タテガキ

第二章 旅

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2026/04/25 03:06 公開

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「これはまた、見事に焼かれたものだよ! なんとも見事に!」
 草むす平原の合間、灌木もまばらな土地は、明らかに人の住んだ痕跡を示していた。頽れたいくつもの黒塊。それは何もない空間を取り囲むように佇んでいる。
「来た甲斐があったかしら? パレイオス」
「ああ、ああ。これは明らかにの為したこと。その跡だ。誰かが火をかけた。村に。——君たちの始末ではあるまい? ダイオス?」
 エイレーネの問いかけに首肯しつつ、偉丈夫は傍らの年若い青年に確認する。
「ええ。僕たちの隊列ではありません。我らはこの村を膺懲ののち、速やかに去りましたから」
「そして、あいつがやってきた! 石の如きリュクルスが!」
 場を圧するその声は怒号に近い。だが陽気な。つまり、彼ははしゃいでいるのだ。
 自身の〝初のつがい〟が見せる上機嫌は女——エイレーネに苦笑と、さらには微量の安堵をもたらした。元老会の裁定からこの方、男が隠そうと望みながら隠しえないある種の苛立ちを、彼女は傍らで見てきた。気づかぬふりをしながら。不安と共に。しかし、今この場において、パレイオスは確かに解き放たれていた。ここ数週間にわたり彼を抑圧したものがなんであるか、彼女ははっきりと理解している。自身もまた、それに悩まされていたのだから。
「確かにそうね。粗末な木造りとはいえ、こんなに上手く燃やすのはなかなかに手間がかかるものだわ。適当に火を放つだけではこうはならない。ダイオスが言う通り、生き残った隷民が娘一人だけでは、とても手が回らないはず」
「ゆえにリュクルスだ。あいつは為すべきことを為す。徹底的に。常に。やはりきみの推測は正しかったな、ダイオス」
「ええ。タンタリオンで邂逅したけいは明らかに正気でした。正気のまま、おかしくなっていたんです。実際に剣を交わし、言葉を交わした後にはすぐに分かりましたよ。リュクルス兄は……」
 ダイオスの手指には、いまだ生の感触が残っている。自身が振り下ろした剣を見事に跳ね上げた断固たる衝撃が。かつて敬慕し、今なお敬愛して止まぬ〝兄〟の力は決して衰えていない。
「では諸君、分かったところで、再び行こうじゃないか! ラケディア、麗しの都の誇るべき市民を探しに。マヌ神が降られたであろうその身体を求めて」
 パレイオスは厳かに宣言する。
 夏のペルピネに雨はほとんど降らない。常に陽が照らす。

 ◆

 タンタリオンからの使者ダイオスが元老会に報告した事のあらましは、カミノスはじめ都市の中枢を占める者たちを困惑させるに十分なものであった。ただでさえリュクルスはいわくつきの存在なのだ。デルフの神託が彼の出生にやっかいなしるしを残していた。「石を金と為す者」。この言葉は如何様いかようにも解釈できるがゆえに、まさに正統な預言であったと言える。神より預けられた言葉。預言。この、ある種の呪いと共に生を受けた赤子を生かしたのは、当時一期目の執政官職にあったカミノスの見事な解釈であった。彼はデルフの女神アポリアの言をラケディアではなく、外の世界の常識に照らして読み解くべきであると会衆を説得した。実際それは筋が通った理屈である。アポリアは都市ラケディアの神ではないのだから、ラケディアの常識に囚われることはない。結果赤子は麗しの都に受け入れられた。
 その後二十年の月日を経て、老人は再び難しい解釈——判断を求められることとなった。
 ダイオスの証言通りであれば、現在リュクルスはラケディアが未だ知らぬ神、〝名もなき方〟の巫女を守護していることになる。来歴はおろか名さえ分からぬ神ではあれど、自身の巫女を大切に扱うことはマヌ神他、既知の神々と変わりないはず。とすれば、〝名もなき方〟とマヌ神の間に、限生の者ひとには分からぬ何らかの取り決めが為された可能性がある。神託の不思議はあれど、成長したリュクルスがラケディアの未来を担う若者の一人であることは衆目の一致するところである。つまり、リュクルスもまたマヌ神の愛し子といえる。その彼をして他の神の巫女を守護せしめることはマヌ神の合意なしには不可能である。とすると、リュクルスが告白した「声」は、あるいはマヌ神からの召命であったのかもしれない。〝名もなき方〟の巫女と出会わせるための。
 数週間前と同様、今回もまた、カミノスは迷わなかった。
 彼はパレイオスとエイレーネ、そして報をもたらしたダイオスを呼び集め、端的に命じた。リュクルスを追い、状況を見定めよ、と。

