タテガキ

第二章 旅

10魔物

2026/04/21 15:07 公開

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 月明かりは一行を導かない。か細いそれは木々の天蓋に難なく弾かれてしまう。
 よって光源を持たない彼らが目的地に辿り着くことができたのは、ゲルダの優れた夜目と単純に距離の近さゆえであった。

 少女の先導に従い日没と争うように歩いた彼らはついに樹木の緞帳どんちょうを抜けた。
 水流の音がリュクルスの耳を満たす。覆いを失った川辺はまだ弱い月光を、あるいは星の瞬きを貪欲に飲み込んでいる。ゆえに人は視ることができる。
 小川というにはいささか川幅が大きいそれは、天然の迷宮と呼んで差し支えない緑壁において唯一、ある程度の直行が可能な道を左右に備えている。細かい礫岩に覆われたところ。川に沿って走るへりである。

「上へ」
 ゲルダは振り返り、後続の二人にそう声を掛けると再び歩き出した。視線のうちに、先を行く羊を捉えながら。
導き手アルカン〟は見事な行軍を為した。彼は自身が率いる〝群れ〟を確認し、逸れぬように歩を進める。羊にとって地面の雑草はごちそうである。にもかかわらず、彼は脇目も振らず歩いた。その様はまさに誇り高いラケディアの市民の振るまいだ。肉の快に惑わされず、目的のために生きる。

 上。
 川の上流へ向かう道すがら、リュクルスはそんなことを考えた。〝執政官アルカン〟の白い毛並みは弱光にもよく映える。実際のところ、森の夜に慣れぬリュクルスとマルガリティアにとって、それはある種の目印として機能した。

 ——まさに〝執政官〟の名に相応しい。隊列を堅固に導く。
 脳裏に浮かぶその台詞は青年の心内を如実に表す。端的に述べるならば心細さ。
 側に一人、目前に一人の女がいる。そして自身の背には一人の男が乗っている。人に囲まれながらも彼は感じていた。寂しさと近しい感情を。

 ——まともなのはあいつアルカンとおれだけだ。

 ◆

 枝組の簡素な屋根を木々の間に渡した場所を「住処」と称したゲルダの姿に、リュクルスはならば誰もが生来持つ感情——他者への憐憫を抱いた。ラケディア市民を父に持ちながら魔物まがいの生活を強いられた兄弟の存在は、この世に存するあらゆる不幸の中でもとびきりのものである。
 人が魔物に混じって生きるなど。

「きみたちの父の名を教えてくれ」
 大きな荷物——ゲルギウスを地に横たえ、河原で火をおこした頃合いを見計らってリュクルスは問う。
 兄妹を見る限り、素材としては悪くない。兄の方は比較的大柄な自身を凌ぐほどの巨躯。妹は素早い身のこなしと度胸。ラケディアは彼らを受け入れるだろう。
 ただし、忌々しい顔の刺青は消さねばならない。深く皮膚を抉り、肉を削ぐ必要があるだろう。
「ガイオン」
「——ガイオン。残念ながらおれは知らない。父上はなぜ緑壁に? 理由を聞いているか」
「父は……あれと一緒に来た」
 ゲルダが指さす先にはアルカン。マルグリティアに寄り添い丸くなる羊の姿があった。
「……燔祭の遣いか」
 意外な答えである。
 兄妹は物心つかぬ頃、何らかの理由でラケディアの戦士——それは父かもしれず母かもしれず、あるいは他者たる僚友かもしれない——とともに緑壁に迷い込み、運悪く魔物の手に落ちたのだろう。彼は当初そう予測していた。
 ゲルギウスが身につけた戦装束は同行したラケディアの戦士、恐らく父から譲り受けたものであると考えれば、その使い込まれた風情にも説明が付く。
 当然のことながら、おかしな所はいくつもある。
 まず、ラケディアにおいて十の歳に満たぬ子どもが都を離れることはない。次に、十の歳以前の子どもが間引きに同行するなどありえない。そして最後に、魔物たちが彼らを生かしている。食わずに。
 だが、幾多の謎を残してなお、その予測以外にはなかろうと考えていた。
「燔祭の遣いに子を持つ者が選ばれることはないはずだが。加えてその子を同行させるなど」
 ラケディア、麗しの都において子は最も貴重な資源である。ゆえに子を殺めることは最大の禁忌であった。ただし、その子がラケディアへの奉仕を行う能力を持たぬとみなされた場合を除いて。

