タテガキ

第二章 旅

13

2026/04/23 12:42 公開

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 密生する木々は天然の檻である。人の背丈を遙かに超えて頂の見えぬ巨木は、気ままに枝葉を伸ばし周囲の僚友と緊密に結び合う。それはあたかも天蓋のごとく空間を仕切った。

 風の無い初夏の午後、空気は淀んだ。
 リュクルスは集落の領域に足を踏み入れる大分前から、目的地が近いことを明確に理解した。先頭を行くゲルギウスは黙したまま。間断なく周囲に視線を発しつつ、少し腰を屈め、地を滑るように進む。それはまさに接敵直前の姿である。
〝隊列〟はリュクルス、アルカンを抱いたマルガリティアと続き、最後尾をゲルダが占める。森の地勢に不慣れな〝野の民〟を〝森の民〟が守る。ラケディア戦士の本領は開けた土地においてこそ発揮される。無数の太い幹が編み上げた果てしない迷路、その陰からなされるであろう襲撃を捌くことは得意とはいえない。
 兄妹に予め聞く限り、二人の所属した〝集い〟は二十名程度の構成員から成る。森の中、気まぐれに生まれた木々が途切れるところ——「空地」に住むという。よってリュクルスに求められたのは、まさに「空地」の中を制圧することであった。
 目指す場所に近づくにつれ、彼の四肢もまた警戒の度を高めていく。円盾と槍を構え、斜め前方左右を可能な限り精査する。当初の予定よりもやっかいな出来事が待ち受けている可能性が高いことを、彼はかなり前から把握していた。より正確には皆が理解していた。
 濃い腐臭を嗅ぎ分けたがゆえに。それは大気の中に生きる全ての存在——とりわけ四人の男女に等しく纏わり付いた。
 不幸なことに、あるいは幸運なことに、彼らはそれをよく知っていた。人死の匂いである。

 ◆

 木々の途切れるところ、空地が始まる。
 太い枝と幹を巧みに組み上げて作られた、小屋と言うには少々大ぶりの住処が五つ、広場と形容するには少々手狭な空間を囲むように建てられていた。
 丸一日を過ごした木陰は消え去り、久方ぶりの陽光がリュクルスの兜を照らした。
 そこには羽音だけが在った。大小問わず様々な鳥たちが空から舞い降りては至る所に塊を作り、一心不乱に何かを貪っている。耐えがたくも慣れ親しんだ匂いを存分にまき散らしながら。ちょうど昼食に相応しい頃合いだ。
「これはよくあることか? ゲルギウス」
 リュクルスは先を歩く青年に追いつき声を掛けた。特に気負った風もない。
「……時折は」
「手を下したのはラケディアの戦士ではないな。我々がここまで奥深く踏み込むことはない。原因に想像は付くか?」
 ゲルギウスは答えず、死体に取り付く鳥と羽虫の群を剣で追い散らして歩く。彼はその後ろ姿を、いつものように無感動に眺めた。
 ラケディアの戦士として、このような情景を前にして取るべき行動は一つしかない。それは断じて遺骸——たとえそれが肉親や友のものであろうと——を確かめることなどではない。剣は死肉ついばむ畜生を追い払うために抜かれるべきものではない。それは、この情景を現出せしめた者達、つまり敵の身体を裂くためにこそ使われるべきだった。
「ゲルダ、きみたちにはがいるのか?」
「いる。多分、ゲルダとゲルギウスが集いを出た後に、それは生まれた
「敵が生まれた?」
「そう」
 最後尾から追いついて自身の傍らに立った黒髪の少女に彼は重ねて問いかけた。
「きみは大凡のところ、事態を理解しているか?」
「している。多分〝上の集い〟がこれをした」
「きみが嫁ごうとした群か。なぜ?」
 ゲルダは手の甲で額を拭う。弾けた汗を陽光が打つ。小さな火花のように。
「父ガイオンが死んでゲルダたちの群れは弱くなった。〝上の集い〟よりも、たくさん弱くなった。だからゲルダが贈られることになった。でも……行かなかった。だから」
 兄妹の父ガイオンは、老いを迎えてなお歴としたラケディアの戦士であった。となれば、その武威が魔物たちの間で突出したであろうことは想像に難くない。
 リュクルスはともすると表出しそうになる感情——侮蔑の念を努めて押しとどめた。麗しの都の市民でありながら、〝共同体コムネス〟を守護するためにこそ培われた力をよりにもよって魔物のために使うなど、まさにおぞましい振る舞いの極地である。魔物共を力によって支配したのならばまだよいが、兄妹の話を総合する限り、ガイオンはその力を魔物の群れに受け入れてもらうために使ったのだ。