 老執政官の命を受けた際、パレイオスがその雄々しい横顔に浮かべた満面の笑みを、エイレーネは忘れることが出来ない。
 慌ただしい旅支度の最中さなか、女は彼に尋ねた。
「ここ最近のあなたのそれは、罪悪感から?」
「いや! このパレイオス、そのような軟弱な心根は持たない。君も分かっているだろう」
「あなたの心根は文字通り心の中にあるのだから、私には見えないわ。だから本当のところは分からない。私に分かるのはあなたの行動だけ。……パレイオス、あなたはなぜ、私と交わろうとしないの?」
 ラケディアにおいて、エイレーネの香り立つ初い肌に手を触れる権利は彼一人のものである。にもかかわらず、陽気で剛毅な言動に反して、彼は〝ちぎり〟はおろか、語り合うことさえも抑制した。端的に述べるならば、避けていた。真相は不明ながら女にはそう感じられた。
 核心を突く問いは、適切な時に適切な場において為されねばならない。今この瞬間、武器と行李の準備に勤しむ片手間は、まさに時宜を得た瞬間である。厳かな場において為されたならば、この問答は重すぎる。
 青年は刃こぼれを確認するために引き出した剣を再び鞘に収め、女に向き直った。男の振る舞いを彼女は好ましく思う。堂々たる態度だった。
「俺は得心がいかない。君は見なかったか? リュクルスの去り様を。あいつは俺にこう言った。〝リュクルスという立派な友が居たことを君とエイレーネの子に伝えてほしい〟と。俺は戦場において恥ずべき行いをしたことは決してない。リュクルスに劣るところは一つもない。そう思っていたが、あの夜以来、俺は不思議な気分に悩まされている」
「あなたまで?」
「ああ。俺までだ! 確かにリュクルスは、幻聴を聴いたと俺たちに告げた。それは誰もが知る気狂いの兆候だ。だが、そんな取るに足らぬ出来損ないが、あれほどに偉大な振る舞いを為しうるだろうか。どう思う? エイレーネ」
「要するに、私たちの為したことは間違いだったと言いたいの?」
「いや、いや! それもまた違う。我ら限生の者ひとに神々の意図は理解できない。俺たちはあの時、あの場において最善をなした。それは確実だ」
 自身の判断が誤っていた可能性を恐れているわけではない。エイレーネが判ずる限り、パレイオスの挙動に揺らぎはない。
「正直に言えば、私は後悔しているわ。理屈はどうあれ、私たちはリュクルスを追いやったの。恥ずべきことだと分かってはいる。でも、真心を隠すことはできない」
「きみはそれでいい、エイレーネ。女はそれでいい。後悔してもいいだろう! だが、我ら男は違う。我らには、そのような感情は許されないものだからな」
 下ろした髪が女の頬を微かにくすぐる。弾みながら引き締まる、みずみずしい肌を。彼女はここにおいて、自身の性を強く自覚した。そして、目の前にいる〝初のつがい〟の男と、今はもう居ない〝初のつがい〟となるはずだった男の違いもまた。
 同じ会話をしたとして、リュクルスは決してパレイオスのようには語らなかっただろう。〝女はそれでいい〟などとは。彼女には確信があった。
 リュクルスにとっては、パレイオスもエイレーネも同じ「我ら」であった。男女の差は機能の違いに過ぎない。盾と槍のようなもの。使い方は全く異なれど、本質的に戦の道具である点においては同等である。彼は物事をそのように見ていた。「我々」は皆、ラケディアを繁栄に導くための部品である、と。
「そろそろ考えが整理できたかしら? 私にも分かるように、あなたの心を言葉にする準備が」
「簡単な話だ。俺はきみを譲られたことに我慢ならないんだ! ……つまりそういうことだ。俺はリュクルスに一歩遅れを取っていた。俺自身はそうは思わないが、元老会はそう判断していた。だが、そんな俺が一足飛びにあいつを追い越して、きみを得た。あいつが勝手に脱落したんだ。だがな、エイレーネ。脱落の理由が明白であったなら俺は迷わない。それは自滅した者の責任にすぎない。俺は勝ちを誇ってよい。だがな、エイレーネ! 俺がずっと疑っていたように、どうも〝明白〟ではなかったらしい!」
 パレイオスは巨木の如き上腕を振り上げ、高らかに語り上げる。その仕草には、最近なりを潜めていた青年の美点がはっきりと現れている。快活であり、単純であること。
「倒したはずの競争相手が戻ってくるかもしれないのに、あなたはうれしそうね? 私を奪い返されてしまうかもしれないのに」
 女はごく微量の皮肉を込めて述べる。だが、秘めた思いは彼女も同じだった。大切な幼なじみ。十の年から常に共に過ごした仲間。真に信頼できる僚友。そして、好ましく思った男。その復権と名誉回復への道が開かれたのだ。かつて彼女とパレイオスが判断を誤って、性急に閉ざしてしまった道が。
「認めよう。認めよう! 俺は喜んでいる。俺が唯一競うべき男が帰ってくる。俺とリュクルスは死に至るまで互いを最上の市民と認め、競い抜くだろう。友として。そして共に〝共同体コムネス〟を担う。これほどに偉大で、幸福な未来があるだろうか。——エイレーネ。俺は確かに喜んでいる。この俺が唯一認めた男が、下らぬ気狂いの類いでなど、あろうはずがなかった!」
 自らの発する言葉に煽られたのか、青年はいそいそと腰に剣を佩き、愛用の円盾を背に負った。出立の準備は終わっていないが、そんなことはおかまいなしに、今にも歩み出していきそうな風情である。
 エイレーネの大ぶりな唇が緩む。それは苦笑とも見える。胸甲の下、大きく膨らんだ乳房の奥、心臓が早足で動き出す。それが錯覚に過ぎぬことを分かりながら、女はその感触を好んだ。
「ところで、私のことはいいの?」
「いや! よくはない。これから言おうと思っていたところだ。そう、俺はリュクルスと——猛きマヌに召命されるほどの戦士と再び競い、明白に打ち倒すぞ。そして一切の疑義なく、きみを得るだろう!」
 つまるところ、パレイオスにとって快の根源はリュクルスなのだ。女は余録に過ぎない。薄々感じていたことながら、これほどにはっきりとそれを見せつけられようとは、エイレーネにも予想外だった。