 ——つまりこの二人は何か「障り」を持つということか。同胞ガイオンは自身を処理するついでに、二体の不適格児をも処理する命を受けたと。ならば運良く生き延びたとて、ラケディアは彼らを受け入れまい。

 リュクルスの心内に起こるさざ波は同情と極めて近しい何かである。一月前であれば決して抱くはずのなかったもの。ラケディアに益をもたらさぬ者は存在すべきではない。そう考え、一顧だにしなかったはずの者たち。

 今、彼は確かに彼らに同情していた。
 彼らは字義通りリュクルスの現在の僚友である。ラケディアにとって無益な者として。

「ゲルダとゲルギウスは……ここで生まれた」
 黙り込んだ青年の顔を眺める少女の視線は控えめながらも気遣いを含んでいた。深刻な表情を浮かべた彼に対して。
 川水で顔と首筋を洗い流したゲルダの肌は焚き火の暖光に照らされて、少し赤みを帯びて輝いていた。目元に走る二本の刺青と共に。
「では母の名は?」
 男女が揃って燔祭に向かうなどありえない。
 供犠の遣いは身寄りのない偉大な老戦士に与えられる栄誉である。ラケディアにおいて、男の偉大さは戦における振る舞いによって、女の偉大さは成した子の数と質によって測られる。
 ゆえに女の遣いは論理的に存在しえない。燔祭の遣いに足る偉大さを示した女は確実に子を持っている。子を成せぬ女はラケディアに益のない存在である。つまり、老いを待たずに処理されているはずなのだ。子を全員失い、もはや新たな子を産めぬ歳に達した女は偉大な女ではない。子が全員が亡くなるとはつまり、産んだ数が少なかったということである。
「スィケィ」
 少女の簡素な返答をリュクルスの耳は捉えきれない。音は届けど意味を成さない。
「スーケー? それは?」
「母の名」
「同胞たるきみにこのような事を述べるのは無礼かもしれないが、きみの言葉からは少し訛りを感じる。シルケア、あるいはシルカ。それが正しい発音だろう」
 昼下がり、少女がリュクルスに叫んだ「ラキディ」の語もまた訛りである。この少女ゲルダがラケディアの正しい言葉を使えぬことは状況を鑑みれば致し方ない。
 これほどに悲惨な身の上があろうか。光輝ある市民の子が幼くして魔物に攫われ、汚らわしい刺青を刻まれ、あげくに言葉まで半ば奪われている。

 ——あるいは彼らは、処理されていた方が幸せだった。そうであったならば、このような恥辱の中で生きることも……。

 思考は少女の言によって中断を余儀なくされた。それは怒気すら含む断固たるもの。
「違う。名はスィケィ。それが名!」
「すまない。無礼だった。だが、ラケディアの女はそのような名を持たない。だから正しい呼び方を……」
「母は違う。ラキディではない」
「では何だ。——まさか隷民か?」
 頭の隅に、その可能性を潜ませてはいた。極めて不本意にして不愉快ながら。
 遣いの道中、肉の欲に駆られた戦士が適当な隷民の女を胎ませ、そのまま緑壁まで連れてきた可能性。まさかそのようなことはあるまいと一笑に付した選択肢だ。
 麗しの都において名を讃えられ神聖な遣いを任されるほどの市民が、穢らわしい隷民女に子種をくれてやるなど信じがたいことである。それは三重に嫌悪すべきことだ。
 肉の欲を抑えられぬ失態、それを隷民などで解消した愚劣。最後に、その女の胎に子を宿さしめた背信。よってゲルダの言葉が真実であれば、父ガイオンとやらは唾棄すべき男の評価を免れない。
「母は奴隷ではない」
「それは良かった。きみの父上の名誉のために。母が従民であるならばまだよい。彼らは元を辿ればラケディアの者なのだから」
 リュクルスは努めて明朗にそう返した。従民とつがうとて嫌悪を催す行為だが、本心を伝えれば眼前の少女は落ち込むかもしれない。自身の劣った血に気づいてしまう。
 成り行きとはいえ緑壁——敵地の中で連れ合う者である。少女の哀れな身の上を指摘することを彼は敢えて避けた。リュクルスは善い心根を持つ優しい青年であった。
「奴隷ではない。母はヒューレ」
 ゲルダの態度もまた明瞭であった。青年の心中など推し量る術もない。彼女は自身の感覚を気負うことなく表現する。
 ヒューレ。そう言いながら自身を指さし、兄を指し、最後に彼方を指した。つまり、森を。