 ——かくも恥知らずの男がラケディア市民であったとは。その有り様は燔祭の遣いの名誉すら傷つける。

「では、きみたちはつまり、〝森の民〟とやらに従う隷民なのか? それならば捨て置けぬことだ。光輝あるラケディア市民の子が隷民に落とされるなど」
「違う! ゲルダの集いはゼーヴ。奴隷ではない」
 共に生きた者達の骸を見てさえ揺るがなかった少女の態度はリュクルスの言を受けて一変した。細い眉の下、見開かれた黒い瞳が今はっきりと、怒りをたたえて男をねめつける。
「ゼーヴ?」
「それはつまり、鳥のごとくあること。支配されず捕まらない。思うがままに動く」
「〝正しい言葉〟で言い表すところの自由民エレウスか。では〝上の集い〟の奴らは何者だ。自由民エレウスであるきみたちを襲い、殺すとは。血が異なるのか?」
 ラケディアはその悠久の歴史の中で、他の堕落都市との戦争を数多く経験している。敵は都市のみに留まらない。より強大な東方の「帝国」とも、文字通り共同体の生死を賭して凄惨な戦いを演じてきた。いずれも共同体の市民誰しもが共有する栄光の記憶であるが、それらが名誉とされる理由は敵手の身分にある。
 同等の自由民エレウスと戦い、勝利すること。ラケディアにおける真の戦いとはそのようなものであった。堕落都市も「帝国」も、ラケディアと同等の存在でありながら異なる血を持つ人々の集まりであり、よって敵であった。逆に、同じ血を持つ者は同胞である。同胞同士は戦わない。同胞とはラケディア市民であることを意味するのだから。
 一方で、従民や隷民を殺すことは〝戦い〟ではない。従民も隷民も自由民エレウスではない。つまり「敵」とはなりえない。ゆえにそれは面倒な「仕事」にすぎない。
「同じ。〝上の集い〟も、ゲルダたちの集いも血は変わらない」
「では同胞であると? きみたちは同胞と殺し合うのか! それは……まさに獣と変わらないだろう。愚劣にも程がある」
 少女の答えはリュクルスにとって意外の一言に尽きた。
 いかに魔物とはいえ、同胞と殺し合うなどという愚かな行為が繰り広げられようとは想像だにしなかった。ラケディア市民にとって内紛は禁忌中の禁忌である。それは都市の尊厳を貶めるのみならず、実質的な機能も弱める、最も唾棄すべき行為である。
「なぜ皆殺しに? これは、まるでラケディアのやりようですね」
 マルガリティアが掠れた声で呟く。かろうじて問いかけのていをとって。
 慣れ親しんだ——慣れ親しまざるをえなかった光景であるが、再びそれを眼前にして少女は怯えを隠しえない。胸に抱いたアルカンを強く抱きしめる様が如実に心内を表にさらけ出す。
ヒューレでは、これ以外に方法はない」
「ありますよ。あるはずです。たとえばラケディアのように、相手を隷民にすれば……」
 ラケディアが敵を根絶やしにするとの認識に異論はなくとも、同胞を手にかけるとの思い込みは断固糺さねばならない。訂正しようと口を開いたリュクルスは、しかしゲルダの苛烈な勢いに先手を取られた。
「奴隷になるくらいならば〝鳥の民ゼーヴ〟は死を選ぶ! それに、森の民の〝集い〟には奴隷を養う余裕はない」
 青年はその意味するところをすぐに咀嚼した。森の民の一般的な集いがこの集いと同様の規模を基本とするのであれば、確かに余分の人間を抱えることは不可能だろう。地を耕さず動物を狩って生きる以上、人口を規定する食糧は豊富とは言えず、安定することもない。それは単純に物理的な問題であった。
 一方で、前者の意識は男に混乱を与えるものだ。ゲルダの口ぶりを聞く限り、〝集い〟全体の意向は不確定ながら、少なくとも彼女は自由民エレウスであることに強い誇りを抱いている。同胞殺しを厭わぬ低劣な魔物かと思えば、かくも高貴な精神を備えている。この矛盾が彼を悩ませた。
「きみのその言葉は真っ当だ。自由民エレウスであることは何よりも尊い。だが、そのように正しい心根を持ちながら、なぜ同胞相争う? 一方では、まるでラケディア市民のように誇り高く、また一方では下等な隷民どもの如き卑劣さを示すとは」
「ラケディアの戦士はおかしなことを言う。——〝鳥のごとく在るゼーヴ〟以上、戦いは必ず起こる」
「そのようなことはない。我らラケディア市民は自由民エレウスであり、かつ同胞を手にかけない。決して」
 ゲルダの苛烈な瞳は弛緩した。代わりに浮かんだのはある種の憐れみであった。
「ラケディアの民はヴィーテ。真に〝鳥のごとく在るゼーヴ〟ことはできない」
「ヴィーテとは? 理解しているか? きみはラケディア、麗しの都の市民を前にして、我らを自由民エレウスではないと罵った」
「ヴィーテはラケディアの言葉で表すならば……きっと〝狼のごとく在る〟。それは侮辱ではない。かつて鳥のごとく在る者ゼーヴ達と共に山にあり、やがて野に降りた。森の民ヒューレンはそれを知る」
「我らラケディア市民が魔物おまえたちと同類だと言うのか?」
 摩耗した精神が、ここにはっきりと示されていた。
 リュクルス、この誇り高きラケディア市民の心は明らかにすり減っている。目前で為された二人の会話を聞きながら、マルガリティアは内心そう断じた。かつての彼ならば、事ここに到り会話を続けたりはしなかった。その右の手が握る槍を以て決着を望んだはずだ。

