タテガキ

第二章 旅

8岐路

2026/04/16 11:16 公開

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 いかに初夏とはいえ、夜も深まれば肌寒い。
 夕暮れ時には暑苦しくすら思われた細やかな焚火の熱が、今、リュクルスの身体には心地よく感じられる。

 街路を脇に逸れて、岩肌の剥き出しになった荒れ地を見出すと、彼はそこを野宿の地と定めた。平地の草原ゆえに見晴らしは悪くない。鍛え上げられた男の視野は、月のもたらす弱光の元さえあれば、接近する異物を大まかに判別することができる。
 道中拾い集めた木々は豊富とはいいがたい。一晩火を点し続けるには不足。だが、それは大した問題ではなかった。寝ずの番は身体に染みこんだ日常的な行為の一つである。夕時に少し仮眠を取れば、夜通しの警戒に耐えることができる。
 実際のところ、彼は睡眠という行為から縁遠い存在となりつつあった。耳に響く「声」は止むことがない。彼は常に語りかけられている

 愛用の長槍を抱き込み、地にあぐらをかく。火を挟み向かいで丸くなる少女——アポリアの姿を、彼は眺めた。
 幸いなことに、女が寒さを感じることはない。極上の熱源としての自身の強みを熟知した、まさに〝執政官〟に相応しい生き物——子羊アルカンをその細腕の内に抱き込んでいるのだから。
 アルカンは寛大な男だ。身体を覆う立派な巻き毛の外套——自前のそれを惜しげもなく女に貸してやる。そして度胸も据わってもいる。未知の、自身の数倍の体格を誇る生き物にしっかりと捕らえられながら、怯えひとつ見せずに眠りこけている。

 ——彼は勇敢だ。
 リュクルスは心内零す。
 炎は野生動物の接近を抑制する。それを理解し、かつ幾度も経験を重ねていながら、彼は常に怯えていた。不意の襲撃と、なによりも内なる「声」に。
 怯えながらも思考は止まない。
 青年の魂は三つに引き裂かれている。周囲を観察する意識と過去を振り返る意識。そして「声」を受け止める意識。思考の矢が内に外に飛び交う。この特異な状態を彼が正気のうちに制御しうるという事実は、ラケディアの教育が到達した極地の一つである。

 ◆

 先刻日没前、近場で飽きもせず草を食むアルカンを尻目に、リュクルスとアポリアはささやかな食事をとった。原料すら定かではない干し肉と、雑穀を焼き水分を飛ばした薄灰のはイリスの村から持ち出したものだ。石と変わらぬ硬度を誇るそれら二つの塊を、二人は水でふやかしてなんとか口に押し込んだ。
 数日前、自身の壮行会で振る舞われた肉汁したたる豚の切れ端。酒で温められた〝共同食事サンポジーム〟の秩序だった喜悦。それら全てを彼は思い出した。それは彼が失ったものだった。
 アポリアにもまた、失ったものがあるのだろう。目前でを小さくかじる女を見ながらリュクルスは曖昧な推測を続けた。
「おまえたちは、どうも普通の隷民と違うな」
 美食を好む堕落都市の民からすれば拷問とすら感じられる食事だが、それは紛れもなく食事であった。食事は人の気を緩ませる。
「そうでしょうか……。私たちは他の人々をほとんど知りません」
「隷民はおまえのように話さない。あれは意志を持たない。定められたことを行うだけの土くれだ。言葉を解する家畜に近い。だがおまえは違う」
 夕日に照らされた女の笑みは歳相応に幼く、歳相応の酷薄さを備えていた。
「戦士様は土くれではないのですか? 家畜では?」
「おれは違う」
「でも、定められたラケディアの法のために生きるのでしょう? 村においでになった戦士様はそのように叫んでいらっしゃいましたけど」
 リュクルスは自身の推測に確信を深めた。隷民がこのような口を利くことはありえない。
「〝不遜な隷民は懲罰を受ける! それが共同体コムネスの法だ!〟と」
 嘲り、あるいは挑発。彼女が為そうとするそれは人間——市民——の行為だ。隷民のそれではない。
「猛きマヌの都の市民は自己の意思において服従する。力によって強いられるのではない」
「——汝、驕慢を恐れよ。それは第一の罪である」
 先ほどまで囓ったを膝に置くと、アポリアは姿勢を正し、目を閉じて呟いた。
「〝名もなき御方〟の教えか。おれはその御方を存じ上げないが、無礼は働かぬ。受け入れよう」
 隷民は神々を知らない。存在の知識はあれど「知覚」しえない。ラケディアの民が都市の威容と〝不磨の法〟によって常に実感する神々の偉大さを。
 だが、アポリアは明らかにそれを知覚している。彼女だけなのか、それともイリスの民全てがそうなのか。もし後者であれば、イリスの民は元はラケディアや他の「堕落都市」と同様、誇り高き神々の裔であり、自由民であったことになる。何らかの不幸に見舞われ、故地を逐われた者達ということに。
 そこまで考えたとき、リュクルスの心内に若干のさざ波が生じた。もしイリスの民がかつて別たれた〝同胞〟の一房であったならば、村に対して為された〝処理〟と彼が為した〝処理〟は礼を失するものとなるだろう。〝名もなき御方〟の民を礼なく殺害したのだ。それは〝名もなき御方〟を怒らせるに値する行為だ。
 ラケディア、麗しの都のために、彼はマヌ神に祈った。御名をペルピネのみならず世界に知られた偉大なるマヌが〝名もなき御方〟に取りなしてくださることを。彼らの無知を釈明してくださることを。

