第1章 子の物語
第11話 カミーチィ
2026/10/19 11:20 公開
「それで、用は済んだのか?」
うらぶれた酒場の奥、壁際の小ぶりな円卓で男は杯を呷る。
手渡された紙幣の枚数を慣れた手つきで数え、無造作に懐にねじ込んだ後、為すべきことは一つしかない。喉を流れる蒸留酒は事実内奥の粘膜を焼き尽くしたが、もはや大した刺激とも感じられなかった。
壁に寄りかかる矮躯は、しかし貧相には思われない。肘の辺りが擦り切れた深緑の上着の下に、硬く強靱な筋肉を纏わせていることが傍目にも分かる。耳から顎の頂点へ、そして喉の付近まで密生した茶褐色の髭を酒の水滴が微かに濡らしていた。
対称的に、踊り場に背を向けて対座する男の方は周囲を圧する巨体を持つ。
十分な栄養を与えられて育つがゆえに平均身長の高い上流階級の紳士達の中にあってさえ目立つ程だから、ここニコビルグという都市の最下層にあっては明確に飛び抜けていた。
「カミーチィ。君はいいやつだ。金を受け取った後でも相手に興味を失わないから」
「当たり前だろうが。ボリシェールに教えてやるよ。俺は物を売ってるんじゃねえ。皆々様のお悩みに寄り添って差し上げるのが俺の仕事だ。つまり、お悩みが無事解消されたかどうかを見極める必要がある」
途中気取った口調で恭しげに杯を掲げるカミーチィの様を見て、青年は微かに笑みを浮かべた。
「解消されていなかったら、また次の仕事が始まるのか」
「そういうこったよ。……それにしても面白れえな、ボリシェール。俺はさ、白状すると、おまえのその口ぶりを聞きながら、実はいっつもこう考えてたんだ。〝阿呆なやつだ〟ってよ。随分とまぁ質問に答えるのが下手なやつだって。聞かれたことに必ず見当違いな答えを返す。おう、許してくれよ。今日はおまえさんから貰った金で少し上等なやつをやってる。要するに、混じり気なしだ」
「気持ちよく酔うといい。潰れたら二階に連れて行ってやる」
「勘弁してくれ。ここの二階で一晩過ごした日には、朝起きたら何も残ってねえよ。いるのは髭に潜り込んだ蚤くらいのもんだ」
「この辺りで君にそんなことをする度胸のあるやつが何人いるか、いい実験になるな」
巣。
正確には「泥棒の巣」と呼ばれる一帯は帝都ニコビルグの東端に位置する。
字面を見れば物騒だが、実際のところは無宿人向けの木賃宿と酒場、そして露店が建ち並ぶ、ごく普通の盛り場であった。普通とはつまり、昼は真っ当な小売が、夜は殺人と強盗と強姦と売春と詐欺が行われる場所である。
中流以上の階層に属する市民達にとって、昼の〝巣〟は明らかに刺激的な場所であった。日常生活では味わえない身の危険を求めて訪れる若者達もいくらかはいる。彼らは露店の曰く付きな銀細工やどこかの工場から持ち出されたとおぼしき布で拵えた大判布を冒険の土産として買って帰る。代わりに時計やら煙草入れやら、酷いときには帽子や襟巻きを掏られる。それが常だった。
日が暮れて、かくも牧歌的な時間が終わると、巣は実体を露わにする。
何らかの事情で真っ当な工場から弾き出された日雇いの労働者、夢を追いながらも一向に芽が出ない芸術家崩れ。子を孕み、男に捨てられ行き場をなくした女。親類の伝手を辿って上京したはよいものの、その伝手が不幸にも機能しなかった元隷農。これらの至極真っ当な〝良き市民〟に加えて、犯罪を日々の糧とする類いの者たちが加わる。彼らもかつては〝良き市民〟であったが、生存のためには手に職を付けねばならない。
掏摸と物乞いは比較的道徳的な生業であり、身体を動かすことを得意とする者たちが従事する。一方、いわゆる知識階級のなれの果ての者たちは手を動かすことを好んだ。各種証書の偽造や、上等な詐欺師達が〝客〟を陥れる際に使用する最もらしい筋書きとその資料の作成である。
