第2話 それは、毒物めいた(青♂わた)
2026/07/05 13:45 公開
深夜零時のタワマンの一室。息を乱して部屋に飛び込んだ青汰の目に映ったのは、ソファに腰掛け虚ろな目でワインを飲み下す女だった。ベランダと屋内を遮るガラス戸は開いていて、夜風にカーテンがなびいている。室内の照明も間接照明が一つぼんやりとついているだけ、点きっぱなしのテレビは深夜のトーク番組でひな壇芸人がゲラゲラと笑う声を垂れ流していた。彼女はテレビを見てすらいない。頬の赤さに、中途半端に脱いだシャツ。シャツの隙間から覗くキャミソールと、剥き出しの素足。机の上のアルパカ印のワインは瓶がほぼ空になっているのを見るに、間違いなく彼女は酩酊していた。酩酊、で済まないかもしれない、と彼──三沢青汰は思わず彼女に視線を奪われながら、部屋の主である彼女に近づいた。
「みさわくん?」
キョトン、と首を傾げて見せながらも、彼女は青汰を見ているようで見ていない、定まらない視線と呂律の怪しい口調で言った。
「来てくれたんだ? ……ふふ、すごいね」
「すごいね、じゃないですよ」
青汰の声は固い。ソファの座面に落ちているスマホには、メッセージアプリのトーク画面が映っていた。この女社長と、青汰の個人トーク画面だ。トーク画面は彼女から青汰への連投メッセージがずらりと並んでいて、内容は……まあ、自暴自棄と希死念慮をミックスして酔っ払いの口から吐き出された、とうてい放っておくことはできないような言葉たち。青汰は居ても立っても居られないまま、自分の家を飛び出してこのマンションまでやってきたのだ。預かっている合鍵で玄関ホールを通り抜け、エレベーターを待つ間のあの焦燥感。青汰が抱いていた、「こうしているうちに彼女がもし……」という恐怖など、目の前のこの女には全く想像がついていないに間違いない。
青汰の、いつもと少し違った様子にアルコール混じりの息を吐きながら女は何が面白いのか「ふふふ」と笑った。
「三沢くん、こっちおいでよ。となり」
「……はい」
ぽすぽすとソファの座面を軽く叩く彼女に誘われるまま、青汰はソファに腰掛ける。そのまま、彼女の手からワイングラスを流れるように奪った。「あ」と彼女が名残惜しそうにグラスに手を伸ばすのも気にせず、青汰はテーブルにそれを置く。彼女からなるべく遠くに。
「飲みすぎです」
「そんなことないよぉ、げんき」
ははは! とどこか調子外れの笑い声を上げて見せる彼女はどう見ても飲みすぎている。
青汰は深くため息をついた。ベランダを早く施錠し、この人を寝かしつけるべきだろう。
女社長は青汰がため息をつくのをじっと見てから、そっと唇を開いた。「三沢くん」と呼びかける声はどこか甘ったるく、青汰はぴく、と肩を震わせる。
「ねえ。三沢くんは、わたしのことが好きなの?」
「……ええ、好きですよ」
「そうなんだ?」
ふふ、と彼女はまた笑った。口元だけで。
「じゃあさ、三沢くん。わたしのことが好きなら、なんでもしてくれるの?」
「何をされたいんですか?」
「そうだねえ」
彼女の手が青汰に伸び、彼の二の腕に触れる。そのまましだれ掛かるようにして彼女は青汰に体を寄せた。痩せ気味の身体でも、女の柔らかい肉が自分に触れて青汰は反射的に息を呑む。
女は、青汰の耳元に唇を寄せてそうっと呟いた。内緒話をするように、こしょこしょと青汰の耳たぶに触れる女の吐息は熱く、声の甘さは底なし沼のよう。──内容が内容でなければ、青汰はとても嬉しかっただろう。
「三沢くんの手で、わたしを楽にしてくれる?」
青汰は聞いた途端に、彼女から飛び退くように距離を取る。といってもソファの上だ。拳一つ分の距離が開いたに過ぎない。そして、虚を突いて彼女の手首を掴んだ。ギリ、と痕が付きそうなほど強く。彼女の瞳はどこまでも暗く、深く、絶望の色をしていた。口元だけが弧を作り笑顔を貼り付けている。
