第1章 子の物語
第10話 マレク・ヤシコフ・オーリフ 二
2026/10/04 12:06 公開
眼前で繰り広げられる男女の歪な会話を眺めながら、マレクは戸惑いの中にあった。
オーリフ子爵家の当主ヤシク・シモノフは彼の父である。ヤシクの妹イレナは彼の叔母にあたる。父とブラーギフ伯爵家の当主ボリス・イリイチは親友であり、その証拠に叔母はブラーギフに嫁いだ。そして子が産まれた。マレク自身と同年の兄アレクス、ついで、三つ年下の弟マクシムが。
両家は親しく付き合った。
皇帝ニコルス五世の最側近として、財務と内務の官房の主として、そして友人として、公にも私的にも深く結ばれた関係性があった。マレク自身、幼い頃はニコビルグのブラーギフ屋敷に遊びに行ったことが何度もある。逆もまた然り。
長じては、ブラーギフ家の後継子であるアレクスとともにニコビルグ恩賜大学に進んだ。輝かしい未来が約束された次代の公子たちである。何せ彼らの父達はノーレムリア至尊の存在であるニコルス五世とさえ友人であったのだから。
皇帝は王宮の生活に息苦しさを覚えると、度々お忍びで友人達の邸宅に遊びに来た。市の郊外に建つ立派な離宮よりも、むしろそちらを好んだとさえ言える。暗殺事件が起こるまで、ノーレムリア政府とはつまり彼らのことであった。
しかし皇帝の死は全てを変えた。
当時、正教会の強い要望を受けて、皇帝は皇太子を古都モカヴァに住まわせていたが、遠からぬうちにニコビルグに呼び寄せる予定であった。後継者を手元に置き、正教の影響を抜きながら漸進的に次代へ権力を継承せんとを計画していた。
しかし全ては変わった。
幼なじみの友アレクスは不可思議なほどに熱心に、過激な極派的思想に囚われていった。そして例の計画が発覚し、逮捕され、刑死した。その一部始終をマレクは最も近くで見ていた。
アレクスの罪状は大逆未遂である。
十九期も半ばのこと、過去のような血なまぐさい——一族郎党を文字通り根絶やしにする——処置は主に西方諸国への体面を保つために廃止されていたが、その社会的な影響は依然変わらない。ブラーギフ家は「逆臣」の家となった。
ニコルス五世の死とそれに続く政変の結果、ブラーギフ家が親しく付き合う相手は著しく減じたものの、「逆臣」の烙印を受ける以前においてはまだ皆無とまではいかなかった。幾つかの分家、あるいは共に政界の片隅に追いやられたオーリフ家やカリヨラン家は友好を維持した。しかしアレクスの罪が決した後、当然ながら関係は途絶した。
ただし、それはあくまでも「家」の話である。オーリフの当主ヤシクにとって、ブラーギフ伯爵夫人イレナ・シモノヴァは血を分けた妹である。個人の立場で兄が妹を気にかけるのもまた当然の成り行きであった。
イレナに残されたもう一人の息子であるマクシムの流刑——労働矯正刑が決したとき、ヤシクは自身の甥の身を案じた。身を案じるとはつまり、流刑地のしかるべき人間に適切な働きかけを行うことである。権勢衰えたりとはいえオーリフは大家である。辺境の郡長に因果を含めることなどわけもない。
ゆえに二年後、その郡長から不吉な手紙を受け取った際の驚きは大きかったが、一方で想定内のことでもある。
ヤシクはよく心得ていた。つまるところ、賄賂をさらに寄越せという強請りのようなもの。
オーリフ家の興りは商家であるがゆえに、土地を基盤とする伝統的な貴族と異なり、現在に到るまで幾多の商会を所有する資産家としての顔を保持していた。ノーレムリアにおいて、商取引と賄賂はほとんど同一のものと見えるほどに癒着しているのだ。それは民間と同様、官界でも変わりがない。それは悪徳ですらない。ある種の儀礼である。
ヤシクは鷹揚に金を払ってやった。
それで万事終わり。いつものこと。そのはずだった。
だが、予想は大きく裏切られた。
程なくして今度は電信が届いた。電信は速報性が極めて高い一方で、手紙に比べて文字単位で課金されるため長文を送るには適さない。オーリフ家に届いたそれも簡素を極めた。
