であり崇高な義務でもある「戦い」とはつまるところ「足」なのだ。戦士たちは敵の足さばきから未来を予測する。腿や脹ら脛に浮き上がる筋、あるいは関節の屈伸度合いは相手の重心の在処を物語る。そして、特につま先の動きが、その後の行動全てを定める。ゆえに彼らは足を見た。
「人もいる。……少なくとも四人ね」
 しゃがみこんで跡を眺めた女が呟くと、重ねてダイオスが言う。
「男のものが二つ。女か、もしくは子どものものが二つ、といったところでしょうか。リュクルスけいのそれはおそらく男の中でも小さい方でしょう」
「こうしていると〝少年団〟を思い出さないか! 例の狩りを」
「ええ、まさに。あえて逃がした獲物を追いかけて、追い詰めて、平野を駆けたものです」
 その過去の一場面は、感慨を持って振り返るに足るだけの印象をダイオスに与えていた。十分な食料も水も与えられず、手がかりすらないまま平原に放り出される子どもたち。それぞれが状況を観察し、統合し、知恵を出し、最終的な方針を定める。この小さな僚友たちの間には立場の上下など存在しない。ゆえにそれは自然と生じるのだ。
「俺はリュクルスと組んだことがない。常に別の組だった。きみたちは確かに組んだことがあるな? かのテセウスの子と」
「はい。幾度も。僕が今こうしてあるのはけいのお陰です。あの石の如きリュクルスは、あらゆる面で脆弱だった一人の子どもを〝僚友〟として扱ってくれました」
 パレイオスと並べば頭一つをこえて低い短躯を持ちながら、ダイオスは周囲の僚友たちに認められる立派な戦士に育っていた。
「そこがあいつの美点だ! 石の如きリュクルスは、フィア大きい。〝小隊列〟に在ればその全員を。〝隊列〟に在ればその全てを、彼は愛するフィール。そしていずれは——ラケディア、麗しの都の市民全てを!」
 美しい金の毛並みを跳ね上げて獅子の如きパレイオスは朗々と述べた。
 ラケディアにおいて、フィアとは自己を拡張する行為である。自愛に始まり他愛に至り、やがて汎愛、つまり過去から現在、そして未来へと連なる〝共同体コムネス〟そのものへ向かう。肉なる夾雑物に汚染された情欲とは全く異なる、透き通った高貴な情動であると見なされていた。
「あなたはどう? 獅子の如きパレイオスは」
 張った背筋の直線を崩すことなく優雅に立ち上がった女が、戯れに混じりにそう尋ねた。
「認めよう! その点においてはわずかに、かすかに劣るかもしれん。……だがエイレーネ。美点は欠点と背中合わせ。リュクルスの性向が危うい方向に通ずるものでもあることは、きみも理解しているだろう?」
「我が身かわいさ、仲間かわいさに引きずられて卑劣な行為に手を染める? それともこう言いたいのかしら。彼は切り捨てられない、って」
 共同体の繁栄を第一としたとき、ダイオスはその虚弱ゆえに切り捨てられるべき存在であったかもしれない。エイレーネもパレイオスもそのように考えていた。当の本人、ダイオスですら。
 しかし、リュクルスはそれを為さなかった。放っておけば順当な死に到る貧弱な少年を彼は支えた。訓練の度に弱ったダイオスに、千金にも比する自身の食事を分け与え、弱った体を清め、自身の身体の熱で温めた。少年団の中で長くその様を横目に見てきたエイレーネは、未だに釈然としない思いを持ち続けている。リュクルスのフィアは深すぎるのではないか、と。ラケディア市民が理想とする「節度」を踏み越えているのではないかと。
「いや! そんなことはないな。決して。リュクルスは見事にそれを為したじゃないか! 最も大切なもの——自分自身を切り捨てることによって、共同体コムネスへの奉仕を成し遂げた」
 女は目で笑う。
 競争相手の弱点に自分で言及しておきながら、他者から同意されるとにわかに反論する。男が見せる無自覚の振る舞いは、女をして笑みを浮かべさせずにはおかない。一方で、新たな疑問もまた湧き上がる。ラケディアへの奉仕とあらば自らの存在すらも切り捨てる男は、なぜダイオスを捨てなかったのか。
 その答えは意外なところからもたらされた。切り捨てられていたかもしれない、その当人から。
「パレイオス、エイレーネ。あなた方から見てどうです? 今の僕は」
 話の流れに見合わぬ問い。男女は顔を見合わせる。答えたのは男であった。
「そのようなこと! あえて口にするまでもないだろうよ。きみが立派な戦士でなければ、なぜきみは今、ここに居る? 元老会より与えられたこの崇高な責務の〝隊列に〟」
 ダイオスは情報をもたらした当事者である。だが、それだけであればただの「伝令」に過ぎない。捜索の隊列に彼が加わることに誰も異を唱えなかったという事実は、この小柄な青年が真っ当な市民であることの証左であった。
「獅子の如きパレイオス。ありがとうございます。ただし、この感謝は僕への評価ゆえではありません」
「もったいぶるなよ。何が言いたい?」
「それはつまり、リュクルス兄……兄さんが、なぜああまでして僕を庇ってくれたのか、ということです。兄さんの庇護があってこそ今の僕があります。そして僕はこうして、共同体コムネスに尽くす一端の戦士になりました。パレイオス、エイレーネ。本音を聞きたいのです。あなた方は——かつての僕を見知った、かつてのあなた方は、僕がこうなることを予想しましたか?」
「答えづらいことを聞くのね。でも答えるべき。だから答えましょう。少なくとも私は予想しなかった」
 ダイオスに正対した女は歯切れ良く答える。
 女の声は男に比して柔らかい。それが生物としての差である。だがこのとき、エイレーネの口から発せられた言葉は硬質なものであった。後頭部に纏めた黒髪の房が微かに揺れた。
「共同体のためとあらば自分の未来すら犠牲にできる兄さんは、僕をそうしなかった。なぜでしょう? 僕はこれまでずっと、それは兄さんの深いフィアゆえだと思ってきました。でも、ひょっとしたら……」
 まだ少年と称しても差し支えないほどに幼さを残したその顔がにわかに引き締まる。ゆえにパレイオスは、エイレーネは待った。彼の気づきを。

