タテガキ

4シーシュポスの眠り 4

2026/04/17 14:38 公開

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 最終的にぼくの判断を後押ししたのは、またしても他者の言葉だった。
「兄さん。寒いです」
 直近で既視感のある言回し。たしかにいまいちだからね。廊下の暖房。
「…わかった。まあ入りなよ」
 おそらく浴衣ぎりぎりまでの歩幅で入ってくる。ぼくは扉を閉めてすぐ茉莉さんの後に続いた。昨日も今日も、ぼくはなし崩しに負けっぱなしだ。
 とはいえそれもここまで。ぼくは大人だし、茉莉さんも大人。社長と社員でもある。かつ遠縁ながら親戚だ。
 だいたい、複数人での旅行の中には行動規範というものがある。さすがに茉莉さんだって飲む以上のことが頭にあるわけではないはずだ。いくらなんでも。
 そりゃ茉莉さんはW大だからね、色んな飲み会も経験して大人になってきたことだろう。酒精アルコールに弱いとは言っても。三次会やら徹夜やらがデフォルトの集団だってあるからね。あるいは、飲み会の都度性質たちのよくないことが起きるという噂のあるところも。ぼくも一応学生だったことはあるから、そのくらいのことは知ってる。でも、茉莉さんならそういうのは反面教師にしてくれているに違いない。きっと。
 何の迷いもなしにコップのあるところに行って取って、よどみなく低いテーブルにコップを置く茉莉さんを見ながらそんなことを考えた。
「ずいぶん慣れてそうだけど、さすがにここは前職と関係ない物件なんでしょ?」
 ぼくは軽口を叩く。茉莉さんは、南米原産でもふもふの、一月か二月ぶりに見るぼくの旧い「友」を持ってきてくれた。行動規範の話はさておき、旧友の再訪を喜ばない人がいるだろうか。いないよね!それゆえぼくは茉莉さんに、行動における主導権を取られたわけだ。またしてもあの手錠の夜と、長年のその他諸々のごとくに。こうなると少しはぼくのペースを取り戻したい。
 あとね、花火の夜以来、彼女たちに対するぼくの遠慮がわずかばかり減ったことは否定しない。そのうち最も否定しがたいのは、茉莉さんへの応対においてかもしれなかった。
「はい、残念ですが。でも、旅館で何がどこにあるかはだいたい想像つきますし」
「なるほどね。前職の知恵と教訓ってやつか」
「…兄さんって、ときどきちょっと変なこと言いますよね。知恵といえば知恵です。でも前職じゃなくたって」
「確かにね!人生で何回か見てれば、それはそうか」
 酔っぱらったぼくをどうか許してほしい。茉莉さんは賢いね、と言おうとして聖書を不適切に引いた不信心なこのぼくを。軽薄この上ないこのぼくを。
 ぼくと茉莉さんはローテーブルを囲む。ぼくから見て右斜め九〇度に茉莉さんが着座する。
 茉莉さんは薄っすら上気した顔で、スクリューキャップを勢いよくひねってキリリと音をさせながら開けた。ぼくにはコップ半分注いでくれる。そのまま自分のところに四分の一ほど注いだ。
「あっ、ごめんね」
「いえいえ。いいんです」
 そのまま他人に手酌をさせたときのお決まりのやりとり。でもなんだかオフレコ感もなくはない。今日あらためて思ったんだけど、複数人どうしの日本酒のお酌は、そのまま半ば言語化すらし得るかなり記号っぽいコミュニケーションだ。しかも互いの社会的立場に特化した。
