タテガキ

1シーシュポスの眠り 1

2026/04/12 22:43 公開

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 惰性は偉大だ。少なくとも背中は押し続けてくれる。なんなら極めて物理的に。この長い曲がりくねった坂道を登り続けさせてくれるのは、ぼくの小うるさいちっぽけな意思なんかじゃない。もう純度百%の惰性。
 だからぼくは歩き続ける。人としてではなく。百%、物と化して。

 つるつるした石のような、岩のような大きさのものがしばらくぶりに途切れる。石というなら、亀みたいな速さでそれを踏みしめてたぼくの両足のほうがよっぽど石みたいだ。
 と思ったら下がふかふかした土になった。急に平らになる。
 目を上げるとそこはちょっとした平場になっていて、知子ちかこさんがその先の石段をひょいひょいと登っていってるのが見える。振り返る気配も止まる気配も全くない。元気すぎるでしょ…さすが大学生。
 あたりは純度百%の緑の森だ。ついでに山でもある。森の中をいつもながらの律動で歩いている知子さん。リスか。いやウサギかな。どっちにしても普段と同じ小動物感。
「見て見てアナ!小っちゃいドングリが落ちてる!」
「アカガシの木がこの道沿いにあるそうです。ここには針葉樹しかないようですから、上の方から落ちてきたのでしょう。ちなみにアカガシは食べられませんが、よく似た大きさのスダジイの実は食べられるそうですよ」
「へえ!アナは本当に何でも知ってますね!」
「ちょっと予習しただけですよ、知子」
 微妙に得意そうなアナリースさん。知子さんの隣のような後ろのようなところについていってる。あの痩身で息一つ上がってない。侮れない。
「社長、大丈夫ですか?少し休みますか?」
 すぐ後ろから青佳はるかさんが声をかけてくれる。
「…ああ、…………ああ。ありがとう。青佳さんはいつも私を助けてくれるね。休もう。少し」
 ぼくは次の石段のすぐ横の、まあまあ大きな岩に腰かけた。ちょっとふらふらする。秋もだいぶ深まっているはずなんだけど、ぼくの体はとにかく否応なしに熱で満たされている。
 一息つくや、青佳さんがペットボトルに入った麦茶を差し出してくれた。キャップも開けて。ぼくは両手でそれを受け取り、何も考えず一気に半分くらい飲み干した。
「せんぱい、大丈夫ですか?やっぱりここから降りますか?」
 飲み終えたぼくが言葉未満の、呻き声だかため息だかよくわからないものを吐き出した時、戻ってきたらしき知子さんがぼくの顔を覗き込んできた。どう見てもちょっと心配そうな顔に見えるし、そこに悪意は一片もない。なのになんでだろう、この絶妙に悔しい感じは。
「……いや、大丈夫だ。行こう」
「無理はしないでくださいね!」
「知子の言う通りです」
 続いて戻ってきたアナリースさんは明らかに楽しそうだ。
 その左手首。女性の腕にはやや大振りな丸みを帯びた八角形のケースに、鮮やかなオレンジ色のラバーベルト。それ自体はこのあたりの気配から明らかに浮いているが、これもまた明らかに浮いている細身で純白のフード付き前開きアウトドアジャケットとは呼応しあって、かなりカッコいい。たぶんPではじまるであろうその会社が、今からここでWEB広告用の写真を撮るんだと言われても、全く違和感のないくらいに。
「山には慣れていない。そうですね?」
「……だいいち、身体を動かすことに慣れてないんだよ」 
「でしたら、あなたは今それに慣れておられるところです。それは素晴らしいことです」
 アナリースさん、ここまでのところノリノリ。考えてみれば知子さんと三つ違いなんだしね。あくまで折り目正しいアナリースさんの言葉を聞きながら、ぼくは直近のぼくの言葉からごく自然に敬語を落としてしまっていたことに気がついた。慌てて軌道修正を図る。
「アナリースさんはどうですか?慣れていらっしゃるんですか?」
 人には時として、尋ねなければいけない質問、というものがある。
 今のこれがまさにそれ。だって聞いて欲しそうに見えるから。
「父に連れられてスキーには何度か。実は今日身に着けているのもそれらの時のなんです」
「なるほど、道理で」
 なにが道理でなのか、もうよくわからない。コミュ力選手権県大会二回戦進出程度、しかも準備も覚悟もなしに山道を徒歩で登ってきたこのぼくを舐めないでもらいたい。
 ちなみにぼくのスキー歴といえば、思い出したくもないくらい昔のを除けば大学で同期に無理やり一度だけ連れて行かれたくらいだ。その時のことだってやっぱり思い出したくはないけど、でも体のあっちこっちがぷるぷるしたことだけはよく覚えてる。
 何度か、というアナリースさんが、だから平然としてるのはなんとなくわかるような気がする。きっとなんとかいうライセンスも持ってたりするのだろう。持てるもの…ブルジョア…ゆるされない……なんて言ったら、お父さんのエストブールさんにはあまりにも失礼すぎるだろうけど。
 それにしてもぼくは一体、なんでこんな拷問めいた状況にいるのだろうか。
 事の発端は、青佳さんに帰せられる。
 今だけはそう言わせてもらいたい。
 あれは、つい昨日のことだった。