「マクシムシス」
ヤシクは即座に自家の家令を送り出した。
本来であれば実家が行うべきであるが、ほぼ全ての財産を息子達の助命を求める「付け届け」に使い果たし、今やヴォル川南岸、辛うじて中流階級の居住区と見なすことができる辺りに部屋を一つ持つばかりのブラーギフ家にはその余力すらない。
家令は鉄道と橇馬車を乗り継ぎ、二週間をかけてシビリの郡都に辿り着いた。
そこに待ち受けていたのは中年の冴えない郡長が語る事の顛末である。
いわく、マクシム青年は下放された農村で大人しく過ごしていると見えたが、ある日同村の囚人から彼が「危険思想を村人達に広めている」との適切な報告を受けたという。郡長は皇帝陛下から下された神聖な任務を全うすべく、部下の警邏を村に派遣した。
口上の最中、郡長は何度も「念のための事情聴取に過ぎなかった」と述べた。
彼は理解していた。マクシム個人は逆賊の家の息子に過ぎないが、それはあくまでも公的な区分に過ぎない。ノーレムリアにおいて、目に見える〝公〟の下には膨大な不可視の〝私〟が潜んでいるのが常だ。証拠に、帝国全土に名の知られたオーリフ家から即座に視察の使者が送られてきた。
郡長の保身の言を半ば聞き流しつつ先を促す家令に対し、返ってきたいきさつは至極あっけないものであった。
警邏が村に到着したとき、マクシムは既に姿を消していたという。
青年は労役の一つである開墾作業に従事すべく森に入ったきり一向に帰らない。極寒の一夜が明けた後、村人総出で周囲を捜索してみると、森の奥、未踏の境界に一つの遺体を発見した。
郡長は慎重に言葉を選びつつ伝えた。「お顔にいささか損傷の跡が見られ」と。
婉曲な表現をはね除けて問うと、つまるところ野生動物に頭部を喰われているらしい。
ならばなぜ遺体がマクシムのものと分かるのか。そう問う家令に郡長が見せたのは、心の底から倦んだため息であった。
「村の者がそう証言いたしましたので」と。
そして、当然のことながら遺体は火葬された後である。
正教の教えでは、人は死の後、魂を長く閉じ込めた肉が灼かれる香気に乗って、魂のみが神の御裾の下に旅立つとされる。ノーレムリアは正教国家であり、火葬は当然のことであった。
残る疑問は葬儀の拙速であるが、答えはまたも単純であり、かつ理にかなったものであった。マクシムは大逆に連なる罪人である。罪人の遺体を手間暇かけて保存しておく法はないのだ。
要するに、この世界から一人の青年が居なくなった。その痕跡は何一つ残されていない。それが結論である。
帰った家令から経緯を聞いたヤシクは疑いを捨てなかった。息子マレクもまた。ただし、それ以上の詮索が無意味であろう事も理解していた。
広大なノーレムリア帝国において、辺境はいまだ半ば独立した存在である。文明の利器たる鉄道により多少は近づいたとはいえ、そこは依然〝地の果て〟であり、地の果てには地の果ての社会がある。何か不都合があったとしても、ニコビルグから手を伸ばしそれを暴くことは不可能であった。
かくしてブラーギフ家は断絶した。
マレクは父と共に叔母の元を訪れた。
不幸な知らせを伝えると同時に、一つの提案もまた為さねばならない。如何に大逆の家とはいえ、形式的にはそれをもって貴族譜より名を除かれることはない。ならば家名を残すためにできることはまだある。イレナが婿を取る、つまり再婚する。あるいは養子を取る。そのどちらかだ。
しかし、オーリフ父子の予想通り、イレナはそのどちらもを謝絶した。
「お兄様、ご存じ? 私は我慢強い女なのです。その上、幸せな女でもありました。それ以上に望むものはありません。神の御裾の下、私の〝物語〟はこのようなものでした」
そう言って、一人残った年若い召使いの女とともに部屋の奥に去った。
これがマレクの知る全てである。
それでも父子は事情を詳らかにせんと望んだ。