 男の沈黙は長い。兜を脱いだ素顔はその怪訝な表情を隠すものを持たない。彼は少女の黒い瞳をじっと見つめていた。

 膠着状態を破ったのは果たしてもう一人の女だった。
「戦士様、何のお話を?」
「ゲルダにその父の名を聞いていた。——ところでは落ち着いたか」
「どちらの? アルカン? それとも、もう一人の戦士様ですか?」
「ラケディアの戦士だ」
「でしたら、呼吸も少し落ち着いて眠りに入られました。腕の傷はもう出血していませんから、後は体力次第ですね」
 ゲルギウスの右上腕には斜めに傷——おそらくは刀創——が入っていた。凝血により赤黒く盛り上がったそれは長さ深さともに大したものではない。だが位置が悪い。リュクルスは「住処」に辿り着いて早々〝僚友〟の手足を確認し、状況を即座に理解した。これでは剣の持ち手に力が入るまい、と。
 敵の腕を〝削る〟のは個対個の戦いにおける常道である。左手の円盾を使いこなせない未熟な者はそれを防げず、結果死に到る。いかに立派な鉄兜と厚皮の胸甲で身を守ろうと、剣をまともに握れねば敗北は時間の問題だった。
 不幸にしてその状態に到ったとき、取り得る手段は一つしかない。逃走である。
 ラケディアの法は戦場におけるそれを厳禁する一方で、一対一の戦いにおいては容認する。場合によっては推奨さえする。形勢不利とみれば一度撤退し、後に機を見て復讐を遂げるのは恥ずべきことではない。目的を達するための立派な「戦術」である。
 戦場においても、目的を達するために〝隊列〟を後退させることは認められている。ただし、その判断は司令官に委ねられる。ゆえに司令官、ひいては彼を任じたラケディアに、服従すべき戦士の個人的判断は許容されない。しかし個人間の戦いにおいては、戦士の司令官は戦士自身であるのだから、そこには裁量の余地があった。
「それはよい。ゲルギウスはよい判断をした。恐らく即座に。ラケディア、麗しの都の市民に相応しい戦い方だ」
 アポリアの名を冠する少女は、しかしリュクルスが見せた不自然な態度を見逃さない。妙に力強く、妙に長く、妙に明るいその声は、平静の青年に相応しくないものに感じられた。
「それで戦士様、お二人のお父様はなんとおっしゃる方なのですか?」
「——ガイオン、と。燔祭の遣いとしてここに派遣されたそうだ」
「そうなのですね。——ところで戦士様」
 青い瞳を輝かせて女は言葉を続ける。楽しげに。
「この方はなぜ魔物のような格好をしていらっしゃるのでしょう? 光輝あるラケディアの戦士様であるはずなのに」
 リュクルスとアポリアの問答を間近で聞きながら、ゲルダの目は川辺と森の境、仮の住居に注がれる。そこには兄と子羊アルカンがいる。アポリアの不在を埋めるべく、アルカンは寝入るゲルギウスの側で丸くなっていた。
「——それは分からない。ゲルダの言葉は少々訛っていて、おれには……」
「ゲルダは明らかに告げた」
 青年の曖昧な声色を断ち切るゲルダの言葉には微かながら苛立ちが感じられる。
「わたしにも理由を教えてくださいますか? 戦士様」
 戦士様。アポリアはゲルダにそう呼びかける。艶やかな笑みを浮かべながら。
「ゲルダとゲルギウスはガイオンの子。そしてスィケィの子。我々はラキディとヒューレの子」
「ヒューレとはなんですか?」
 先刻同じ事を問われたばかりのゲルダは、またか、とばかりに豊かな巻き毛をかき上げ、遠く森の彼方を指さした。
「つまり、ヒューレ緑壁の民、ということでしょうか」
「そう」
「ではわたしと同じですね。わたしはマルガリティア。イリスの民の娘です」
「父はラキディの?」
「いいえ。父も母もイリスの」
 背丈も年齢も近しい少女二人だが、その容姿の差異は想像以上に大きい。マルガリティアが金の髪と青い双眸ゆえに白ならば、黒髪黒目を備えたゲルダは明確に黒。焚き火の色づいた光の下においてさえ白と黒は揺るがない。
 にもかかわらず、リュクルスにとって彼女達はほとんど同一の存在とすら感じられた。
 謎めいている。その一点において。
 マルガリティアが秘めた謎は神意ゆえと理解できる。だが、ゲルダのそれは全く意味が分からない。
「つまりゲルダ様は、ラケディアの戦士様と魔物ヒューレ混ざりものなんですね」
 否、意味は分かっていた。分かってなお、それを受け入れなかったに過ぎない。
 麗しの都の市民と魔物がつがい、子をなすなどと。それは嫌悪を通り越し、もはや恐怖ともいえる感情を青年に想起せしめた。ラケディア市民と魔物の子。