これより先は少々危険が増す。人さらいと強盗を得意とする者たちだ。
面白いことに、彼らの存在は物見遊山にやってくる紳士淑女(時にはちょっとした〝冒険〟を好む勇敢な女性もいる)たちにとっては脅威ではない。さらった相手がしかるべき身分を備えていた場合に起こるであろう破局を、職業人である彼らはよく理解していた。普段は「掃きだめ」の中の諍いなど気にも留めない警官達が本気になるのだ。そうなってしまえば、お目こぼしを求めて警邏に上納する紙幣の束など用をなさない。ゆえに彼らが狙うのは同類——〝巣〟の住人であることがほとんどだった。
カミーチィと名乗る男は、巣の中では少々上等な「仕事」に就いている。彼は調達屋である。何かが必要な客に何かを用意する。
必要なものは、昨日ボリシェールが要求した馬車のごとく完全に合法な物品の場合もある。彼はかねてより懇意にしているさる金持ちの馬係からその一式を「借用」してきた。馬車一台に馬二頭の不在を上手くごまかすのは先方の仕事であり、彼はただの客に過ぎない。
必要な物が非合法な場合もある。ある種の情報であったり、生き物であったり、かつて生き物であった物体の場合もある。
大きな仕事も小さな仕事もある。平和な取引も平和ではない取引もある。だが、物の移動の有る無しは究極的なところ彼の仕事の本質ではない。ノーレムリア南方の新領土から着の身着のまま出てきた異民族出自のこの男は、〝巣〟に居を定めて以来、長きにわたりうまくやってきた。
掏摸からその経歴をはじめ、一通りの犯罪を経験した後に〝巣〟の顔役たちと知り合いになり、現在の地歩を築いた。
「だが一方で疑ってもいた。こいつ、本当は少しだけ、まともなやつなんじゃないかってよ」
「おれはおれだよ。何も変わらない」
「もちろん。おまえはいつでもボリシェールだ。おまえはおれが見た中でも五本の指に入る変なやつだ。気づいているかい?」
「いや。自分のことは全く分からない。もちろん他人のことも」
「ここに長く居りゃあ、それはそれはいろんなやつを見る。落ちぶれた金持ちも爵位持ちも、金がなくなれば最後に辿り着くのはここか、あとは川向こうの焼き場しかない。〝元〟名士の皆様方は賢いから大体心得てる。ここでは悪目立ちは危ないからな。ちゃんと馬鹿の振りをする」
カミーチィは杯の底に残った蒸留酒を呷りきって、給仕の娘に二杯目を要求した。
「今日は語りたい気分なのか?」
「ああ。そうだよ。聞いてくれ。俺は語りたいね。……要するにだ、賢い皆様方にはな、どうしても消せない臭みがある。どんなに上手く装っても、何かの弾みについ地が出ちまうんだ。〝落ちぶれたとはいえ、俺様はおまえ達とは違う〟ってよ。そりゃそうだ。事実違うんだから仕方ねえ。ふかふかの真っ白な綿布でくるまれて生まれたお子様と、あの黒ずんだ襤褸を巻かれた生死も分からねえ餓鬼。人生の始まりからして、どう見ても違うだろうよ」
物乞い女たちが通行人の同情を惹くために抱く——持ち歩く——赤子は商売道具である。それは生きている場合もあれば、そうでない場合もあった。
「でな、それでな、ボリシェールよ。おまえにはそれがない。なぜだ?」
「賢くないからだろう」
「そうだ。それしかねえ。つまり、おまえの中にはもう一人のおまえがいるんだ。——なぁ、マクシム・ボリジチ」
「調べたのか」
ボリシェールが特段の反応を示すことはない。人の素性というものが金になることは知っている。だが、目の前の男が自分を強請ることはなかろうとも分かっている。そんな風情で。
「一応な。だが、おれの言い分も聞いてくれや。馬車の中で、あの匂い立つようなお美しいお嬢様と、それはそれは見事な貴種の言葉を交わされる様を見れば、誰だって思うだろう。こいつは誰だ、って」