     ◆

 例の花火の夜、彼女達四人がそれぞれぼくと「」の約束を取り付けて帰ったね。こんなぼくのことをを独占したいと、それぞれに望んで。
 その中で最も遅い日程だったのが、青佳さんとの筑波山での紅葉狩りだった。なんせ紅葉の祭りとやらが始まるのは、あの日から二か月以上、いや三か月近く先だったからね。
 とはいえ、それまでも青佳さんは毎週ぼくの部屋に来ていた。ああ、もちろん仕事としてだよ。一点の曇りもなく、やましいところはない。ぼくはお金を払って、彼女の機能を買い続けている。ある意味では彼女の、おそらく思うところに逆らって。
 おかげでぼくの生活には最近、野菜が絶えたことがない。すごいだろう。だってタッパーの中身が減ってないと、いろいろと心配されるからね。何が言いたいかというとね、これは古い時代からの数少ない真理の一つだと思うんだけど、ごはんがあるところには人が集まるようになるんだ。特に若い人が。
 例えばアナリースさん。
 エストブール・ジャパンの立ち上げが一段落したのか、 あるときから午後遅い時間になると、ふらっとぼくの部屋に現れるようになった。多分たまたまなんだろうけど、青佳さんがいるときにやってくることが多い。
 折角来てくれたんだから、お茶かコーヒーくらい出すじゃない?で、時計好きが二人いれば時計の話になる。しごく当然なことに。それで盛り上がると気が付けば一時間も二時間も経ってる。
 これもしかたないよね。何もおかしくない。
 そのうちに日が傾き始める。いいかげん口も乾いてきたなと思う頃に、ちょうど買い物から帰ってきたらしき青佳さんが飲み物のおかわりを注いでくれる。で、にこやかな顔でほわっとした感じで言うんだ。
「そろそろ晩御飯の支度にしようかと思うのですけど、アナリースさんはこの後どうなさいますか?拙い料理でよろしければお召し上がりになってゆかれますか?二人分も三人分も同じですから」
 アナリースさんもこれまた実にいい笑顔で返事をする。
「そうですね、もしご相伴にあずかれるのでしたら、とても嬉しく思います。夕食は誰かと共にするのが好きですから。家に帰ると、また一人になってしまうだけです」
「……まあ!そうしたら少しお待ちくださいね。お帰りになる前に、腕によりをかけて準備いたしますから」
 ぼくの周りには折に触れて笑顔が溢れる。それは素晴らしいことだよ。
 ただ、なんとなくね。ときどき、その笑顔はちょっとだけ大きめの猫の類に似てるんだ。あと気のせいだと思うけど、威嚇し合っているようにも。
 うん。
 気のせいだとは思うよ。

 そうこうしているうちに青佳さんは、実に手際よく三人分のご飯を作ってくれる。何もない空中からお皿に乗ったご飯を取り出してきたんじゃないかと思うくらい鮮やかな手際。
 アナリースさんだって、自分でもご飯を作ることはきっとあるんだろうとは思うんだけど。
「これが日本の家庭料理というものなのですね」
 とかたまに言いながら、ぐにゃっとした緑の野菜に海苔が乗っかったやつだとか焼き魚なんかをせっせと口に運ぶ。それを青佳さんはテーブルの向こう側からだいたい決まって満足げに見てる。

 そんなことが続くうちに、気づけば知子さんも連れ立って来たり、あるいは知子さんだけやってきたりするようになった。で、我が家の食卓の非常勤メンバーに二人目と三人目が迎えられたわけ。一人目?それはどう数えるかによるよね。そもそも、常勤とは何か。
 ぼくは青佳さんのごはんが好きだ。だから、好きなものを皆さんと分かち合うことができて、とても嬉しい。
 ちなみに茉莉さんは前からちょこちょこ来てたけど、転職したてで忙しいせいか最近は前ほど顔を出さない。そのことを思うと社長であるぼくの、この半無職ぶり…というか非社会人ぶりを突きつけられるので、実はあまり考えないようにしている。申し訳ないことに。

