第1話 それは、砂糖菓子のような(茉♂わた)
2026/07/05 13:45 公開
「姉さん」
「……」
「姉さん、起きてる?」
夜、タワマンの三十一階。テレビはつけっぱなしだし、アルパカワインの瓶が机で空いている。その近くのソファには、足を上げて一人の女がだらりと寝転がっていた。ダルダルの部屋着は外で会う彼女からは想像できない草臥れた様である。
男は溜息を一つつきながら、女をじっと見下ろした。彼女の瞼は依然開かず、すう、すう、と規則正しい呼吸が聞こえてくる。軽く胸元が上下しているのを見て、男はもう一つ、浅く息を吐いた。
鞠臣は、冗談でも「生きてる?」と彼女に声をかけることができない。そう声をかけて、彼女の息が止まっていたのを見てしまったら死ぬまで後悔する事が分かっているからだ。
それにしても、とソファで寝ている彼女を見て鞠臣は眉をひそめる。無防備がすぎる。これが自分一人に対して見せている無防備さなら嬉しいものだが、この部屋の合鍵を持っている人間は他にもいる。アイツらにもこういう姿を見せているのだろうか、と思うとおもしろくなかった。できれば、身内である自分だけが見ている姿ならいいのにと願ってしまってしかたない。
ふと視界の端にソファの座面が引っかかった。ワインが少し溢れているのに気づき、鞠臣はやれやれともう一度ため息を吐く。少し考えたものの、寝ている彼女をちょっとどけて拭くことにした。一瞬躊躇したが、こうなったらどうせ何も覚えていないのだ、この人は。
「姉さん、ちょっと動かすよ」
「ん……」
鼻にかかった声が返事のかわりだった。鞠臣は身をかがめると、彼女の背と膝の裏に手を差し込み軽々と持ち上げる。お姫様抱っこである。
そのまま彼は寝室に向かった。「ソファよりは寝心地がよいところで、ちゃんと寝かせてあげたほうがいいな」とどこまでも甘い思考のままに、彼女をベッドの上にそうっと下ろす。
「ほら、もう少し寝てなよ」
「……ん」
「起きてる?」
「……おきてない」
ぽやぽやとした声の通り、彼女の瞼は全然開いてない。それでももぞもぞと身動ぎして、彼女は上半身を起こした。
「まだ、いる?」
「……いるよ」
鞠臣が内心でガッツポーズをしているとは露知らず。女社長たる彼女は、親戚の弟みたいな子に対して全く持って無防備に、首を傾げてみせた。あざとい。
まだいる、と聞いて安心したのか、彼女はもう一度重力に負けて横になった。
鞠臣の心臓が跳ねる。ベッドの端に自身も軽く腰掛けて、鞠臣はベッドに広がる彼女の髪を一房すくった。髪や頭は、風呂上がりの彼女の髪を乾かすにあたって鞠臣が触ることを許されている場所だ。それ以外は、まだ。さっき抱きかかえてベッドに運んだだけでも、実はいつもよりずっと近くに彼女の呼吸を感じて全く冷静ではいられなかったのである。
そしていま。彼の頭の中を占めるのは、彼女の頬や唇に触れたい、と純然たる欲求であった。目を閉じて無防備に寝姿を晒す彼女を前に、鞠臣は暫く黙って寝顔を見つめていた。いまなら、誰も見ていない。彼女だって。そう囁く下心に対し、鞠臣は懊悩した末に打ち勝ってみせた。
ふーっ、と長く息を吸って、吐いて、鞠臣はベッドが軋まぬよう最新の注意をはらいながら立ち上がる。ぶんぶんと頭を振り、深呼吸をしながら両手で自らの顔を覆った。自分の手で遮った視界の中、「一度の誘惑で全ての信頼を失うな」とマントラのように心のなかで繰り返し唱える。
そうしてしばし時間は要ったものの、平静を取り戻した鞠臣は居間に足を向けた。手早く机の上を片付け、ソファに溢れたワインを拭き、テレビの電源を消す。
そして先程まで彼女が寝転がっていたソファに今度は鞠臣が寝そべった。適当にその辺りにあったクッションを枕代わりにして、仰向けに体を伸ばす。長い脚がソファから飛び出てしまった。
鞠臣は目を閉じ、先程の彼女とのやり取りを思い出す。彼女に聞こえていないのは百も承知で、鞠臣は「『私』は、俺は、ここにいる」と呟いた。
守るために、ここにいる。姉さん本人がそんなことを望んでいなくても、鞠臣は彼女がベランダに向かうことを全力で阻む。その細い身体を抱き込んでどこまでも優しく、彼女が逃げたがっている現実に引き留めたい。そのために、ここにいるのだ。……彼女に触れて、今までの関係を壊したいわけじゃない。
それはそれとして、と鞠臣は口元を緩ませる。いつか彼女に、これが弟扱いで説明がつくのかと問う日を待ち望んでいる。まずもって自分たちの関係は実の姉弟ではないのだ。鞠臣がどれほど彼女を女性として慕っているのか、そしてどれほど……どれほど、彼女と歩む人生を願っているのかと言葉にする日を、鞠臣は待っている。今ではない。今は、ただただ彼女がベランダから飛び出してしまわぬように見守るべき時期だった。
溜息を一つ吐き、そのままソファで鞠臣は眠りにつくことにした。目を閉じて翌朝の彼女を想像する。それだけで心が浮き立つ、自分の単純さに呆れながらも。幸い明日は休日だ。起きた彼女にどこか喫茶店のモーニングでも誘ってみたっていいかもしれない、なんて想像を広げてみる。遅めに起きたらブランチということにしよう。
目を閉じたまま、鞠臣はそっと彼女の名を口にする。そして、いつかその名を「姉さん」と付けずに呼ぶ日を思った。
どこまでも甘い妄想と、自分の声がゾッとするほど甘ったるく響いたことに、鞠臣は少し笑った。
(おわり)