「三沢くん」
「……」
「一回、離して……」
こまったな、と口元だけで笑う彼女に、青汰は唇を噛み締めたまま手を離す。すると、彼女は自由になった手を伸ばし、青汰の両手を取った。彼女と真正面から相対するような姿勢でもって……そのまま、彼女は青汰の両手をそうっと自らの首に添えさせる。女の、細くて容易く手折れそうな首筋が男の手で覆われて見えなくなった。喉元に青汰の両の手の親指を持ってこさせ、彼女は青汰の手を優しく撫ぜる。
「手首じゃなくて、ここを」
「……社長」
「お願い」
「……」
「ね……このまま、さっきみたいに力を入れて、わたしが動かなくなるまで」
「……っ」
おねがい、と。彼女はアルコールで上気した頬に、上目遣いのオプション付きで、あれほど彼女が普段見せようとしない「女性らしい」可愛いおねだりをして見せた。全く可愛くない、自傷行為だ。自傷行為の道具として、もしくはロープの代わりとして青汰を「使おう」としているにすぎない。……もしくは、試し行為。愛してるならそれくらいしてくれる? と傲慢に青汰に迫っている。そう、彼は捉えた。
彼女の首に手をかけたまま、彼は「ふー……」と長く深く息を吐いた。青汰の理性は『やめろ』と喚くばかりだったのに、彼女の思い通りにしたい訳じゃないのに、身体は言うことを聞かなかった。彼女の首に添えられた自分の手をどけるどころか、自分の掌から感じる彼女の体温にいつまでも触れていたくて仕方なかった。それならまだいい。青汰は、くらくらと目眩がするような心地になりながら、ほんの少しだけ……少しだけ、この細首を掴む手に力を込めた。彼女の喉元をく、く、と軽く押す。
「っ、あ……」
軽く、といっても気道を押さえられれば当然息苦しさがくる。押し出されたかのようにその唇から彼女の声が漏れたと同時に、女の顔にじわりと苦しみの色と、そして仄暗い期待が浮かぶのを青汰は見た。指に、手に力を入れると、彼女はどこか遠く、救いを求めるかのように「ふ、……ぁ」と喉を震わせる。チカチカと酸欠で白む視界の中、女が「ああ、こんどこそ……」と思った瞬間、青汰はパッと手を離した。解放された気道に、彼女の意思にかかわらず彼女の肺は途端に酸素を求め始める。げほ、ごほ、と涙目になりながらも彼女の身体が必死に呼吸するのを冷ややかに見ながら、青汰は淡々と言った。
「あなたが動かなくなるまで、なんて嫌に決まってるでしょう」
地を這うような低い声に、びくり、と彼女の身体が反応する。
「は、っ……もうちょっと、だったのにな……」
「……本当にたちが悪い人だ」
「そう、かなぁ……」
アルコールのせいか、どこかトロンとした目のままの彼女から、必死に青汰は目をそらす。生きることを諦めたような言葉を吐くくせに、この人は無防備すぎることに途端に気が散ってしまった。
ためらった末に、青汰は彼女の首ではなく肩に手を伸ばす。そのまま、自分の方に引き寄せる。ギュッと抱きしめてやれば、女はビクッと身体を震わせた。さっきまで首を締めさせようとしていた人間とは思えない。自分の腕の中に彼女を閉じ込めて、抱きしめると彼女の身体の小ささに、細さに、そして自分とは違って柔らかい肉体に、青汰は再度ため息をついた。暖かく、血潮の巡る身体。彼女のこの身体から温もりが消え失せる瞬間を想像して、彼は女を抱く腕に一層力を込めた。
さて、彼女は密着している状況に最初「え、な、なに?」「そんなことしなくていいよ」「わたしにそんなことして、君のメリットないでしょ」などとボヤいていたものの、他人の体温からか、アルコールの限界が来たのか、段々と呂律の怪しい、むにゃむにゃとした言葉に変わっていく。青汰は気にせず、そのまま彼女が静かになるまで彼女の身体を抱きしめていた。
……しばらくして、彼女の身体から力が抜けた。閉じられたまぶたに、規則正しい寝息が聞こえてくる。
──どうにか、寝てくれたらしい。