「そう。マルガリティは正しい。賢い」
 それにひきかえ、とでも言いたげにゲルダはリュクルスに一瞥をくれると、兄の横たわる「住処」に歩み去った。

 ◆

 残された青年と女はしばし無言で見つめ合う。先に口を開いたのは男の方である。
「おまえは理解できるのか?」
「はい。もちろん。何か難しいことがありましたか? リュクルス」
 彼は女の得意げな笑みをこれまで何度も見てきた。自身に向けられた嘲弄の。
「ありえないことだ。光輝あるラケディアの市民と魔物がつがうなど。おまえは羊とつがい、子をなせるか? それと変わらない」
「そうでしょうか? あなたとアルカンの違いは分かります。あなたはすべすべでアルカンはもこもこですね。でも、あなたとゲルダさんのお兄様の違いは分かりません。どちらもラケディアの戦士様です」
 彼がマルガリティアと会話するときに覚える深い心労は望まぬ自制を強いられるがゆえだ。ともすると感情のたがが外れ、怒鳴りつけそうになる自分を強く戒めなければならない。いきり立って吠える姿は少女を喜ばせるだけと分かっているがゆえに。
 彼女は思うだろう。
 ——偉大なラケディアの戦士様が小娘のちっぽけな一言にむきになっている、と。
「違いはある。明らかだ。魔物の血を引くなど。それはつまり、人ではないということだろう」
「わたしも昔はそう思っていました。姿形も違う、腕が四本あって、狼のような顔をした怖い生き物なのだと。見たことがありませんでしたから。でも、ゲルダさんが魔物ヒューレだというのなら、その違いが分かりません。どこが違うのですか? あなたあの方達魔物の」
「——魔物は言葉を解さない。恥ずべき文様を肌に刻んでいる」
 青年の言葉には意思がなかった。それは与えられた言葉だ。彼は注がれた水を他に注ぐだけの、ちっぽけな水差しに過ぎない。

 ——石の如きリュクルス! 皆が讃える! ラケディア、麗しの都の子!
「声」は跳ねるように、歌うように頭蓋の中を走り回る。悪意をもって。

「ゲルダさんとはお話が出来ました。では文様……あの赤い染みが別けるのですか? 人と魔物を」
「そうだ」
「でも、あれは生まれた後に入れるものですね。リュクルス、わたしは単純に分かりません。——模様が刻まれる前のあの人達は人ですか? 魔物ですか?」
 リュクルスの呼気は長く、大きく、川辺の大気を貪り尽くさんばかりの貪欲さであった。そして彼は静かに吐き出す。長く、大きく。胸中の炎を排出せんと。
「魔物は神を信じない」
「それをお聞きになりましたか? ご本人に」
「聞かずとも分かる」
「なぜです?」
「もしあれらを嘉したもう神がいらっしゃるならば、その方はきっと、魔物どもを正しく導かれただろう」
 マルガリティアの笑いは常になく嘲りが少ない。それは失笑であった。
「少なくともゲルダさんは導いてくれましたね。水場に。わたしたちを助けてくれました」
「騙しただけだ。卑劣にも。——おれはやつらを同胞と勘違いした。やつらはおれにそう錯覚させた。ラケディアの市民を装った。もし真実を知っていれば、あの場で確実に仕留めていただろう。醜悪な魔物の混ざりものが……」

 少女は遮る。軽やかに、歌うように。
「リュクルス、リュクルス。なぜ騙されたんですか? 人と魔物は人と羊ほどに違うはずなのに。——違いは明らかなはずなのに。一目で分かるはずなのに」