 現職になってぼくはそういった機会をできるだけ避けるようにしている。だって楽しくないでしょ。社長ぼく―つまり職場の最高権力者(お飾り)が居続ける飲み会なんて。行ったとしてもちょっと乾杯して、そっと幹事さんにちょっとだけ厚めのお気持ちを渡して、それでおしまい。
 さっきのはあくまで内輪だったけど、とはいえ配慮は欠かせない。だから今はさっきまでと比べたら雲泥の差で気安い。何しろ一対一だからね。あと前回二人でもふもふの友とよろしくやったときは、手錠で繋がってたからね。二人してうとうとしながら喇叭飲み。しかもぼくのほうは長旅に出かけようとしてた。そう思えば確かに、ちょっとは寛いでいる(前回比)ところもある。
「じゃあ、乾杯ですね。お疲れ様でした」
「うん。乾杯――お疲れ様」
 どう返せばいいか困ったので、そのまま言葉を返す。茉莉さんは破顔した。
「兄さん、やっぱり疲れましたよね!リラックスしてくださいね」
 ぼくは曖昧に笑った。やっぱり、って何に係っているんだろう。ここは最も無難な答えを探さねばならない。間違えたらまたしても戦争だからね。たぶん。
「おれの足はもうダメだよ。今日はやりすぎた」
「登るだけでも大変だったでしょうね」
「ほんとにさ。よくやったよ。二度とできる気がしないね」
 これは心からの本音。冷静になってみれば高低差六百m・総延長二千m以上の山道だよ。次は無理。勢いってすごい。
「大学の同期にいましたよ。雨上がりに手提げで筑波山登って下り坂で転んで骨折った人。ちょっと失礼ですけど兄さんが下りをケーブルカーにしたのはいい判断だったと思います」
 ぼくは苦笑する。茉莉さんは真剣な面持ち。フィジカル強者ならではの態度だなと言えなくもない。
「茉莉、結構容赦ないね」
「兄さんは悪くないです。筑波山は舗装されてないですから。ちゃんと山だって、行ったことないと知らないです。高尾山じゃないんですよ。まあ、若い子とか体力ある人はなんとか登り降りできちゃうんでしょうけど」
「詳しいね」
「…高校のときに登ったことあるので。あと大学で友達に尾瀬の山に連れて行かれたことがありまして。山は怖いなって思いました」
「茉莉、あるの?怖いものとか」
 言ってからしまったと思った。茉莉さんが下を向いちゃったので。
「ごめんごめん!なんでもないよ。忘れて」
「…すみません。とにかく油断は禁物です」
 茉莉さんは呷るようにグラスを傾けて、四分の一を八分の一くらいにする。ぼくも彼女に倣った。つまり、半分ほど干した。
「茉莉、どう?転職してから」
 私事の話はさておき、これいい機会だからね。中途入職した有望な社員の福利厚生のためには。
1on1 面接。リラックスするためのもふもふの友達つき。こう言うといかにも吝嗇かつ淫猥な感じになっちゃうけどね。でもほら、怖いから。人について出ていくお金って。減らせるならそれに越したことはない。ぼくは社長としてそう思うことにした
「はい。皆さんとても親切にしてくださいます」
「本当に?」
「本当ですよ」
 とはいえぼくとしては色んな可能性を吟味しなければならない。茉莉さんが不都合を遠慮してる可能性。皆さんが茉莉さんの圭角をみて見ぬふりな可能性。それと、茉莉さんに限ってそれはないと思うけど、能力が職務にうまく合わない可能性。
 茉莉は、少なくとも不服を露わにしなかった。これは極めて重要な点だよ。そうでない場合、問題をしっかり洗い出さなければならなくなるからね。高い確率で根本から。
「嬉しいよ。ほら、うちって良くも悪くも昭和な感じでしょ?だから大手から来るとイマイチさを感じるかもってさ」