「きみは信義を大切にする男だ。おれときみは友人だな」
「ああ。神の御裾の下、誓って俺たちは友人だ。友を飯の種にするやつはすぐに死ぬ」
「疑ってはいないよ。カミーチィ」
「俺もだ。おまえが俺を疑ってるなんて、疑ってねえさ。ただね、人間、疑問を抱いたら答えを知りたくなる。なぜ今なんだ? 昔何があったかはさておき、おまえはもう〝俺たち〟だろうに。まぁ、俺たちより少しだけ上等だが。なにせ立派な工員様だ」
青年は苦笑とも失笑とも付かぬため息交じりの笑いを吐き出しながら、女給を呼び止め自分の分の酒を頼む。
「分からない」
「あれか? 例のエリーナか? できることなら確かめておきたかったがよ。焼かれた後じゃどうしようもねえ」
ニコビルグの市街で生まれた身元不明の遺体は、大凡一週間の保管の後、ヴォル川北岸の焼き場で処分される。
カミーチィが長きにわたり青年から受け続けている依頼は、エリーナという二十代後半の女の所在を求めるものであった。特徴といって、これといったものはない。ありふれた名。明るい茶の髪も青い瞳もごく普通の容姿である。他の手がかりを求める彼に、かつて彼は答えた。「おそらく器量よしだ。そして多分、頭がいい」と。正直なところ、彼はこの依頼を真剣に受け止めはしなかった。無論頭の片隅に残してはいたが積極的に動くほどでもなかった。
まず手がかりに乏しい。次に大きな成功報酬が望めない。何しろ依頼者は無産の工員にすぎない。にもかかわらず、形だけでも依頼を受けたのは、彼が昔ボリシェールから受けた《《恩》》とその後の友誼ゆえである。
年に一度か二度、それらしき情報が上がってくるのが常だ。
彼は手を抜くことなく、それらを全てボリシェールに伝えてきた。自発的に動きはしなかったが、舞い込んできた情報は欠かさず伝えた。その度にボリシェールは確かめに行き(そのエリーナらしき女の生死に関わらず)、全ては空振りに終わっている。今のところ。
今回見つかった死体はヴォル川の北岸に打ち上がったものだった。
下着の薄衣一枚纏ったばかりのそれは腐敗膨張もなく、釣り上げられたばかりの魚のような新鮮さを保っていた。衣服が剥ぎ取られているところから、ある種の暴行がなされた可能性が導かれる。さらに、重石を付けて沈めるなどの隠蔽が一切なされていない状況からは女の身分の軽さが想起された。
総体的に見て下層民の男女間に起こった情痴の縺れ、あるいは衝動的で偶発的な暴行。それが警察の見立てであった。つまり捜査の優先順位が著しく低いことと同義である。ニコビルグに住み着く無産市民の数が急激に増加する一方で、治安を司る警察機構は昔ながらの規模を抜け出すことができない。彼らは〝真っ当な〟市民を守るのに精一杯なのだ。
この遺体がエリーナという名を持つと推定されたのは、一つなぎの薄衣の裏地にそう書かれていたからに過ぎない。
農村からやってきた元隷農が工員を務めるほとんどの工場では、工員達は用意された共同住居に集住するのが常である。その状況においては衣服など簡単に取り違えられるし、場合によっては盗まれる。ゆえに文盲の彼らは、文字を書ける職員に頼んで名を記してもらうのが普通であった。つまり、極言すれば、その薄衣さえ遺体のものとは限らない。
カミーチィがその情報を得たのは焼き場の管理人からである。
下層民の遺体を「処理」する焼き場には様々な情報が集まる。誰が死んだのか、そして死体がしっかりと焼かれたかどうかを知ることに価値を見いだす客は少なくないからだ。
管理人がこの死体の名を覚えていたのにも訳がある。北岸の公共焼き場に辿り着く死体にその名が残されている状況自体が稀なのだ。稀な事象は記憶に残りやすい。彼はカミーチィにその遺体の情報を伝えた。焼却の後に。