 ◆◆



 子羊アルカンが導いた偶発的な集団が互いの素性を交換し合うまでには、およそ三日を要した。
 遭遇初日、夜の問答以来リュクルスは兄妹への興味を失っていた。少なくともマルガリティアの目にはそう映った。交流を求めぬラケディアの戦士と未だ伏せったままの男。てんで使い物にならぬ男衆を尻目に少女達はそれぞれの事情を語り合った。

 川辺の野営において食糧確保と調理を担当したのは彼女達である。
 ゲルダは気負うことなく森に入り、あっさりと数匹の小動物を狩ってくる。マルガリティアがその獲物を捌き、肉に変える。
 リュクルスとて座視したわけではない。彼もまた自前の食材確保を考えて不慣れな森に踏み込んでみるものの、地を這う蛇以上のものを捕まえることはできない。磨き上げた隠密行動の技能も動物相手には全く通用しなかった。彼は騒々しく巨大な一個の「お荷物」であった。
 陸の動物が無理ならば魚を、と、川に目を移してみるがそれも上手くいかない。槍で突こうにも川魚は小さすぎ、穂先は無駄に大きかった。
 山菜取りも試したが、慣れ親しんだ環境とは植生が全く異なる森の中で、食用のものとそれ以外を見分ける術を彼は持たなかった。ゲルダの指導を受けたマルガリティアが効率的に採取を進める一方で、彼は木の根にしゃがみ込み途方に暮れる他なかった。

 緑壁に踏み入って数日で、男は全くの無意味な存在へと堕した。手持ちの糧食は尽き、後はゲルダの知識と技能に縋る他ない。
 ゲルダが歴としたラケディアの戦士であったならば、彼はわだかまりなく、堂々と彼女を頼ることができた。僚友に助けられるのは恥ではない。市民の互助はこの世において最も美しい行為である。一方で、彼女が隷民の娘であれば、それもまた気後れを感じずに済んだはずだ。隷民がラケディア市民に奉仕するのは当然の行為なのだから。
 だが、残念なことにゲルダはどちらでもなかった。豊かに波打つ黒髪をなびかせる少女はラケディア市民の父と魔物の母を持つ。つまり、市民でも魔物でもなく市民でも魔物でもある存在だ。

 最終的にリュクルスを動かしたのは「常識」でも「概念」でもなかった。「理屈」でもない。より根源的な感覚である。彼は自身の無為徒食に耐えられなかった
 ラケディアの市民にあるまじき曖昧さとためらいを含ませながら、彼はゲルダにぎこちなく礼を述べた。同時に彼女の兄ゲルギウスを看病することを申し出た。付け焼き刃の指導で狩りに向かうよりも彼にしか出来ないこと、つまりゲルギウスの巨体を動かすことを選んだのだ。下の世話や洗体は少女達の細腕には荷の重い作業である一方、リュクルスにとってそれは、かつて僚友達に対して施したことのある、ある種手慣れた行為であった。
「……では、ゲルギウスをたのむ。——リュクルス」
 少女の声には明らかに驚きがあった。その事情をマルガリティアから予め聞いていたがゆえにリュクルスの申し出は意外の一言に尽きた。

 彼は男の身体を背負い川べりに運ぶとその装束を剥ぐ。自身も胸甲と麻服を脱ぎ捨て水中に歩み入り、予備に携帯した布きれで身体をこすり上げていく。水の刺激に時折覚醒するゲルギウスに状況を伝えながら。
「……何を?」
「きみの身体を洗っている。——私が分かるか?」
「ラケディアの……」
「そうだ。ガイオンの子ゲルギウス」
 彼はゲルギウスの刀傷を丁寧に拭う。
 人の身体は厳重に口を封した一つの革袋である。どこかが破けると、中に詰まった精気が血液として漏れ出し、同時に外界の汚濁が侵入する。リュクルスはかつて学び、今も当たり前のこととして理解する人体の仕組みを思い出した。刀傷が元で死んだ僚友を彼は幾人も知っている。
 汚濁は体内を荒らし尽くす。この〝目に見えぬ悪鬼〟と戦い抜くためには頑強な身体と並外れた精神力が必要だ。精神力とはつまり生を繋ごうとする意思である。その意思がどのようなものであるか、ラケディアにおいては常に明快であった。ラケディア、麗しの都の繁栄を支えること。ラケディアを光輝ある都となすこと。それこそが市民が抱くべき生への意思である。