青汰は、彼女の意思が睡魔に刈り取られていることをもう一度確認し、そこでようやく腕の中の女の身体を解放した。
大きくため息をつく。「やれやれ」とぼやく言葉が宙に消えていった。青汰はじっと彼女の顔を見て、おもむろに彼女の頬を撫でる。
そして、彼はそっと女の額に口付けを落とした。願わくば「彼女」の今日の夢が、穏やかなものでありますようにと。
さて、と三沢青汰は目の前でスヤスヤと眠る女を一瞥し、彼女の身体を寝室に運び込む事に決めた。「鞠臣君と違って俺、そんなパワー派じゃないんだよな」とついぼやきつつも、危なげなく青汰は彼女の膝の裏と背中に手をやり、抱えて立ち上がった。お姫様抱っこの姿勢である。
えっちらおっちらと彼女の身体を寝室に運び込み、ベッドの上にそうっと下ろす。眉間に皺が寄っているのが見えた。アルコールのせいで身体が熱いのか寝苦しそうに見える。少し考えた末に、彼女を起こさないように最大限の注意を払いながら、汗ばんでいたシャツを脱がせ、キャミソールと下着だけになった状態にした。そのまま、風邪を引いてしまわぬようにとタオルケットをかけてやる。
……全然、さっき「わたしが動かなくなるまで」と荒んだ瞳で言った人間と同じには思えない。夢を見ている今だけは、彼女は自由でいられるのかもしれない……なんて、青汰は益体のないことを考えながら、最後にもう一度彼女の顔を見て、そして静かに寝室から出ていった。
真っ先にベランダのガラス戸を締めて、施錠する。次に青汰自身がテーブルに乗せた、彼女が飲み残していたアルパカワインの入ったグラスを見た。
そのまま、残っていたワインを一気に煽る。「間接キスくらいは許してもらおう」と言いながら、青汰はリビングの片付けに勤しんだ。
──全ての片付けを終えたころには、時計の針は深夜一時を指していた。青汰はソファに座り、背中を背もたれに預ける。そのまま首をそらし、後頭部を背もたれの上端に乗せるようにして天を仰いだ。目を閉じると脳裏によぎるのは、あの甘い誘惑の声だ。
「……本当に、悪いお方だ」
思わず呻くように、絞り出すように青汰は声を漏らした。
ああ、たしかにあの時。あの時、彼女の首をそのまま……そのまま、締めていれば、俺は。
彼女の永遠になれただろう、と悪魔の声がしたのは事実だ。
──今度こそ、と思った。
「お願い」と言われて青汰の中にぐるぐると渦巻いていたものはブラウネの記憶である。自らの腕の中で一人の人間として死する男を独占した幸福。そして同時に、共に死ななかった後悔と、選ばなかった共に逝く喜悦。
「あの時」、「私」は共に死ななかった。守るものがあり、義務があり、個よりも優先するものがあったから。
今度こそ、彼女の命を手折り自らも死出の旅路を共にすれば。今度こそ、「私達」は──。
そして青汰は、彼の理性が必死に声を上げて止めようとする中、制御不能な情動でもって女の細首に添えた手へ力を込めた。それが境界線を超えずに済んだのは、結局のところ単純な理由だ。
今ではない、と。
まだ社長と青汰は恋人でもなく、夫婦でもない。病で死にゆく夫を掻き抱いたブラウネとは、年齢も、立場も、状況も違う。
彼女の希望のまま「終わらせる」前に、幾らでも選択肢はある。
選択肢に気づいてしまった。その全てを試しもせず「終わらせる」のはどうにも惜しく思えたのだ。だから青汰は踏みとどまれたにすぎない。
……いずれにしても全く、冷静ではなかった。
青汰はソファに深く身を沈めながら、眉間に皺を寄せる。つい、深くため息をついた。
そしてブルリと身体を震わせる。酷く疲れた顔で虚空に向かって口を開く。目を閉じたまま、自分に言い聞かせるように同じ言葉を繰り返した。
「今じゃない。今じゃ、ない……」
何度手を開いては閉じるを繰り返したところで、あの細首を掴んだ手のひらの感触はなかなか消えてくれなかった。
(おわり)