「君が教えてくれるだけでもエリーナは年に何度も死んでる。ニコビルグ中で。だから偶然だ。——偶然と言えば、君からその話を聞いた次の日に、もう一人のエリーナが死んだ」
「なんだそりゃ?」
「猫を飼ってたんだ」
「おまえがか? ボリシェール」
「そう。勝手に俺の元にやってきて勝手に懐いた。だから仕方なく名付けた」
「それで?」
「衛生局の手入れがあってね。宿舎に。それで——処分された」
「仕事熱心なお役人様じゃねえか。ここの警邏連中に見習わせてやりたいもんだよ。立派なこった」
「ああ。彼らは素晴らしい仕事をしたと思う。街を綺麗にした。やっかいな疫病が流行るのを防いだ」
ボリシェールは脳内に浮かぶ言葉を一度読み取って音読するかのようにしゃべる。何が飛び出してくるか分からない荒唐無稽な粗筋の娯楽本。その頁をめくるように。
「で、その猫が処理された結果、おまえが目覚めたって?」
「分からない。きみが期待するような劇的なことはなにもないよ。おれの〝物語〟は官区の歌劇場で上演されるような綺麗な筋書きを持たない。ただ、そういう気分になったんだ」
「そういうもんさ。俺らの〝物語〟はよ、気がついたらいつの間にかそうなってる類いのもんだ。王侯貴族やお金持ちの皆さんのようにはいかねえ。何しろ明日の飯を心配しなきゃならねえんだ。身の振り方を」
話を合わせて応じながらも、カミーチィの視界は俯くボリシェールの姿に得体の知れぬ何かを捉えた。
没落した貴族の息子。もうすぐ三十路を迎えようとする工員。取り立てて珍しいものでもない。
一つ特徴的なところがあるとすれば、伯爵という高位を保持する家系の完全な没落であるが、それとても想像の範囲内に収まる。よって彼が触れた感覚、正確に述べるならば不気味さは、ボリシェールという青年の生まれや来歴に由来するものではない。
ボリシェール自身の内奥から発せられるものだ。
「それで、マクシム・ボリジチはオーリフの旦那様とうまくやったのかい? お家再興というやつか」
「いや。そんなことはどうでもいい。カミーチィ、おれはそれに興味がない」
「じゃあなんだ? 賭け事にも女にも興味のないおまえのことだ。金に困ってるわけでもねえな。おまえは木みたいに生きてるんだから」
「金はいるよ。ああ、正しくは、金で買えるものがほしい」
「何が?」
「自由と時間だ」
「そりゃ素晴らしい。オーリフから年金をもらって工員を辞めるのか。つまりご立派な〝市民〟におなり遊ばすと」
この当を得ない問答を、これまでのカミーチィであればかくの如く理解しただろう。頭の回らぬ男のいつもの見当外れ、と。しかし眼前の青年に対する見方を改めつつある今、見当外れは煙幕であろうと考えた。
では何を覆わんとするのか。
ボリシェール改めマクシム・ボリジチはおそらく、過去の何らかの出来事からオーリフ家の弱みを握っている。そして、それを使って交渉をした。
〝巣〟の住人である彼にとってボリシェールの行動は至極真っ当なものである。弱みがあれば使われる。彼が扱う商品である「情報」とは、その弱みの集合体である。
青年は交渉を首尾良くやってのけ、金を手に入れる算段を付けたらしい。結果、青年はその日暮らしの工場勤めから解き放たれる。そこまでは理解した。
問題はその先だ。
有産市民として遊び暮らすと考えるのが普通のところだが、彼がこれまで付き合ってきた青年の様子からは想像しがたい結末であった。
「次に会うときはお上品な食堂かい? それともお招きいただけるのかな。ブラーギフ様のお屋敷に」
冗談めかして投げる言葉はカミーチィの記憶に残る過去の残像が吐き出させたものである。
◆
彼はかつて盗品売買の些細な失態を青年の機知に救われた過去を持つ。