「石の如きリュクルスは、僕がこうして共同体に奉仕する戦士に成長することを——知っていたのかもしれません」
「ありえん。限生の者ひと今の先未来を知ることは叶わない。決して! それは常識だろう。なぁ、エイレーネ」
 女は答えなかった。代わりに問うた。ダイオスに。
どなたかがリュクルスにそれを教えた、と。そう言いたいのね?」
「はっきりとしたことは分かりません。でも、それで説明が付くのでは、と。リュクルスけいは明らかに戦神マヌに嘉されていると。それに……」
 パレイオスの瞳がにわかに細まる。
 神々は限生の者ひとを好む。中でも最も愛する者には、その権能をもって庇護と導きを与える。寵愛の徴は予言により、あるいは、明らかに偶然とは思われない現象の起こりによって示される。その点において、リュクルスは誠に特異な存在であった。生まれには呪いを受けながら、極めて恵まれた肉体と精神を持ち——これは明らかにマヌの祝福によるものである——共同体の立派な戦士へと成長した。にもかかわらず精神の失調を疑われ、麗しの都を追われた。一般的な解釈において、追放は失寵の証である。しかし、その理由が分からないのだ。彼は神々を敬うこと決して人後に落ちず、振る舞いにおいても真っ当であったのだから。
 つまり、リュクルスは矛盾のるつぼであった。
 だが、ことここに到り、一つの解が与えられようとしていた。