 話を元に戻すと、そんなある日。要するに昨日だね。食卓にはぼくを入れて四人がついてた。
 中央の二枚の大皿に、大盛りのサラダとかわいく山になったなんとか炒め。各自のところにごはんと味噌汁と、魚の切り身。
 若いお二人がなんとか炒めの山をガンガン平らにしていく。双峰が一峰になるのをニコニコ見守りながらも、青佳さんはまたしても、絶妙にぼくに先んじてトングを手にする。トング争奪戦、連敗記録をいまだ更新中。そしてほどよく盛りつけられるサラダ。もちろん上にはあの、赤いぐにゃぐにゃしたやつ
 最近覚えたんだけど、ごまだれドレッシングをよくつけてあまり噛まずに飲み込むと、食べた時の感じがその、ギリギリ許容範囲を超えるくらいで済む。だから最近ぼくの席には、必ずごまだれドレッシングのボトルと小皿が置いてあるんだ。
 ちなみにぼくは、赤いぐにゃぐにゃしたやつが手元にない限り、自分からドレッシングを注ぐことは決してない。不条理に対する抵抗のつもりなんだ。これも。
 そのボトルの蓋をあけて、小皿を池のごとく満たしたところで知子さんの声が耳を打った。
「せんぱい、紅葉はどうでしたか?」
 ぼくは一瞬不意を突かれた。でもね、考えてみたら、皆さんお互いにそのへんよくご存知なんだ。ほら、例のメッセージアプリで、光の速さで。
 こわいね。
「ああ、綺麗だったよ。でも今年はちょっと遅いみたいでね。結構緑の葉っぱもあったな」
「そうなんですね!すごく綺麗だって聞いたことあります」
「盛りにはもっと凄いのかもしれないな。多分ちょうど今くらいなんじゃないかと思う」
「いいなぁ!いつも決まったところしか行かないから、気になります」
 いつも決まったところ。ご実家の近所の公園かな。お散歩コースでもあるのかな。
 そんなわけないよね!つまり、いわゆる別荘ってことなんだろう。なぜか知子さん、微妙に目がキラキラしてる。
「アナは?日本で見たことある?」
「そういえば、山に行って見たことはありませんね。街路樹や公園の木々が美しいなとは思います。あれらを維持なさっているのは、素晴らしい仕事です」
 思わぬところでぼくの本業に話が飛び火した。アナリースさんは意味ありげにぼくを見つめる。
「あれ、掃除が本当に大変でさ。集めるのに風が出る大砲みたいな道具を持ち出すんだけどね。雨が降ろうものなら重くて重くて、ぼくなんか集めた袋一個もろくに持てないくらいなんだよね。現場の人は凄いなと思うよ。彼らのいないところ、会社は成り立たない。それは本当にありがたいことなんだ。ぼくをはじめ彼らを管理する側なんてその上澄みを掠め取ってるみたいなものさ」
 おじさんの自慢話ほど退屈なものはないから、しっかりプチ自虐を足していく。どこからどう見ても、どうということのない食卓の会話のはずなんだけど、どうしてかアナリースさんはやけに真摯な目で見つめてくる。

「…あなたの魂なのですね。それが」

 魂。日本語で聞けばずいぶんと大袈裟な表現だ。フランス語の直訳なら、確かにそうなるのかもしれないけど。あと二人を見ると、知子さんも青佳さんも嫌に真剣な顔。これはあれかな。例の症候群かな。もちろんぼくはそれを茶化したりなんてしない。当人たちにとって紛れもない真実なら、誰がそれを否定できようか
「魂なんてそんな大袈裟なものじゃない。ただ、私はこう思うってだけだ。私の考えを他の人に強制することは、もちろんない」
 喋りながら、なんだか居心地が悪いような気がした。ぼくの立場としてはさっきの通り。でも、完全に会社に食べさせてもらってるだけの、社長のぼくがそれを言うのはどうなんだ。少なくとも従業員の皆さんが受け入れてくれるだろうとは、とても胸を張って思うことができない。それに管理職の皆さんからも、なんだこいつ、と思われて終わりだ。どちらから見ても、正しい言い分だとはとても思われそうにない。不正だと思われる可能性すらある。
 三代目の立場に胡座をかいて。