「森の民とラケディアは共に生きた。〝鳥の民ゼーヴ〟と〝狼の民ヴィーテ〟は。それが〝下られた方〟の教え」

 ◆

 かつて山の頂に神が降りた。
 森に住まう獣の一部は恩寵を受けて〝人〟となった。神は人に火と鉄を与えた。加えて、火よりも鉄よりも遙かに重要なもの、人たる証を授けた。文字と法である。
 神は新たに生まれた〝人々〟に対し、その在るべき姿を教えた。〝鳥のごとく在り、かつ、狼のごとく在れ〟と。神——〝下られた方〟の教えのもと、〝下られた方〟の治めるままに人々は生きた。そこには争いはなく隷属もなかった。人々は鳥のごとく心のままに振る舞い、狼のごとく協働し群れた。
〝下られた方〟の治世は両の手指の数を十回重ね、加えて十回重ねたほど、つまり永遠に等しい時であった。だが、ある時前兆もなく、〝下られた方〟は再び天に昇られた。神の帰天と共に山の聖なる調和も消えた。人々は〝鳥のごとく在る者〟と〝狼のごとく在る者〟に別たれた。人々はもはや和合し得なかった。
 長い不毛な戦いの後、〝狼のごとく在る者〟は山を下り野に去った。かくして山は〝鳥のごとく在る者〟の生きる地となった。

 ゲルダが拙くも「正しい言葉」で語ったのは、魔物の神を物語るもの——神話であった。
〝下られた方〟。
 少女の小さな口がその単語を放つ度に、リュクルスは心の中で密かに敬意を示した。いかに魔物とはいえ、それが信じる神ならば軽率な侮蔑は危険である。世界にはラケディアが未だ知覚せぬ大いなる存在が満ち満ちていることを、彼は師カミノスより学んでいた。
「きみたちは、その、〝下られた方〟を信ずるのか。山に降り立たれたということは、その方はこのケイデー山に由来のある御方。ならば、おそらくは我らの信ずる猛きマヌと何らかの関係をお持ちだろう。おれは〝そのお方〟に対して礼を失していないだろうか?」
 神は人の無礼を許さない。それが過失や無知ゆえであっても峻厳な罰が下される。
 今から五年前、国王ガイオンの十二年に起こった堕落都市デルフとの戦いがラケディアの敗北に終わった理由は、市民の一人がマヌを嘲る戯れ歌を拵えたことに対する神罰である。元老会は即座に涜神の男の腹を割き、生きながら燃やすその香気を以てマヌの怒りを鎮めたのだ。
「〝下られた方〟はお優しい。だから、リュクルスに怒らない」
「それはよかった!」
 青年が胸をなで下ろす一方で、今度はマルガリティアが疑問を投げかける。ゲルダが語る〝お話〟に対して。
「なぜ〝鳥のごとく在る者〟と〝狼のごとく在る者〟は争ったんでしょう? 神様がいらしたときには仲良くできたのに」
「鳥のごとく在るならば、必ず他の者とぶつかる。欲のままに他の者を襲う」
「ということは、〝鳥のごとく在る人たち〟の間でも争いが生まれますね。ゲルダさんたちもまた」
 ゲルダは小さく首肯した。
「そう。だから釣り合いを求める。同じだけの力を皆が持とうとする」
「……でもそれだと、結局は〝狼のごとく在る者〟と変わらないのではありませんか? 皆が等しいのですから」
「違う。〝狼のごとく在る者〟にとって、等しいことが全て。他の全てよりも。〝鳥のごとく在る者〟は違う。〝等しいこと〟よりも〝意のままである〟ことが大切」

