タテガキ

2シーシュポスの眠り 2

2026/04/13 15:48 公開

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 知子さんが言う、「それは美しい紅葉」というのは、山道の途中にある小屋―ほとんど四阿あずまやのような―の周りのことだった。こちらも鮮やかな紅、オレンジ、そして黄色。
「…鮮やかで多彩で、しかも緑との対比が素晴らしいですね。枝の形も勢いがあってきれい。神社もでしたが、日本の紅葉もみじが『ただならぬ断絶』、そしてそびえ立つと小説に書かれたのもわかるような気がします。そびえ立つといえば、おかしな感想なのですが、山の中にさらにまた起伏を重ねるような…」
 さすがにうっすら上気したアナリースさん。純白の肌が血色をわずかに纏ってて、なんというか、その。はっきり言おう。色気がすごい。あと紅葉の枝を見上げて木の下に佇むとオーラもすごい。恐ろしくになる。何せものすごい美人だから、居合わせた何名かの登山客の皆さんの「こんにちは」にも妙な気合が入ってる。
 アナリースさんが言うように、この辺りの紅葉は一面の常緑樹のなかに浮かび上がっていて、小屋の周りの様子なんかは確かに見事だった。あと左手首のベルトの色の意味が遅ればせながらやっとよくわかった。多分予習のときにしっかり景色の写真も見てたんだろう。お洒落。
「せんぱい見てください!眺めもすごいですよ!」
 知子さんは知子さんで大興奮らしい。両手でぼくの袖を掴んでそちらに振り向かせてくる。いや、腕ごと抱えて引っ張ってくる。その、ちょっと痛いかな。肩が。
 十歳以上離れたおじさんにほとんど屈託なく、あまつさえ明確な好意を向けてくれる、これもまた美人の大学生(太めの実家つき)。本当にまるでぼくみたいな小説の素人が泥酔して書いたような場面だけど、なにしろ事実だからね。知子さんじゃなかったら明らかに何らかのドッキリを疑うべき状況だ。そして深夜の誰も見てない番組で流される。ほとんど誰にも、消費すらされずに。
 ここまでではじめて眺望があるところに出たし、それに物珍しさもあるのかな。言い出しっぺの彼女が喜んでくれているなら本当に嬉しい。
 ただね、ぼくはもう疲労困憊。なにしろ高さにして四百m以上も登ったらしい。運動といえばたまに棒を振り回す以外に―打ちっぱなしのゴルフだね、要するに―ほとんど縁のないぼくとしては、ここ十年で一番の大偉業だ。
 そう考えると案外、山に登るってのも悪くないかもしれない。なにしろ、ぼくみたいな無能なお飾り社長でも、歩いてさえいれば高みに届くことができるんだからね。それに、ただ物理的に高いというだけで、その苦労はなぜか正当化されもする。
 それが純然たる徒労であるがゆえに。