 パン、という音が聞こえた。青佳さんが手を叩いた音だった。
「さあ皆さん、ぜひ温かいうちにお召し上がりくださいな。こんな寒い夜ですから、ちゃんと体を温めるのは大事です。そうですわね?社長あなた
「あ、ああ…そうだね」
「そうですわ。紅葉を見たあと、温泉のお湯をともにいたしましたね?一緒に身体の芯まで温まりましたでしょう?あれでよくお分かりになったのではありませんか?」
「「は?」」
 誤解も甚だしい。いや、甚だしい誤解を招く言い方だ。正しくは、どこかの旅館のまるでカウンターみたいなところで、のんびり足を湯につけて、美味しいケーキをつつきながら、目の前に広がる一面の緑を楽しみつつ他愛もないことを喋ったんだ。総務の小林さんのお父さんのこととかね。
 端的に言おう。あれは、足湯だ。
「青佳さん、いや、あれは……」
「どういうことですか?あなたmon chéri
「せんぱい!これはもう一度、みんなで筑波山に行くべきですよ!私も見頃の紅葉、見てみたいです」
 ええと、そんな話を、ぼくたちはしていたかな?
「そうです。あなたは私たちをもう一度、美しい紅葉の山に連れていっていただかなくてはなりません。そうですね?」
「ああ…ああ。そしたら、来年にでも…」
「私は最近日本語の言い回しを一つ覚えました。善は急げ、そういうのだそうです。そうですね?あなたmon chéri
「あ、うん。いや…その………じゃあ、近々、休みの日に……」
「日本の紅葉の盛りは短いと聞きます。ゆえに、休日の名所は大変混雑する、とも。明日なら金曜日です。そうですね?」
 もう一度言う。そんな話を、ぼくたちはしていたかな?

     ◆

 そんなわけで今日、いったいどうしてだか、ぼくはまた筑波山にやってきたわけだ。ぼくのイギリス製SUVに、青佳さんとアナリースさんと知子さん(助手席から反時計回り順)を乗せて。

 はじめはよかったんだ。

 平日でも混むかもしれないから、ってことでね、コンサルにいたときの超繁忙期と同じとは言わないまでも、十分に朝早い時間に、運動靴を履いて。
 一番安いチノパンとシャツと、一応襟だけはふかふかしてる、長らく着てなかった、爆撃機用とかいう名前のついた上着を着て。ちなみに運動靴なんて買ったのもほぼ十五年ぶりのはずだ。先々週の青佳さんとの筑波山行きのすぐ前に買ったんだ。どれにするかは店員さんと相談したけど、色は青佳さんに選んでもらった。
 神社のあたり、ケーブルカーの駅近くの紅葉の広がりといったら、それはそれは見事なものだった。一面に血のような、赤。
 血のような、なんて口に出しては言わないけどね。その光景はぼくを捉えて離さなかった。同行者の皆さんも、なかば呆然としてあたりを見回していた。あ、アナリースさんだけは何やらブツブツとつぶやいてた。多分文字盤のアイデアを思いついちゃったんじゃないかな。
 やがて僕と皆さんが自失から覚めると、あちこち見てみよう、ということになった。それ自体も山みたいな神社を回るうち、やがて敷地を外れたところに出た。なんとか橋という、見た目には殺風景極まりないんだけど、どうもその橋は山のより高いところに通じているらしい。
 そこで知子さんがスマートホンを見ながらこう言うんだ。
「この先をしばらく登ると、それは美しい紅葉に着くらしいですよ!」
 どうせなら神社だけじゃなく、できるだけ見てみたい。この間は神社の周りだけで疲れて、帰っちゃったからね。
「でも、結構歩くみたいですよ?大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。ぼくは新しいものも見てみたい。歩き出すさ、ぼくの意思においてね」
 その時点でちょっとばかりテンションが上がりすぎていたことは否定しない。
 こわいね、山って。

 そして今に至る。

 いま、ぼくを動かしているものは惰性だ。でも、動くことを決めたのはぼくの意思だ。
 だから、ぼくはこの後も動き続けるだろう。
この、耳と喉に響き続けているうるさい心臓の拍動が、もう少しゆっくりになったなら。ぼくの息が、もう少しゆっくりになったなら。

 でも、もう一度これだけは言わせてほしい。事の発端を作ったのは、青佳さんなんだ。
 今回に限っては。