「セクハラ的なやつですか?」
「…そこまでは言わないけど、そうだね。性別による区別とか、そういうの」
「そこは最初から想像はしてました。でも思ったより全然なかったです。前職も前職で、業界もあれなので、まあちょっと色々なくはなかったですから」
 想像はしてた、だって。ぼくは茉莉さんの優しさに胡座をかいているのだろうか。
「…でも正直、思うんです。私って親戚じゃないですか。だから、下駄履かせてもらってるところはあるのかなって」
「そんなことはないと思う。茉莉は茉莉だよ」
 これも本心。でも、同時にカバーストーリーでもある。だって、いないわけないでしょ。いきなり飛び込んできた社長の遠い縁者(女性)。そこにぼくの強い意向が働いてないのかなとか思う人が。なんなら、親戚とは異なる種類の深い関係の女性なんじゃないか、とかね。
 今のところそうではないけど。断じて。
「こう考えたらどうかな。例えぼくの名前が茉莉を守っているとしてもさ、それは不必要な軋轢を避けるための魔除けのお札みたいなもんなんだって。どんな仕事をさせてもらえるかは結局茉莉自身の能力によるんだろうからさ。もうちょっと自信持ちなよ」
 他人事感も甚だしい。実際、他人事でもある。個々の部署の業務分掌なんて、ぼくの知るところじゃない。全くもって。
 そういうのは、もっとちゃんとした人たちがやることなんだ。
「……はい、そうですね!ありがとうございます、兄さん。じゃなかった、社長?」
 茉莉さんは急にニコニコする。正直に言おう。かわいい。
「やめてよ。確かにぼくは社長なんだけどさ」
「ごめんなさい、兄さん」
 茉莉さんは、またコップを呷った。こんどは八分の一がゼロになる。机にコップを戻した動作のそのままの流れで、茉莉さんは座っている椅子の座面の脇を両手で持った。立ち上がりながら椅子も持ち上げて、移動させてくる。器用だな。
 ぼくの隣に。まさしくポップアップする。ジャンプコマンドが大事な日本発世界的アクションゲームコンテンツかな?
 上気した頬の紅が、少しだけ鮮やかになる。茉莉さんはまた、もふもふの友をコップに注いでくれた。頬よりも鮮やかな赤紫色。例えそれがどんなに暗い色調だとしても、太陽に勝る鮮やかさを持ち得る。旅館の暖色の照明の下では特に。
 ワインって、太陽の結晶だからね。
 だからそれは人を狂わせる
「……でも、兄さん。わたしは寂しいです」
 内容と声調の変化にぎょっとして横を見ると、茉莉さんが頬を軽く膨らませていた。正確には、そう見えた。少し唇も尖らせて。顎先もほんの少し反らせて。
「だって、会社には毎日いないですし。私になんにも知らせないで筑波山に行くことにされたし」
「…ごめん。返す言葉もないよ」
 なかったことにはなってなかったらしい。とりあえず謝っておく。謝罪は初動が肝心だ。
「ですから、兄さん。私は要求します」
 茉莉さんの目が近づいてくる。これ以上ないくらいに大きく見開かれて。ぼくの危険感知センサーが今更のように激しく鳴り響く。
 これは、まずい。
「もう私を怖がらせないでください。ずっといてください。兄さん」
 ここに及んで茉莉さんの話す言葉の内容に意味があるとは到底思えない。というか意味を詳しく検討できない。
 みんな知ってるかな。人の目に自分の顔が映るやつ。あれ、本当にそう見えるんだよ。
 本当に。
 太陽の結晶香りがね。
 ことさらに強くなった。
 ことさらに


