タテガキ

3シーシュポスの眠り 3

2026/04/15 14:27 公開

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 夕食はお食事の間の個室をひとつ取ってもらっていた。畳の間に細い設えの椅子と机が置かれている。六人卓に椅子が五脚。床の間側が三脚。その反対側に一番下座を外して二脚。
 で皆さんの視線が妙に錯綜する。無言の数秒のち、
「社長、よろしければ真ん中いかがでしょう?」
 ぼくは別にどこでもいいんだ。レストランでもないし、そもそも今となっては明らかに内輪の席だし。なんなら下座でみなさんの注文取ったっていい。人として山を下りることすらできないぼくにも、そのくらいの能力ならあるはずだ。コンサルで鍛えられたからね。
「ああ!そうだね。そうさせてもらおうかな」
 一番下座側、床の間と反対側の真ん中の―つまり二脚あるうちの出入口側のほうの椅子に手をかける。と同時に誰かがぼくのあいてる腕を取って引っ張る。例によって知子さんだった。
「せんぱい!そっちじゃないですよ」
 そのまま卓をぐるっと回る。
「真ん中といえばこっちですよ。ね?」
 ニコニコはしてるんだ。ニコニコは。ただ、動きが有無を言わせない。知子さんは右隣の椅子に、こちら向きで横座りした。膝の上に軽く握った両手を揃えて、ごく軽く首を傾げてぼくを見上げて。
「せんぱいもどうぞ?」
 拒否権?ないよ。ぼくは正しく真ん中の椅子に座る。やってもいない重罪を糾問される中世の人のごとくに。笑顔を作りながら、知子さんの笑顔から目が離せない。というか他の御三方が見られない。例の重低音が聞こえてくるならまだいいよ。もっとはっきり言おうか。
 沈黙が超怖い
「…座りましょう?茉莉さんも。アナリースさんも」
 そんな中青佳さんがほわほわっと言う。ほわほわっとだよ。ぼくにはそう聞こえたからね。
 皆さんが動き出し、速やかに空気は弛緩して、席は埋まる。ぼくの左隣に茉莉さん。その向かいにアナリースさん。アナリースさんの隣、さっきぼくが手をかけた椅子、つまりぼくの向かいに青佳さん。ちなみに右隣の知子さんは正しい向きに戻った。
「社長、どれになさいますか?」
 青佳さんはとても朗らかな声で、シームレスに飲み物のメニューを差し出してくれる。これは稀有なことだよ。ぼくの家ならビールの缶が置かれる。定められし新たな友。ぼくは新しい決まりの下に首を垂れる。首といえば、茉莉さんがこっちの方を覗き込んでいるのが視野の左端に入る。真剣、というかちょっと険しい顔で。
「茉莉、見る?」
「わたしは兄さんと同じのがいいです」
「おれと?そうだな…」
 実のところ、まあ昔からのもふもふの友は別として、普段は酒なら何だっていいんだけど。でもこうなったら世界という本の新しいページを、ちょっとはめくりたくもなる。たまにはそういうふうに考えたっていい。小なりとはいえ旅は旅。完全に予定外だったけどね。
 こうして薄弱なぼくの意思は、またもやちょっとなし崩される。なし崩された中、せめてその趣旨に適切に従うなら。
「…これにしようかな。ここの旅館の井戸の水で作った日本酒っていうやつ」
「じゃあ私もそれにします」
「私もせんぱいと同じの!」
「日本食に日本酒。完璧なマッチングマリアージュ・パルフェです。私もご相伴に預かりたく思います」