まだ中堅の悪党に過ぎなかった当時の彼は、威風堂々たる紳士の懐からお恵み頂いた懐中時計を売りさばこうと古物商——それは古物であれば何でも扱う者たちの総称である——に持ち込んだ。しかし、高級品として名高いブラーグ社のものと思われたその「頂き物」には、文字盤に肝心の銘が無い。ブラーグの時計には無銘品も存在することを仲間から聞きかじっていた彼は、店の片隅で店主に告げた。必死に。
古物商は物の出所など気にはしない。それが他者の懐であれ地中であれ。しかし真贋にはこだわる。贋作を持ち込むとはつまり、〝巣〟の仲間を騙す行為である。仲間を騙すものは仲間ではない。仲間でない者は排除される必要がある。
脂肪の塊を顔中に纏わせた古物商人の細目が明白な疑念を持って、カミーチィの身に今後起こりうる可能性を示唆していた。
そう広くもない店内に屯した数人の客が、一人、また一人と戸口を出て行く。店主に軽い別れの挨拶を告げながら。
最後に残ったのは巨大な男だった。
比較的小柄なカミーチィからすれば、それはさながら店の四隅にそびえ立つ太い柱のごとく思われた。男——青年は塊になって悪臭を放つ古着の山を漁っていた。自身が纏う、所々擦り切れて色あせた黒い外套と大して変わらぬ布きれの山を。
四肢を緊張で強ばらせながら、カミーチィはその正体を予測した。つまりこいつは店の用心棒の類いであろうと。そして数刻後に自分を叩きのめす相手なのだろうと。
だが、誠に幸運なことに彼の推測は外れた。
「何かが見えないときは、日の光に晒してみるといい」
青年が何気なく発した言葉が余りにもありふれて余りにも弛緩した、換言すれば凡庸なものであったがゆえに、カミーチィはおろか店主までもが虚を突かれた。
大人の真剣な話に訳知り顔で口を挟もうとする子ども。子どもであればまだよい。だが、体格を見るにその男は「青年」なのだ。となると、頭の回り方の問題になる。
「兄さん、ねぇ。兄さん。この灯りが見えないかい? これをかざして見てるんだよ。ほら」
まるで年端も行かぬ少年に言い含めて聞かせるように、店主が手元の手提げ灯を掲げて見せる。六角形の硝子壁に閉じ込められた蝋燭の揺らめきを。
青年は茫洋たる眼差しを寄越し、簡潔に答えた。
「その蝋燭の光は太陽よりも強いかな? ……世の中には弱い光と強い光があって、ときどきは、強い光でしか見えないものもある」
これまでに何度も取引をしていながら、カミーチィは初めてその表情を見た。店主の顔に浮かぶそれを。哀れみである。
「よしよし。じゃあ兄さんの言う通り、見てみようじゃあないか。お空にかがやくお日様のもとで」
店主とカミーチィ、そして青年が続々と店の外に出る。
店主は手のひらに載せた金時計の文字盤を翳す。日の光に。
果たしてそれは在った。
強烈な陽光に責められて、文字盤上部、円周の縁の左右に極細の透かし彫りが浮かび上がった。
ブラーグの銘が。
こうしてカミーチィは青年と知り合った。ボリシェールという、その外見にあまりにも相応しい名を持つ男と。
誠に幸運な、あるいは不幸なことに。
◆
今となってはただの偶然にも思われるが、それが恩であることには変わりない。だからこそ、カミーチィはこの間の抜けた無口な男を何かと助けてきた。より直截に述べるならば庇護してきた。
彼にとって青年は世話をしてやる相手であった。これまでは。
「おれが屋敷を持ったとして、そこに一人で暮らすのは嫌だな。独りは辛いよ。カミーチィ」
「また猫でも飼えよ。女でもいい。それこそ昨日の別嬪さんあたりを」
ボリシェールは酒杯を小さく傾け、〝巣〟の酒場にしてはとびきり上等な酒を流し込んだ。そして呟いた。
「猫はもういい。女もいい。おれはね、カミーチィ。同志が欲しい」