内々に知り合いをあたり情報を集めようとしたが、不幸にもそれは一つの胡乱な噂話となって広まった。「オーリフ家がブラーギフの遺児を探している」と。
やがて四方八方から、ひっきりなしに、怪しげな〝遺児〟が尋ねてきたが、その有様は稚拙に過ぎた。無理からぬ事である。マクシムが流刑に処されたのは二十を過ぎて間もない頃。社会に特段の痕跡を残してるわけでもない。真贋の判断は幼時の思い出話だけで事足りた。
噂も下火になり詐欺師達の注目も薄れたこの頃になって、のこのこと現れた青年。時流に乗る術も知らぬ駆け出しに違いない。
本来であれば門前払いするところだが、マレクは従僕から告げられた伝言を聞き、会うことを決めた。
「かの乙女の織った見事な大判布をお見せしたい」という。
◆
「君が亡くなったことはシビリの郡長にまで確認を取っているんだよ。……一体何があった?」
マレクの問いは直截なものであった。
眼前に静かに座する青年がマクシムその人であろうことを半ば確信するがゆえに。
先ほど為した抱擁の際、間近に見た青年の大判布は確かに叔母が拵えたものである。経年による劣化と黄ばみを加えてなお、その繊細な刺繍には見覚えがある。
短剣と長剣を時計の針に見立てたブラーギフ家の紋章が織り込まれたそれには。
「あまり褒められた話ではないな。妙な誤解を受けて刑期が延びそうになった。十年ほど。それを知ったんだ。つまり、おれは待てなかった。それだけのことだよ」
「脱走か。それにしてもどうやって?」
「おれには足があったし手もあった。幸いなことに。手と足があれば、食べ物を調達できるし移動することもできる」
平然と語るマクシムだが、その言には驚異が詰まっている。
シビリの一帯はいわば森の海原である。開墾された地に作られた村々は小島のようなもの。歩いて渡るなど不可能に近い。
「君の言を信じろと?」
「村に二年も居れば、寒さを凌ぐ術はそれだけで一冊の本を著せるほどに知ることができる。食べ物と水さえあればいい。幸い開拓村はレーヌ川の支流に沿って作られる。後はそれを辿る旅だ」
「……」
「君も覚えておいて損はない。マレク。……一人旅の辛さは飢えでも寒さでもないよ」
「じゃあ、なんだい? なんとも気になるな」
「君にだけは教えよう。——孤独だ」
恐らくは極限状態の体験を語りながら、意外なことに青年は寛いでいた。暖炉の前で丸くなって寝そべる大型犬のように。
マレクの目にはそう映る。
「一月か二月か、よく分からないけどそれくらいは掛かるんだろう。確かに独りは寂しいな。君はどうやって耐えた? マクシム」
「おれは色々なことを考えて過ごした。幸い〝読み物〟も一冊あったから、擦り切れるほどに読んだ」
「何を考えたのか、聞いても?」
「単純なこと。つまり、未来のことだよ。ニコビルグに帰り、母に会う。母とエリーナに。彼女たちはどんな顔をするだろうか。驚くだろうか。泣くだろうか。喜ぶだろうか。……そんなことをずっと考えていた」
マクシムの言葉には懐古の色しかない。
母たるイレナ・シモノヴァの死を知っているであろうことは確実ながら、そこには一切の悲嘆がなかった。
一方マレクが抱いたのは後悔である。
独り森を歩いたこの大柄な青年が何を思ったか、想像がついたはず。
にもかかわらず、彼はマクシムにそれを言葉にすることを強いたのだ。
「大方は信じよう。現に君がぼくの目の前に存在する以上、信じるしかないんだから。……ただ、一つ確認しておかなければならないことがある」
「なんだろうか」
「シビリの村には、君のものとおぼしき遺体があったそうだよ。だが、君がこうして生きているとなると、その死体は一体何だ?」
マクシム・ボリジチはその大きな黒い瞳を固定した。問いの主のそれに。
そして述べた。極めて明瞭に。
「知ってはいるが言いたくはない。マレク・ヤシコフ。今まで、そういう思いを抱いたことがなかったか? 君にも。——知ってはいるが言いたくないことが」