 これは、ぼくに付き合ってくれてるというやつなんだろうか。でも少なくともみんな、わかりやすく楽しそうにはしてくれている。他の可能性がぼくに伝わってこない程度には。知子さんなんか学校よろしく右手まで上げてるし。
 でもみなさん度数大丈夫かな。まあ大丈夫か。どうせお猪口なんだろうし。
「青佳さんは?」
 青佳さんは婉然と両手を合わせて、伸ばした指の先あたりを軽く組む。かなり単純な仕草のはずなんだけど、その指先までの動きの丸みを帯びたしなやかな優美さ。ぼくはさっきの四阿、じゃなかった小屋での感触を思い出す。
「もちろん、社長がお嫌でなければ日本酒にさせていただきたく思いますわ―みなさんと同じく」
 お嫌なはずがないよね。そもそもお嫌であることは許されていない。社会通念的にも。
 そうこうしてるうちに旅館の人がやってくる。注文を聞いてもらうと何度か出たり入ったりして、めいめいの席に料理やお猪口と、それにぼくの近くに小瓶を置いていった。何の気なしに小瓶を取ろうとすると、またしても既に青佳さんが万全の態勢。浴衣の両袖はシュッと折り捲られ、左手を底に添える形で一分の隙もない両手持ち。
「どうぞ」
「これはこれは、恐れ入ります」
 こちらもお猪口を捧げ持つ。一度お見合いをして筑波山に一緒に来た仲とはいえ、社長と元秘書。美人なその元秘書さんにお酌をさせるぼんくら社長。
 アルハラかな?
 今ぼくは頭を軽く下げてるけど、内心ほぼ最敬礼に近い。去年の今頃誰が想像しただろうか。一年後の社長ぼくが社長秘書の三沢はるかさんに筑波山でお酌をさせてるなんて。しかも他に三人の女性までもいて。
 青佳さんはラベルの上向きまで堂に入った完璧な三度注ぎ。アナリースさんが興味津々で見ているのが目に入る。やがて瓶の口が曲の終わりの指揮者の棒みたいに決然と、しかしゆるやかに振り上がって止まる。ぼくは日本に生きる男として、無言の裡に瓶をもらいにいく。瓶を持っていた青佳さんは、手を離す最後の最後まで丁寧だった。
 瓶の底で一瞬、ぼくと関節一つ分くらい指が重なるほどに。
「ありがとう。じゃあ、どうぞ」
「まあ、ありがとうございます」
 当然の返杯。でも作法は知らないし、普通に注いで差し上げる。と思ったら加減を間違えていっぱいにしたばかりか、ちょっと零してしまった。
「ああ……ごめんなさい。ぼくは不器用だから…」
「いいえ、いいえ!どうぞお気になさらないでくださいな」
 青佳さんは満面の笑み。ますます申し訳なさが募る。とはいえ、ほかの皆さんにもお注ぎしなければ。でも、どの順に?
 迷ったぼくは目に入った順に注ぎにいく。すなわち、アナリースさんからだ。青佳さんの隣だし。
「ありがとうございます。こうですか?」
 持ち方、両手で完璧。初めてとは思えない。
「いただきます」
 茉莉さんは片手持ち。豪快なとこあるよね。
「…あ!ありがとうございます」
 知子さんはね、お猪口を持つのがちょっと遅れた。注いだり注がれたりとか慣れていらっしゃらないのかな?ほほえましいね。
「社長、よろしければ乾杯を」
 ここはずいぶん型通りの流れを青佳さんが作ってくれる。大事だからね、型。どんな状況であれ誰がどんな気持ちであれ、とにかく話が前に進む。大過なく
「ええと。内輪だし、小難しいのは抜きにして。楽しくやりましょう。それじゃ」