「糸紡ぐ女神アポリアにもまた……」
 ダイオスが遠慮がちに告げた言葉は期せずしてパレイオスの蒙を啓いた。
「アポリア! ならば全てに説明が付く。あいつの行動が全て、糸紡ぐ女神のお導きであったならば!」
 パレイオスはまさに喝采を上げた。青年は心の底から誇りを抱いた。戦神マヌに嘉され、糸紡ぐ女神の褥に愛される男。そんな男と、彼は互角に競いあっているのだ。

 リュクルスの並外れた幸運を我がことのように祝福する二人の男を尻目に、エイレーネは一人無表情を貫いた。それもまた一つの予感であった。

 神々に嘉された者は最上の栄光に至る。ただし、およそ限生の者ひとが耐えうる最悪の苦難を経たのちに。

 ◆

 リュクルスが示した計画は極単純なものであった。
 当初の予定通り、ケイデーの山頂に赴き燔祭を執り行う。儀式の後に〝上の集い〟に戻り、その後はさらに下へ——緑壁の周縁部に新たな拠点を築く。
 ケイデーへの登頂が彼らの今の先未来にとって必須であることは共通の認識であった。戦神マヌの愛し子。その名は圧倒的な威勢をリュクルスに授けるだろう。ゆえに証が求められる。
 登ったふりをするという詐術は誰の脳裏に浮かぶこともない。神の名を騙る行為が何を齎すかは明らかであった。神は自身の名を汚した限生の者ひとを決して赦さない。必ずや、この世で考え得る限りの悲惨が降りかかる。それら卑劣漢の末路を示した逸話は枚挙にいとまがない。
 ラケディア市民、イリスの民、森の民。三者はいずれも異なる神を信じる。戦神マヌ、名もなき御方、降られた方。この三柱に共通点を見いだすことは叶わない。だが、神の「存在」を疑わないという、その一事においてのみ彼らは一致をみていた。ゆえに、山頂に到り生きて戻ったリュクルスの言葉は、明白な神意の表れとして受け入れられるだろう。森の民にもラケディアの共同体にも。神意を得た者の言葉は重い。限りなく。

 誰もがその意図を理解したが、にもかかわらず〝隊列〟の皆は口々に反対した。
 地勢も行き方も知らぬラケディアの戦士一人であれば登頂自体が不可能であり、それを敢えて為そうとすることは緩慢な自死願望を意味した。だが、緑壁を熟知する森の民ヒューレンの知己を得て、さらに後援すら期待できる状況においては話が変わる。
 登頂は為しうるのだ。神聖な儀式ゆえ、行程の最後は一人と一匹——リュクルスとアルカンだけで赴かねばならないが、そこに到るまで、少なくとも森林限界に達するところまでは森の民の案内を頼みにできる。
 ゆえに不安はリュクルスの「選択」に対するものであった。ラケディアの常識によれば、燔祭の後、戦士はマヌ神に誘われ天上に昇るという。マヌの存在を信じないマルガリティアと、存在は認めながらその権能には疑いを抱くゲルダ。そして、リュクルスと同様ラケディアの伝承を信じるゲルギウス。それぞれが別の理由から青年の決断を恐れた。
 イリスの少女はリュクルスの誤った心——思い込みが登山で弱ったその身体をむしばみ、精魂を枯らし尽くすことを恐れた。人は思い込みで容易く死ぬ。未練を持たぬ人間を生の世界につなぎ止めておくことは案外に難しい。彼女は焼け果てた故郷の村で実際にそれを体験しているのだ。
 森の民の娘ゲルダは、彼がマヌと名乗る悪神に騙され、さらわれることを危惧した。神は時に人を弄ぶ。否、人がそう感じるだけで実情は異なるのかもしれない。神には神の真意がある。〝降られた方〟が何の前触れもなく天に帰られたように。神の行動を人は理解できない。
 ラケディア市民でありたいと望むゲルギウスが不安視したのは、リュクルスがマヌに従い予定通り天上に昇ることであった。それはラケディアの戦士にとって最上の栄誉であるがゆえに、事が成就したのち、あえて誘惑に抗うことは難しい。そう考えた。