 ぼくは知子さんに引っ張って行かれたところで、そのまま小屋の柱の外側にもたれてぼんやり大きな湖のほうを眺めている。ロープウェーの軌道が目に入る。駅はどこにあるのかわからない。かなり下の方なのかな。この辺りを上から見たら、どう見えるんだろうな。紅葉と、それに地を這うぼくを見たら。
「どうぞ、社長」
と、代わってやってきた青佳さんが麦茶とチョコを差し出してくれた。ありがたく頂く。ぼくは甘いものも好きだ。青佳さんのこの優しさも、ここだけの話とびきり甘い
 そのまんま青佳さんはぼくと並んだ。小屋の裏手のほうから知子さんとアナリースさんの声が聞こえてくる。知り合ってまだ一年もたたないのに、何故か少しだけ懐かしい感じがある。たぶん疲れすぎたせいなんだろう。
「社長、もう少しで頂上ですね」
「そうだね。でも、知子さんが言ってた綺麗なところって、ここのことでいいんでしょ?」
 ぼくは今、紅葉を楽しんでいる。正確には、紅葉を楽しむ皆さんを見て心から楽しんでいるんだ。
「そのようですわね。でも社長、この先の登山道は見たことがないような巨岩・奇岩が目を楽しませると、ガイドにはあるそうですわ」
 だからもう、この大偉業の目的は達せられた。そのはずなんだが。なぜか青佳さんはまさしく無益で希望のない労働をさらに勧めようと試みる。甘さの綾でぼくを繋ごうとしながら。
「私としましては、ぜひ一緒にこの先も楽しみたいと思っておりますわ。あなたをお支えして。せっかくここまで来たのですから、もっと高いところ。新しいところへ」
 せっかく。
 日本語のマジックワードでも屈指の力を誇るその言葉は、つまりなし崩しの別名に他ならない。あるいは、ぼくにまたイケイケ経営者を目指せとでも、指嗾しているつもりなのかな。
 とか益体もなく思ううちに青佳さんの肩がぼくに触れた。だらりと伸びたぼくの右腕の先の先、今はまるでゴムの塊みたいに動かないあたりにその指が何本かそっと触れる。添えると絡ませるの、ちょうど間をとって。

 わずかに、あるいはいくらか、ぼくの時間は止まる。
 どれか、野外でも大丈夫そうな時計を着けてくればよかったな、となぜか突然考えた。
「青佳さん!写真撮りましょうよ、三人で!」
 聴覚と、次いで視野に知子さんが急に入ってきて、ぼくの時間は動き出した。見ると青佳さんの手は何事もなかったように前に揃えられている。
 青佳さんは、すぐにニコニコしながらこう言う。
「ええ、ぜひ。その後社長も入っていただきましょう?」
 色とりどりの紅葉をバックに、アウトドアルックの美女三人が自撮り。旅行会社のSNS宣材でだってそうそうお目にかかれない光景だ。その後、真ん中にくたびれたシャツのぼくが入ってもう一枚。ちなみに例の爆撃機用の上着は知子さんが撮る前になぜだか着たがったので貸してあげた。知子さんが着るには大きめだと思うんだけど、パーカーの上からそのまま羽織るとミスマッチ感で不思議な味があった。何でも試してみるものだね。
 撮り終わると、アナリースさんが紅葉の下で真正面からぼくを見据えてこう言った。
「さあ行きましょうあなた。私はあなたとこの先を見てみたいです」
「私も楽しみです!」
 なるほど。ならばぼくは喜んでこの徒労を続けることにしよう。ぼくとともに在ることを、皆さんが楽しいと言ってくれるなら。

 ぼくの意思として

「…そうだね。ぼくとしても、いろいろ見てみたい。皆さんとね」

     ◆

 山頂までのことはよく覚えてない。青佳さんが言ったように、巨大な岩は確かにいっぱいあった。どう見ても人の手では動きそうにないものたちが。まるで美術館みたいに解説文が立っていて、その時は一々なるほどと思った記憶はある。なんだけど、名前と形があんまり結びつかなかったのが正直なところだった。