 ——だがこの男はラケディアを知らない。人がなんのために生きるべきかを。哀れなことに。
 彼はどのように声をかけようかと迷い、最終的に次善の策を思いついた。つまり「情」である。
「意思を持て、ゲルギウス。汚濁の悪鬼を追い出す断固たる意思だ。きみが居なくなればゲルダはどうなる? きみが守らなければならないだろう?」
 腕に抱いた男の頭が小さく揺れ、顔を覆う黒髪が脇に流れる。薄く開かれた瞼。リュクルスの瞳が男の弱ったそれと結びつく。眼窩の下に走る二本の赤い筋を陽光が照らした。

 ——おれはおかしなことを言っている。魔物に。

 ◆

「ね、ゲルダさん。リュクルスは善い人なんです」
 川の中程で裸体を並べる男達の姿を二人の少女がじっと眺めていた。より正確に述べるならば観察していた。熱心に。
「マルガリティの言うとおり。頑丈な身体。あれはマルガリティのつがいではない? 本当に」
「はい。前にお話した通り」
「リュクルスは強い」
「お強いと思います。ラケディアの戦士様ですから」
「ラケディはなぜ強い戦士を捨てる? 強い戦士は大切」
 ゲルダの疑問は正鵠を射たものだった。
 マルガリティアは一般のラケディア市民がどのような人々なのか知らない。知っているのは自らの村を破壊した者達が数名とリュクルスのみ。当然のことながら、交流を深めたのはリュクルスだけである。ゆえに彼の在り様が標準的なものかどうかも分からない。だが、タンタリオンで受けた厚遇はラケディアにおける彼の立場を示しているように思われた。少なくとも罪人やつまはじきの類いではない。
「リュクルスは山に登る使命を与えられたんです。光栄な使命だと」
「遣い。父ガイオンも同じ。ガイオンは言った。死ぬために来た、と」
「お父様はどこに?」
 黒髪の少女は間髪を入れずに応じる。
「死んだ」
「そうですか」
 金髪の少女は至極あっさりと返した。死はありふれたものである。
「ガイオンは言った。捨てられた、と。〝遣い〟とは捨てること?」
「分かりません」
 分からないが推測は可能である。タンタリオンで〝赤い槍の男〟がリュクルスに零した言葉の端々からそれを感じる。
 追放。
 それはイリスの女にとって、決して悪いこととは思われない。彼は切り捨てられた者なのだ。にもかかわらず、厳然たる事実を受け入れられずに縋り付いている。自分を捨てた当の相手に。男の滑稽な姿には憐れみに近い感情を覚える。そしてほんの一つまみの優越。見下す喜びすら得る。
 だからだろうか。彼女はリュクルスを憎みきれない。
「——でも、戦士様にはそれを言わないでくださいね。ああ見えて繊細な方ですから」
「せんさい? ラケディアの戦士は悩まない。父ガイオンはそう言った」
 怪訝そうに自身を見つめるゲルダの言にマルガリティアは笑みを禁じ得ない。それは驚くほどに艶やかなものだった。半ば上気したそれは。
「そうですね。では、リュクルスはもうラケディアの市民ではありません

 ◆

 ゲルギウスが覚醒状態を持続できるようになるまで五日。その後の回復は比較的早かった。
 以前は細かく磨り潰し無理矢理口にふくませていた肉を、自身の意志で噛み飲み下せるようになったのだ。とはいえ、絶食寸前の療養により極限まで弱った青年の身体は、そう簡単に盛時のものとはならない。立ち上がるにも一苦労の彼にはまだ介助が必要であった。

 療養の期間、二人の男は断続的な会話をもった。リュクルスが望んだわけではない。ゲルギウスが欲したのである。
 巨躯の青年は改めて名乗りを上げた。
「ラケディア、麗しの都の市民ガイオンの子ゲルギウス」と。
 口上は明らかに市民のそれであり、顔面に刻まれた忌まわしい刺青を意識から外せば〝僚友〟と呼んで差し支えないほどに、彼はラケディアの戦士に似ていた