     ◆


 日本酒なんていったいいつぶりか覚えていないけど、ぼくの乏しい経験と味覚に照らせば凄く飲みやすくてよかった。少なくとも二回は小瓶をおかわりしたからね。もちろんみんなでだよ。分かち合うこと。それは素晴らしいことなんだ。
 特に楽しそうだったのはアナリースさん。お酒を注ぐべきタイミングとかを青佳さんに色々聞いて、早速青佳さん相手に実践してた。気鋭のフランス人独立時計師から弊社の誇る元社長秘書へ。どっちも美人。なんだか妙な貫禄のあるお酌だったね。もちろん茉莉さんやぼくや知子さんにも、しっかりと。
 お料理もね。品数はいろいろあったけど、どれもシンプルな味でよかった。あと色も綺麗だったな。ああ、あれ。揚げた果物ってやつ。あれはさすがにちょっとびっくりしたかな。
 みなさんのお話もね。まあまあいい感じに盛り上がった。昼の紅葉と夜の紅葉、どっちが美しいかとかね。茉莉さんが断然夜派で、知子さんが絶対昼派。二大国民的お菓子についての論争ってあるじゃない?たまに戦争って呼ばれるやつ。まさにそんな感じ。
 ほほえましいね。
 でいつしか話は山や山を登ること自体に移っていく。みんなわりとしっかりお酒入ってるからね、結構とりとめない。
「折角なら頂上まで登ってみたかったです。でも夜に着いちゃったらどうにもなりませんし」
 これはもちろん茉莉さん。ちなみにぼくと茉莉さん、神社からそのまま来たんで皆さんが浴衣のなか洋服なんだけど、室内なのに茉莉さんはぼくの上着を着たまま。気に入ったのかな。
「私はとても面白かったですよ。岩場と呼ぶべきところもいくつかありましたから」
 アナリースさんは終始ノリノリだったわけだけど、今もまだそんな感じ。
「冒険みたいでしたよね!」
 半分くらいあったお猪口をほぼ干して知子さんが言う。ぼくはあたふたと瓶を取る。知子さんはニコニコしながら杯を持ち上げる。片手で。注ぎ終えて元の位置に戻そうとすると、同じく微笑みながら青佳さんがぼくの手から瓶を取る。優雅に、しかし有無を言わさず。確かに、ぼくのお猪口はもう三分の一ない。ほんとよく見てるよね。
 ほんのり黄色を帯びた井戸の水のお酒が、ほんの少し――つまり、半分くらいの高さになるように注がれる。そろそろ両手で持つのを忘れてしまいそうだ。
「社長、まずこちらもお飲みくださいね」
 しっかり和らぎ水も注がれる。ぼくはまずそれを飲み干す。そう定められたからね。
「せんぱいは凄いです!」
 いきなり何だろう。酔ったのかな?
「だって、ふだん運動してないんですよね?」
「うん、そうだけど」
「それで登り切ったの、今あらためて凄いなぁって」
 ぼくは訝しむ。でも、何を訝しんでいるか言語化しにくい。これはぼくもだいぶ酔ってきたな。でも何かは言わなければ。
「さっきアナリースさんにも愚痴っちゃったんだけどさ、ぼくの足あした筋肉痛だよね、きっと。どうしてできたんだかぼくにもわからないよ。全然知らないとこだし、山道だし。最後は惰性だよね」
「それが凄いところだなって。せんぱいは自分のことを何もしてないとか何もできないとかときどき言いますけど。でもちゃんとやりますよね」
 知子さんの声が変に真面目に聞こえる。ほくは苦笑した。
「すると、ぼくは試されてたってこと?」
「ちがいます。そんな言い方しないでください」
 ピシャリというといささか卑近に過ぎる感じだ。ある種の潔癖さかな。うっすら怒っている顔。またしても大変申し訳ないんだけど、ちょっとかわいい。
「正直、登ったあとでやってみてちょっと無謀だったかもって思ったんです。私でもそうだから先輩はどうだっただろうって。…せんぱいは、さっき途中で言いましたね。いろいろ見てみたいって」
「言ったっけ?」
「言いました。それでさっき私思ったんです。先輩が普段色々考えるのも、こうして今私たちに付き合ってくれているのも、同じことなんじゃないかって。せんぱいは、いつも思索を巡らせるって冒険しているんじゃないですか?それってすごいことですよ」
「あ…うん。そうなのかな。ありがとう、わからないけど」
 ぼくは言い返すこともできただろう。哲学の比喩としては古典的に過ぎるんじゃないかとか、通俗的に過ぎるんじゃないかとか。ああ、あとはね、そもそもこんなものは冒険なんかとは呼べないんだよとか。このぼくの体力のなさや、あといまだに堂々巡りみたいなどうしようもなさは。
 でもね、他の人がそうではないと思うこと。思うだけならまだしも、はっきり言明してくれること。ぼくは試みに問わなければならないのかもしれない。そのことに本当に価値はないのか?って。つまり、ぼくには見えていなくて、他者にはそう見えていることが。ぼくにとって、あるいはぼくでも他者でもない誰かとか、何かに照らして。よくよく考えてみれば、ないとは言い切れないからね。言い切れない以上、可能性はある。常に。
 知子さんには感謝すべきか考えなければならないことが恐らくいくつかある。美術館でのこととか。だからといって、このぼくの悩みが消えるわけではない。それは前にも言った通り。かもしれない、だからね。留保すべきものはいっぱいある。
「そう言ってくれるのはうれしいよ。私はそれを受け止めた。確かに。でもぼくのどうしようもなさはね、いいかい」
「兄さん」
 左肩を引っ張られて振り向くと、茉莉さんがぼくを見ていた。これもまた真剣な顔で。
「私達、まだ温泉に入ってないですよね。ごはんも済みましたし、そろそろどうですか?」
 正確には、ぼくは一回入ったんだ。でも茉莉さんはまだだよね。確かに待たせたら悪い。
「あ、そうだね!皆さん、申し訳ない。結構長い時間盛り上がったし旅館の人にも悪いから、そろそろおひらきにしましょうか?」
 青佳さんはともかく、アナリースさんと知子さんはまだ飲みたそうな顔をしてた。あ、でもね、アナリースさんが最後にこんな感じのこと言って知子さんもちょっと嬉しそうについていってた。ほんと好きだよね、例の小説
「チカコ、もしよければ部屋まで連れて行ってくださいませ?積もる話もありましょう」