     ◆

 そして今ぼくは、頂上を降りた先の広場―御幸ヶ原というんだそうだ。レストハウスや小さな食堂兼売店が数軒立ち並ぶ、その一角にあるカフェにいる。ログハウス風の天井は梁と柱がむき出しだ。これこそ安らげる小屋って感じ。北側の展望窓がカウンターになってて、もちろん大体は椅子席なんだけど、はじっこだけ小さな座敷みたいな八畳くらいの板敷きになってる。
 ぼくは座敷の端に、昔からの家の高い上がり框に腰掛けるようにして座っている。カウンターテーブルを肘掛けのように、だらしなく左腕で頬杖をついて。青佳さんはちょうど今、ケーブルカーの下り切符を買いに行ってくれたところだ。さすがにこれ以上山道はきつい。知子さんはもうちょっと前に土産物を物色しにいったまま戻ってこない。
 すぐ横、というか目の前にはアナリースさん。
 コンマ一桁ミリメートル単位の動作精度を誇るであろうその白磁の手が今、コーヒーカップから離れたところだ。その手はさっき少しだけ―つまり山頂のすぐ手前の急な傾斜で惜しげもなく岩肌を掴み、ついでにその後ぼくの手も引っ張り上げてくれた。
 なんだろうね。上流階級に属する人の能力の高さ、もしくはぼくの能力の低さを見せつけられた気分だ。生き物としての。
 もしぼくが、中世ヨーロッパでもリュテス王国でもサンテネリ王国でも何でもいいけど、今この瞬間に現代日本と全然違う世界に飛ばされたとしよう。
 たぶん生きていけない。
 だって、ぼくを守ってくれる人権のない世界だよ。言葉の通じない中年男性。身ぐるみ剥がれて、ついでに後腐れなくグサリ。
 ぼくはそれに抵抗する術を持たない。
 せめて財産か身分が欲しいところだ。友人がいればなおいい。そう、ぼくは日本でも他の世界でも何かにすがらないと生きていけない卑怯者だ。あ、卑怯ついでにあと言葉も欲しいな。『家付きで異世界に放りだされたぼくだが、翻訳の恩寵と前世のお飾り社長経験で華麗に成り上がる!』みたいな、そんな感じで。
『………』
 よっぽどぼくが調子悪そうに見えたのか、アナリースさんがものすごく心配そうな顔をして何か話しかけてくれた。まるで十歳になるかどうかの少女みたいな直截さで、その極めて端正な顔にさざ波が立つ。
「なんですって?申し訳ない」
 ただね、聞き取れないんだ。彼女たちの例の超高精度人工言語サンテネリ語とも違う。ドイツ語に似てるけどちょっと違う感じ。
「……ごめんなさい。大丈夫ですか?あなた」
「いや、こちらこそごめん。おかげさまで少し回復してきました。ぼくにはわからないけど、いくつもの言語を喋れるというのは、まさに努力の賜物というべきなんでしょうね。月並みですが」
 空想の罪深さにおののく。誰よりも言葉の壁に耐えている人を前にして。あるいはルーツの一つに何かヨーロッパの少数言語があるのかな。フランスやドイツやベルギーのあたりって細かくみると本当に複雑らしいからね。
「ありがとうございます。勉強することはずっと好きでもあったものですから…最初もただ、させられていただけでしたし」
 少し目線を下に外して、見たことのない、なんと恥じらいのようなものがアナリースさんの顔を覆っている。日本語のほわっとモードだからかな?びっくりするほど整った目鼻立ちに、今日は高い山の天気のようにあらゆる相が現れる。
「でも、あなたは私と、いえ、私たちと共に在ることを意思してくださいました」
 アナリースさんの日本語は、流暢でちょっと古風で美しい。それゆえ意味を取るのに少し迷うときがある。これは、今日のことでいいのかな。
「ああ!まあ、大変だったことは否定しませんよ。私の足なんて普段さんざん甘やかされていますからね。今だいぶガタが来ているかもしれません。でも、私としては自分の足よりあなたの時計がいささか心配です。何しろ気づけば最後の三カ所だけは明らかに急でしたしね」
「……私の時計は大丈夫だと思いますが、それはどうでもいいのです。私は嬉しく思います。あなたがこの美しい山へ連れてきてくださったこと。そして共に来てくださると意思したことを、何より嬉しく思います」
 直球の好意。何というか身体―胸に響くものがある。
「途中で降りることもできたでしょう?でもそうしなかった。あなたはmon chéri
 アナリースさんが潤んだ目でまっすぐ見つめてくる。こういうのは、物語の中だけのことだと思っていた。でもね、今ある。ここに。徒労の報酬なのだろうか。
 目から目が離せない。今や日本語においても、彼女は美しい獅子だ。