 唯一賛成に回ったのは意外なことにシャルメである。森の果て——森林限界まで自らが彼を導くと宣言した。何かあれば連れ戻す努力をすると請負いさえした。
 〝隊列〟を構成する他の三人の同行は話にならない。マルガリティアはといえば、森で生きる技能を持たぬ純然たる足手まといである。兄妹は戦力を大きく減じた〝上の集い〟にとって欠かすことのできない貴重な戦士である。リュクルスとシャルメが不在の間、集いを守らねばならない。
 女にとって、リュクルスは自身の〝つがい〟候補であった。最有力の。それが為されれば、〝上の集い〟を維持することだけは最低限可能になる。一方で、彼は自身の父と兄を殺したかたきでもある。卑怯なだまし討ちではなく、堂々たる戦いの末のこととはいえ、殺された事実は揺らがない。頼もしく強くあった父と兄を屠った男を彼女は知りたかった。より深く。果たして彼が本物の男であるかどうかを。もし彼が本物の男であったならば、その計画もまた本物であろう。〝上の集い〟を巻き込んでも損はない。

 結局の所、最後はリュクルスの選択一つにかかっていた。
 このまま〝上の集い〟に絡め取られ、森の民として消えてゆくか。それとも。

——怯懦のリュクルス! 安穏を好む羊! 山へ往け。山へ往け。

「声」が強いる。忌々しい声が。

——それは川辺の石よりも多く海の砂よりもなお多い。白亜の都が崩れ落ち荒野に戻りし後も、あなたの言葉は在り続ける。人の生のかん、七度を七度重ねて覆いきれぬほどの未来に至るまで、あなたの〝物語〟は在り続ける。

 が重なる。絹のごとく滑らかで、蜜のごとく甘く、いわおのごとく硬い声が。

 ゆえに道は一つしかなかった。在り続けるためには、在り続けようとせねばならない。

 ◆

 かくして心は定まった。

 かくして準備は整った。
 滑稽にも、あるいは神々しくも映る立ち姿である。
 右手に長槍、左手に子羊。鈍く銀色に光る兜。背には円盾。
 
 リュクルスは二度目の旅に出る。
 かつて白亜の城壁をくぐった折、彼は全くの独りであった。今、木々の回廊をくぐるとき、供は一人の女である。言葉もろくに通じぬ。

「リュクルス」
 見送りに来たマルガリティアがその背に声を掛ける。青年の耳になじみ深い、微かな諧謔を含んだ音を。
 彼は小さく頷く。言葉は返さない。言うべきことはなく、またその必要もなかったからだ。

 鼻梁まで覆うラケディアの兜は青年の顔を半ば闇の中に隠していた。少女はその碧眼に男の瞳すら写しえなかった。だが、伝えるべきことはあった。
「屈強なラケディアの戦士様なら、きっと大したことではありませんよね。すぐそこの山に登るだけなんですから!」
「ああ。マヌ神にお会いすることほどに大したことはそうもないが、きみに語ったところで通じまい」
「はい。神はただお独り。——ですからリュクルス、子羊アルカンも無事に」
 青年の腕の中、羊は大人しく佇んでいた。青年と同様。

 不意に少女の存在が揺らぐ。
 枝葉を掠めて落ちた無数の光の矢、陽の全てが、その艶やかな金糸の髪を巻いた。美しく。
 リュクルスはその光景を確かに見たことがある。一度は隷民の村で。続いてはエウロイの河岸で。夜に。昼に。

 そこに居たのは少女の形をした何かであった。

「イリスの祭司アポリアマルガリティアは告げます。リュクルス。見事異神の山を征し、帰り来たりし後、イリスの祭司はあなたに授けましょう。——神の御裾みすその下に」

 歌のように声は響いた。

「花の、冠を。王の」