 生まれてより十八の季節巡り——つまり十八歳のゲルギウスはリュクルスに対して明確な好意を示した。
 市民同士が友情で結ばれることに不思議はない。十歳からともに過ごし、尊敬を勝ち得るだけの「力」を互いに示してきたのだ。ラケディアにおいてその「力」を示せぬ者は市民として存在することが許されない。ゆえに市民であること自体が敬意を得るに相応しい者の証となっている。
 だがゲルギウスは市民ではない。リュクルスは青年のことを知らず、青年もまたリュクルスのことを知らない。にも関わらずゲルギウスはリュクルスに靡いた。
 二歳の差とはいえリュクルスが年上であること、燔祭の遣いを任されて森に赴いたことを聞くと、青年は目に見えて興奮し彼を褒め称えた。
「ではリュクルスけいは、ラケディアの光輝を示す遣いとして! やはりそうだ。私は最初からそうではないかと思っていました。兄がラケディア市民の中でも特に偉大な戦士だと!」
 伸び放題の無精髭に覆われながらも、青年の顔は多分に幼さを残していた。
 なぜ「最初から」偉大と感じたのかとリュクルスが問うと、彼は自身の四肢を指し示し誇らしげに答えた。
「あなたは私のこの巨体を軽々と持ち上げました。汗一つ浮かべずに。そのような人は〝森の者ヒューレン〟達の中には一人たりともいません」
森の者ヒューレン〟。そう口にした後、ゲルギウスは決まり悪そうに太い眉を顰め、台詞を重ねて上書きする。
「つまり……その、私はそれで分かりました。父ガイオンから常に聞かされて育ったのです。ラケディアの市民は皆偉大であり、中でも燔祭の遣いの任は最も光輝ある戦士にのみ与えられる栄誉である、と。リュクルス兄と出会い、やはり父の言葉は真実であったと感じた次第」
 リュクルスの応答は短く、かつ飾りのないものだった。
「それは光栄なことだ」
 彼は誠に善良で憐れみ深い男であった。ゆえに眼前で横たわり自身を見上げる哀れな年少者に対して、あえて事実を告げることはしなかった。きみは市民ではなく、きみの父もまた市民ではない、などとは。魔物とつがい子を為す者などラケディアの市民ではない、などとは。

 さらに心の底に、もう一つ訂正すべき言葉を潜ませたままに。
 燔祭の遣いは光輝ある任だが、それは死出の旅に美名を与えただけにすぎない、という。

 ◆

 回復したゲルギウスが加わったことで夕暮れの食事は俄に活気づいた。
 それまで女達の会話に占有されていた場にゲルギウスとリュクルスが加わったのである。
 青年の加入を喜んだ者は二人いる。正確には一人と一匹。ゲルダと子羊アルカンである。少女は控えめながら笑みを見せるようになった。肉親の存在が何らかの好影響を与えていることは明らかであった。アルカンは単純に「群れ」の拡大を喜んだ。いかに形姿が異なろうと、彼にとってリュクルス達は等しく群の一員である。彼は男達、女達の足下を気ままに回った。

 火を挟んで対面に座る女達をリュクルスはぼんやりと眺めていた。それは野営の初日から今まで不変の構図である。日に日に仲を深め会話が弾む二人の女と、その間で交互に愛想を振りまくアルカン。
 二人の交流が深まることは彼にとって一方で喜ばしく、一方で悩ましいことでもある。マヌ神の審判を仰ぐと言って連れ出したマルガリティアだが、その存在は明らかな重荷としてリュクルスの肩にのしかかっていた。緑壁の只中において女の生を保証する力を彼は持たない。この数日間で得た学びである。
 ならばこのまま気のいい兄妹に預けた方がよい。それが彼女のためになる。しかし残念なことに、気のいい兄妹は魔物である。魔物の間に、いかに隷民とはいえを置き去りにするのは忍びない。今は〝人のような〟素振りを見せる彼らだが、いつ何時本性を現し、野生の小動物以上のものを食したいと願うか分からないのだから。

 ——卑怯なリュクルス! 重荷を投げ出す! 臆病者リュクルス!
 そう「声」は暴く。

 つまるところ、彼は全てを終わりにしたかった。
 麗しの都を出て何日が経ったか、彼はもう数えることさえ止めていた。
 これまでのところ旅路は悲惨なものだ。村では奇妙な隷民の女を拾い、街では僚友と事を構え、緑壁に到っては魔物とともに暮らしている。さらに酷いことに、年端も行かぬ魔物の娘に餌を恵まれてさえいる。かつて「間引きの仕事」で淡々と、しかし断固として処理したのと同じ年頃の魔物に。
 さらに、朧気ながら未来図までも見せつけられた。光輝ある市民の誇りを失った者が辿る末路がどのようなものであるかを。つまり、それこそはこの兄妹の存在である。彼らの父ダイオンは市民の矜持を捨て魔物の女とつがった。そして子をこさえた。忌まわしい子を。
 死は必ず訪れる。ならばせめて猛きマヌの子として讃えられ、ラケディアの市民としてその瞬間を迎えたいと彼は望んだ。誰に看取られずとも。