 そのとき、机に置いていたぼくのスマートホンが振動した。手にとって見る。通知画面をタップする。メッセージアプリが開かれる。
 茉莉さんだった。写真が映った。さっき四人で撮った紅葉の。
『楽しそうですね。 12:06』
 ぼくはたまに、茉莉さんから若者の文字コミュニケーションについてレクチャーを受けることがある。なんでも文末に句点を打つことは推奨されないのだそうだ。怒って見えるから。まる。
 さて、ぼくは何て返信したものだろうか。まる。

     ◆

「すごい!兄さん見て見て!綺麗………」
 言われなくても見てるけどね。確かにこれはすごい。神社横のケーブルカー駅の周りの鮮やかな紅葉は、道沿いに一面にライトアップされて山の夜に浮かび上がる。妖艶というか、もはや凄絶。
 そして茉莉さんがぼくの手を強く握りしめる。指と指が絡まるタイプの握りで。
「転ぶといけませんから」
 とのことだが、こっちのほうが転びやすくはないだろうか。
 茉莉さんは一体どうやってか定時に会社を出たらしい。そのまま国道から外環道と常磐道を抜けて、谷和原で降りて筑波山へ。ぼくもほぼその道で来たからよく分かるけど、なんなら高速道路を降りてからのほうがスピード出せる区間すらある。
 で七時過ぎにぼくたちの宿に着いたわけだ。ほかの御三方は遅い夕食の前に二度目の温泉を楽しんでいる真っ最中。昼間の紅葉を逃した茉莉さんが、ライトアップ八時までやってるよと聞けば、
「行きましょう、兄さん」
まあこうなるよね。
 顔はね、キリッとしてる。顔は。でもなぜかぼくには見える。立った耳と振られるしっぽが。 またもやものすごく失礼な空想なんだけど、柴犬?いや、やっぱりゴールデンレトリバーかな。とにかくぼくは散歩をせがまれる怠惰な飼い主よろしく、浴衣を昼間の格好に着替えると本日三度目の神社周辺に向かった。茉莉さんはぼくの上着をちらっと見たけど、何も言わなかった。
 ちなみに泊まること自体は最初から決まってた。昨日の夜青佳さんが光の速さで宿抑えてたからね。有能秘書ムーブが全く錆びついてない。
 日帰りの可能性は検討すらされなかった。
「温泉もゆっくり楽しめますから」
との青佳さんの提案は知子さんとアナリースさんの賛成多数により速やかに可決された。多数決。民主主義の基本だね。
 そんなわけで予約は青佳さんがしてくれてたから、人数に茉莉さんが入ってたことなんて知る由もなかった。彼女たちなりの信義則があるんだろう。
 ちなみにぼくがそれを知ったのはチェックインのときだったんだけどね。
「怒ってませんよ?兄さんから連絡がなかったことは。青佳さんがすぐ連絡くれましたし」
心なしか握られる手の力が強まる。
「兄さんなりに気を遣ってくれたんだろうなとも思いますし。思ってませんよ?いいご身分ですね、だなんて」
 冗談めかしてピンポイントでぼくの弱点を刺しに来る。刺しに来るというか、ハイヒールの踵のような圧。
「でも、こうして二人でこんなに綺麗なところに来られましたから。だから、なかったことにしてあげます」
 ついに人目も―といっても銀座のど真ん中ほどではないけど―憚らずに抱きついてきた。絶妙に物陰なので目立たないところではあるだろうけれど。
「兄さん、自撮りしましょう」
 そのままスマホを取り出す。フラッシュが炊かれ、シャッターが切られる。情けないぼくの顔とうれしそうな茉莉さんの顔が切り取られた。
 ところでこの後その写真はどうするのかな。

 ライトアップの時間が終わりかけた頃、ぼくたちは宿に戻った。
「兄さん。寒いです」
とか言ってぼくの上着を強奪した茉莉さんはすっかりご満悦だ。
 さて、この後は夕食らしい。ぼくと四人が揃うのも、随分久しぶりではある。楽しい会になるといいな。
 ではいってきます。