 彼女はあらためて、彼女の体の〝初〟を争う二人の男の違いを理解した。パレイオスは自己を持つ。あくまでラケディアの存在を最上としながらも、その下に欲を持つ。誇るべき友と競い、肩を並べ、偉大な地位を占めようとする。そのついでに最上の女を得ようとする。
 一方、リュクルスにはそれがない。彼は徹頭徹尾、麗しの都の物言わぬ礎であることを善しとするだろう。最上の女を得ることも、次代の最良の礎を生産するために必要ゆえ欲するのだ。
 あまりにも対照的な男達である。
 そう彼女は断じた。しかしそれはあくまでも、彼女——エイレーネの見たところのものに過ぎない。現実のリュクルスが心内に何を抱えているかは分からない。なぜなら、かの男は〝石の如き〟とあだ名される者である。〝獅子の如き〟パレイオスは獅子、つまり動物ならばこそ心を持つが、石は物であり、心を持たない。あるいは存在するのかもしれないが、外からうかがい知ることは不可能である。石は手足を持たぬがゆえに動かず、口を持たぬがゆえにしゃべらぬのだから。

「お喋りはこのくらいにしておきましょう。準備を済ませてしまわないと。——あなたも早く発ちたいでしょう? 彼を探しに」

 エイレーネは会話を切り上げた。
 彼女もまた心急くがゆえに、その言葉は半ば自分に向けて発せられたものであった。