     ◆


 扉がノックされた。
 ぼくはのろのろとそちらを向く。返事をしかけたところで扉が開いた。オートロック?ないよ。ここは昔の日本式だからね。
「やっぱり!ずっとお風呂から戻ってこないと思ったらここだったんですね!」
 まず知子さん。
「知子、知子。返事を待たずに入るのは、どの職場でも感心されませんよ?」
 続いてアナリースさん。今日のアナリースさんはいつ見ても楽しそうだ。
「…青佳さんは?」
 後ろからついてくるかと思ったけど、現れない。
「寝ちゃいました。よっぽどお疲れだったみたいで、『あとは御三方で』って。だからわたし、アナとお喋りしながら待ってたのに。茉莉さんったらずるいです」
 知子さんはいかにも不満げに腕を組む。一方の茉莉さんはすっかり凛々しいを取り戻してる。でにこやかにしてみせた。
「ごめんなさい、このところ私は兄さんとたくさんお話できてなかったもので」
 知子さんは直接答えずに。その視線がワインボトルとグラスを一撫でする。
「せんぱいも!二次会するつもりならもっと早く言ってください」
「…ああ、ああ。これはね。私はいつもうっかりしてるから」
「知子、私の理解では二次会というものは急に発生することもあります。それで待ちきれない人はうっかり乾杯の練習をすることもあるのだと。そうですね?」
 アナリースさん、妙な日本語知ってるな。いつの間にかいつもの抑制された微笑みに戻ってる。
私達はうっかりの頻度は人によっては比較的高いことを知っています。そしてそれは人生です。不作為ではなく」
 つまりうっかりでないところには不作為も含まれる。論理の初歩だね。
 急速に頭と背中が冷却される。
『造園業三代目社長の乱倫!女性社員に不適切な関係を強要か?』
 そんな見出しが脳裏をよぎる。自室で二次会もだいぶアウトに近い。でもさっきまでよりははるかに遠い。
「ワインは茉莉さんが既にお運びくださったようですから、私はもう二人分のグラスを取ってまいります。お待ちくださいませ」
「ありがと、アナ」
 アナリースさんが扉の方へ歩き出すと、知子さんはその辺の椅子のようなものをぼくの左前あたりに持ってきて座った。
「大学は二対一ですね!」
「あら。卒業後でも二対一ですよ」
 忘れている人もいるかもしれないけど、知子さんはぼくと同じK大でしかも現役。
 二人は悠然と笑みを交わす。竜虎相搏つを、ぼくは黙って見ていることしかできない。
 地獄とは他人のことだ
「茉莉さん、せんぱいと何をしてたんですか?」
「―別に。ただお仕事の話とか、今日のこととか。あとは大人の秘密です。ね、兄さん?」
 頼むからぼくにそうやって話を振るのはやめてほしい。
「せっかく皆で来たんですから、皆で楽しむべきですよ!」
「ふだん皆さんはよく集まってるんですし、集まれてない立場のことも少しはご想像いただいてもいいんじゃないですか?」
 隣り合った二つの濁流の水位が徐々に上がっていく。ぼくはその真ん中の堤防に辛うじて立っている。どちらの飛沫しぶきも浴びながら。どちらからも足場を掘り崩されそうになりながら。
 そのさなかにアナリースさんが戻ってきた。優雅な手つきで知子さんの前と自分のところにグラスを置く。
「皆様、杯が空いていらっしゃいます。お注ぎしましょう」
 赤いもふもふの友が四つのグラスに注がれる。
 慎重を期しているらしいアナリースさんが両手で持つボトルが傾けられるたび、手首の時計も翻る。金属のケースがきらりきらりと部屋の明かりを受けて明滅した。
「―お酒は。時に諍いの元となります。でも、楽しみの元でもあるはずです。そうですね、あなた?」
 手に持ったグラスを軽く掲げて、アナリースさんはぼくに語りかける。
「あ…うん。そうだね」
 ぼくも知子さんも茉莉さんも、気圧されるようになんとなくグラスを持ったり掲げたりしてた。知子さんは両手で手許に。茉莉さんは帯の上端あたりに。ぼくは軽く浮かせて。無様にもちょっとだけ震えながら。
「眠る前の青佳さんは言っていました―『社長が少しでも普段のお辛さを忘れられていたらいいのですけれど』と」
 確かに今日ぼくは部分的になし崩された。皆さんに、色んな角度から。そのことはいつもの悩みと少しだけ距離を取ることにつながったかもしれない。
 それは否定しない。青佳さんがぼくのことを心配してくれたのもわかる。だからといって釈然とはしないよね。お辛いかどうか。それを手放すべきかどうか。それはあくまで、ぼくの領分に属することのはずだ。
「―あなた、よろしければ」
 アナリースさんが若干悪戯っぽくぼくの顔を覗き込む。
 しかし。それらがぼくの領分のことだとしても、なお。
 何物にも代えがたいはずの彼女たち自身の意思をもって、ぼくのことを皆さんが気にかけてくれるなら。その意思自体に価値がないなんて、言い切ることは正しいのだろうか。
 夜の眠りは甘美で残酷だ。いついかなるときも。
 それはぼくをぼくではない、にしてしまう。
 今日のぼくは、部分的に眠っていた。たぶんね。またもやなし崩されるだけだとしても。もう少し眠っておくのも、一度くらいなら悪くないかもしれない。
 それをぼくが選ぶのならば
「……さっきはぼくだったからね。よろしければ、アナリースさん?」
 その白皙の顔は満面の笑みを湛えた。
「では、美しい紅葉とわたくしたちの友情に」
 皆一斉に杯を掲げる。


      ◆


 その晩、ぼくがそれなりの安堵感に包まれて本当の眠りについたのは、零時を少し回った頃のことだった。
 もちろん、一人でだよ。これについては、ぼくの意思の結果としてね。