     ◆


 酔っ払って温泉に入るのはやめろ、って注意書きあるよね。でも、やってみると凄く気持ちいいんだ。あらゆる疲れが抜けていく。食事の席の些細な諍いとか。このぼくの社長としてのどうしようもなさとか、そういうの。リセット、っていうのかな。
 だとしたらぼくはまたしても、青佳さんに感謝しなければならない。
 

     ◆


 温泉をのぼせない程度にきり上げて浴衣を着て部屋に戻ると、一人だった。当たり前だよね。男女同じ部屋なのはまずい。いくらなんでも。
 ことにまずいのは知子さんがいるところだ。だいたい、突然できた予定で同じ宿に同じ日に泊まるってだけで、明らかに何らかの矩を超えている。ほかの皆さんがいらっしゃるからどうにかなるのかもしれないけど。
 だとしたら、これが今日の終わりだ。ぼくはもう、眠るべきだ。
 だっていうのに、一体どうしてだかノックが聞こえる。
「兄さん」
 茉莉さんらしき声。一応他に誰かいないか、ドアのレンズは覗く。まぁ誰もいないけど。
 ドアを開けるね。そうすると、茉莉さんの半身くらいが目に入る。ビシッと締められた襟元。肩の下から腰の帯あたりに至るまでのシャープさ。
 でもね、それらはどうでもいいんだ。彼女は今、持っている。
 ぼくの古いもふもふの「友」を。その胸に抱いて。
「来るまでのコンビニで買ってきちゃったんです…」
「ありがとう、でもぼくはね、もう寝ようとしてて」
「兄さん。私は飲み足りないです。いけませんか?」
「いけなくはないよ。大人の飲酒はそれぞれの酒量によるべきだからね。でもね?茉莉。ぼくは」
「兄さん。わたしは大丈夫です」
「いや、だとしてもさ、まずいよ」
「何がまずいんですか。私は親戚の兄さんと飲みたいだけですよ。何がまずいんですか?」
 だそうだ。茉莉さんの視線はほんの少し揺れながら、ぼくの目を捉え続けている。北極星を目指そうとする磁針の如くに。
 さて、どうしたものかな。