「それは確かに必要だなぁ。友達はいるに越したことはねえ」
見られている。
カミーチィは気づく。
覗かれている。
目の前の、手を伸ばせば届く距離に座する青年に。
その漆黒の瞳はあまりにも黒く、光という光を全て吸い込んでしまう。一度目を合わせれば逃れられない。それは遍く全てのものを引き寄せる。
ゆえに青年の一挙手一投足から、彼は目を離せない。木の器を握る右手指の動き。縁を擦る親指の蠢き。口元が今にも開かんとする様を、彼は文字通り、見せつけられた。
「一つ聞きたいな、カミーチィ」
「……なんだよ」
「きみはどうだろう。変わらずに、おれの友人でいてくれるか?」
「……そりゃあおまえ……おまえさえ良けりゃおれは」
「うれしいな。昨日おれは、オーリフ家のマレク・ヤシコフと友人になった。そして今日は、変わらずきみが友人であることを確認できた」
それはノーレムリアの、あるいは中央大陸全ての国の常識に照らしたとき、凡そあり得ないことである。
人々は同一の地の同一の場所で、別の世界を生きる。貴族には貴族の、金持ちには金持ちの、平民には平民の、下層民には下層民の世界がある。それらは全て辛うじて重なりながらも、厳然と別たれて存在する。
人はその見事な多層世界のどこかに居場所を持つ。ある一個の物体が同時に二箇所に存在することが不可能であるのと同様、人もまた一所に所属する以外にない。
たとえば何らかの幸運が一人の平民に富をもたらしたとき、彼あるいは彼女は金持ちの世界へと移動する。平民の世界と金持ちの世界に同時に存在することは叶わない。逆もまた然りである。
人々は常に、自分の所属する世界の中に関係を構築する。それは心根の問題ではない。ほとんど物理的な法則である。
「さっき俺は、おまえを変なやつだと言ったな。ようやく分かったよ。おまえは五本の指に入る変なやつじゃねえ。圧倒的に、飛び抜けて変なやつだ」
「カミーチィ。おれにとってはそれが当たり前だった。でも、君たちにとっては違うらしい」
「金やら人脈を掴んだやつは上の世界に去って行く。無くしたやつはここに落ちてくる。普通はそのどっちかだ。〝旦那様方〟とお友達になったやつは、俺たちの友達にはなれねえ。俺たちと仲良くなったら〝いと高き方々〟とは一生無縁になる。それがよ、普通ってことだ」
「理屈は分かるし知識もあるよ。ただ、実感だけはないな。おれにとってはマレク・ヤシコフも例のお嬢さんも、きみも、シビリの村でおれを助けてくれた人たちも、皆、友達だ。それは素晴らしいことじゃないか」
「それはあれかい。最近流行りの西方思想ってやつかい?」
「いや、思想も何もない。ただの事実だ。おれは貴族だった。おれは解放隷農だった。おれは工員だった。おれはここの住人だった。すべて事実だ」
「どこかに腰を落ち着ける気はないのかね。俺は定住を勧めるね。どこであれ。おまえが言ってるのはつまり〝自分は根無し草だ〟ってのと同じだ。おまえが飼ってたという猫と一緒だ。そういうのを〝野良〟って言うんだよ。野良猫だろうと野良犬だろうと、行き着く先は分かるだろ? 野垂れ死にか……駆除されるか」
昨日萌芽し、今日花開いた感覚。
青年の捉えどころのなさをもたらす源泉をカミーチィは自覚した。
つまりボリシェールは何者でもない。
にもかかわらず、明らかに道理を外れたこの余所者に対して、彼は確かにこう感じていた。
友である、と。
「おれが普通じゃないなら、おれが普通になるようにすればいい。昔ある人に教わったことがある。自分の〝物語〟を語れ、と。他者のそれではなく。おれの〝物語〟はね、おれの在り様が普通であるような世界についての話だ。カミーチィ、きみは聞いてくれるだろうか。おれの〝物語〟を。——同志カミーチィ」