 ——やはり獣の理屈だ。
 彼は考えた。自由気ままに振る舞うために力を得て、気ままに振る舞うがゆえに他者の権利を侵す。それを押し通すために更なる力を欲する。だからこそ魔物達は同胞相争い、相手が弱ったとみれば殺し尽くす。そこに人の尊厳はない。ラケディアの誇り高き自由民エレウスとは似て非なる存在である、と。

 ——獣欲、とでも名付けるべきか。本能のままに暴れ回り他者を殺す。同胞をも。ラケディアが誇る美しい秩序とは比べものにならない。

「ダイノスの死によって均衡が崩れ、結果この群れは襲われたということか。では、きみが敵の群れに赴けばそれを防ぐことができたのか?」
「できたはず。私はラケディアの血を引く。ラケディアの血には価値がある」
「なるほど。確かにラケディア市民の血は高貴なものだ。この世の理を理解しえぬ魔物といえども欲しがるところだろう」
 得心するリュクルスに、しかしゲルダの返答は冷や水を浴びせかける。
「違う。ラケディアの血は新しい森の民ヒューレンはそれを求める」
「では、私の様なイリスの民の血も、でしょうか?」
「そう。それもまた新しい血」
 森の民にとってラケディア市民と隷民の区別など無意味である。そう明言したゲルダにリュクルスは我慢ならない。無知な小娘に正しい知識を教えてやろうと口を開きかけたところで、彼の心境を代弁するがごとく背後から野太い声が響いた。
「ゲルダ! 何を馬鹿なことを。我らはラケディアの市民だ! 森の民や隷民の血など比較にならない。リュクルスけいもお分かりでしょう。すべて下らぬ話です。ここには世迷い言ばかり蔓延っています」
 リュクルスにとって、兄の叫びは妹のそれよりも効果的に働いた。我に返るために。
 鳥に食い散らかされた十を超える死体と、それを覆う黒い羽虫の膜。そのただ中で空疎なお話にふけるなど、冷静になってみれば誠におかしな行動である。今為すべきことではない。為すべきことは他にある。
「敵は山の上に住む群れだと、きみの妹から聞いたが、間違いないか?」
「確実に! リュクルスけい、私はここで骸を晒す者達になんら思うところはありません。ラケディアを軽侮した、まさに死すべき者達でした。ですが……」
「ああ、その通りだ。自身の属する集団を襲われて何もしないなど、ありえないな?」
「まさに! 報いを与えねばなりません。愚かな者達に」
 会話はほとんど無意味であった。結論は既に出ていたのだから。

 究極的なところでは、リュクルスにとってこの群れの惨劇は全く以て無関係なものであった。〝隊列〟を喰わせるための食料を調達——取り得る限りの手段を以て——するために立ち寄ったに過ぎない。燔祭の使いは間引きの仕事をその職務に含まない。ゆえに魔物どもに対して、積極的な攻勢をかける必要はない。
 しかしラケディアが執拗に、丹念に培った感性は彼を強く揺さぶる。
 血と死は人を高揚させる。戦士であればなおさらに。

「では、為すべきことを為そう」
 常のごとく落ち着きを払い、リュクルスは静かに会話を締めくくる。大げさに騒ぐほどでもない。魔物の群がもう一つ、根絶やしになるだけのこと。

 腐臭にさえ人は慣れる。ならば殺しもまた。