「リュクルス兄? どうです、我が妹は」
 ゲルギウスの太い声がリュクルスを思考の沼から引きずり出した。
「どう、とは?」
 質問の意図を汲めない彼は、しかし至って平静に聞き返す。
「つまり——ゲルダを気に入りましたか?」
 再びの問いは躊躇い混じりの細いものだが、川辺の夕に存外よく響いた。火の向こう、女達の会話が止まる。
「きみの妹は勇敢だ。そして狩人として立派だ」
「それはよかった! あれはよく働く女です。〝言葉〟も拙く幼いが、これから仕込めばいい」
「正しい言葉」をしゃべる兄に比して妹のそれはぎこちない。歳の差から来るものか与えられた教育の違いか、リュクルスには知るよしもない。そしてさほど興味もなかった。
「もう少し育てば身体も大きく、よく肥えたものになるでしょう。よい子を孕みます」
 我がことのように胸を張り、誇らしげに述べるゲルギウスの姿を彼は横目に捉えた。

 ——妹自慢は余所でやってくれ。
 心内のつぶやきを抑え頷きを返すが、そんな〝兄〟の首肯はゲルギウスを勇気づけた。不幸にも。

「リュクルス兄は私を助けてくださった。ラケディアの〝僚友〟として。しかし不幸なことに私には、今すぐにお返しできる適当な物がありません」
「——助けに見返りなど求めない」
 ゲルギウスがラケディア市民であったならば、リュクルスは〝僚友〟として朗々と笑顔で応えただろう。しかし男は市民ではない。魔物である。ゆえに言葉は重い。
 さらに皮肉なことに、彼は兄妹を助けなどしなかった。むしろ助けられたのだ。家畜のように餌を与えられて。
「もちろん分かっています。でも、私はどうにもこの真心を伝えたいのです。——リュクルス兄、そこでどうです、あれは? 私が差し上げられるただ一つのです」
 ゲルギウスの表情には誠実があり真心があった。それは麗しの都において善しとされる市民の姿勢である。
あれとは、きみの妹のことか?」
「はい!」
 男の振る舞いはまことにラケディアであった。にもかかわらず、致命的にラケディアのそれとは異なるものである。
「ガイオンの子ゲルギウス、聞け。——麗しの都の市民は皆等しい。女を物としない。何人なんびとも、人を人に与える権利も受け取る権利も持たない」
 ラケディアにおいて男女は同等の存在である。
 男は戦い都市を守る。女は子を産み都市を保つ。両性はラケディアの維持という唯一究極の目的において等しく価値を持ち、目的に適わぬ者は性の別なく無価値である。ゆえにゲルギウスの言は、彼が忌むべき魔物の子であることをリュクルスに強く印象づけた。人に擬態した魔物である、と。

 ——市民の血が混じったとて、やはり獣の裔であることに変わりはない。これがつまり魔物だ。〝人〟を物のように扱う。女を。物事の理非も分からず。

 普段リュクルスの表情は丁寧に抑制されている。ラケディアにおいて負の感情を表出することは強さの欠如と見なされるからだ。例えば侮蔑や憤りのごときものを僚友に対して示すべきではない。それは市民の連帯を破壊し、ひいては都市を危うくする悪意である。
 だが今、対する相手は魔物。僚友ではない。よって彼の口元が微かに歪んだとしても、それは〝共同体〟によって施された教育の敗北ではない。相手は魔物なのだから。

 ◆

「お優しいラケディアの戦士様。一つお聞きしても構いませんか?」
 マルガリティアは男の些細な変化を瞬時に嗅ぎつける。少女は常に彼を見ていた。極めて強い関心を持って。旅の始まりから生まれた興味は、時を経て執着に等しいものとなっていた。
「なんだ?」
「ラケディアは、それはそれは、とても素晴らしい都市です。市民はみんな等しく、わたしたち女も価値を持つ、夢のような。——そんなラケディアの一員に、わたしもなれるでしょうか?」

 リュクルスは答えなかった。否、答えられなかった。果断と即決こそが市民の美徳であるにも関わらず。