 だが、女の返答はリュクルスの思考を断固として断ち切った。
「戦士様。神は御独りです。〝あの方〟の他に神はいません」
「——なに?」
 共同体はその名の通り、市民が一体として在ることを要求する。そこに上下はない。ゆえに彼はこれまで、他者からの侮り——見下されることから無縁であった。自身もまた同胞を見下すことはなかった。手と足が、あるいは目と鼻が上下を争うなどあろうはずがない。それらは全て一個の身体を構成する要素である。
 だが今、生きた二十の年月において初めて、彼は軽侮されていた。愚か者、と。
「戦士様方はその手でイリスの民を易々と斬られました。赤い槍で突かれました。でも、あなた方は一番重要な〝理〟を知りません。イリスの民は狼に簡単に食べられてしまいます。ですが、狼よりも賢いのは私たちです。狼は〝理〟を知らず、私たちは知っています」
 昨晩のごとき猛烈な怒りは湧いてこなかった。目の前で得意げに語る少女の思惑が見抜けてしまえばそれまでだ。種は明かされている。意図が挑発にあると分かればかえって冷静になる。
「なるほど。おまえはそう考えると」

 ——つまるところ負け惜しみだ。
 リュクルスは無感動に心内呟く。かつての誇り高き自由民はその誇りを忘れ、隷民に堕し、空しい繰り言を後生大事に唱えている。無残な姿に憐れみすら覚えた。
「では、唯一の神であるというその〝名もなき御方〟は、なぜおまえたちに都市を作らせない? ラケディア、麗しの我らが都のような。なぜ隷民に堕している?」
「戦士様。戦士様が〝いる〟と思い込まれているマヌ神は、人の身がそのお考えを理解できる方なのですか? それではまるで力を持ったただの人ですね」
「逆に問うが、御心を分からなければ、どうやって崇める? マヌ神は羊の香気を好まれる。だから我々は御心に叶うよう贄に捧げる。その結果、マヌ神は我らの〝共同体〟を愛される」
「戦士様方は、見返りを求めて神と〝取引〟されるのですか?」
 女の声にははっきりと憐れみの色が混じった。襤褸の麻切れを纏っただけの娘が、その名を知られた偉丈夫に対して。
「分かった。では、おまえたちは〝名もなき御方〟に何をどのように望む? まさか祈願の仕方すら分からないというほどではないだろう」
 奇妙なことに、リュクルスはこのときある種の既視感を覚えていた。ある意外な場面を脳裏に浮かべていた。それは隊列の仲間と為す共同食事サンポジームである。ラケディアの市民達はそこで様々なことを語り合う。「善とはなにか」「悪とは何か」「美とはなにか」「勇気とはなにか」。定められた題を多面的に検証し、皆が納得出来る共通の見解に至る。ラケディアにおいて許された唯一の快である。その共同食事に近しい感覚を、ふと彼は覚えた。隷民の女を前にして。奇妙なことに。
「わたしたちは何も望みません」
「ならばどのように生きる? 神の助力がなければ人は不幸に陥るのみだ。故地を逐われ、ペルピネの地で家畜のように生きる不幸に」
 打てば響く少女には珍しく一瞬の沈黙があった。瞬き三つほど経て、言葉は放たれた。

「マヌ神に祈るラケディアの戦士様。——では、戦士様は幸福ですか? 今」

 ◆

「ねぇアルカン、どちらに行きましょうか?」
 子羊アルカンの首元を少し乱暴に撫でながらアポリアが呟く。

 夜が明けて、再び旅が始まる。
 リュクルスにとって道は二つだ。街道を進み〝緑壁〟に間近の都市タンタリオンに向かうか、あるいは道を外れ名もなき隷民の村を探すか。
 旅の目的は明白である。〝緑壁〟を越えケイデーの山頂に到り、燔祭を執り行うことだ。不可能事と分かりながら、それは断固たる目的であった。
 よって問題は女の処遇にある。置き去りにしようとも女は着いてくるだろう。貧弱な身体に反して彼女は意外な体力を持つ。
 ここで「処理」することもできる。だが、それは女の目論見成就に等しい。アポリアは恐怖に震えつつも、結局は堂々と死を受け入れるだろう。それが〝物語〟であると言いながら。そして嘲笑いながら。——剣を手に威張るこの男は隷民の小娘一人屈服させられない無能者だ、と。ラケディアの戦士など所詮その程度だ、と。
 街で売り払うことも検討した。しかし、その体つきを見る限り、恐らく値が付かない。顔の造形が多少よかろうとも、力仕事に向かず子を為せそうにもない貧相な女を欲する者などいない。
 では同族が暮らす村に預けようと考えたが、それも当てが外れた。彼女の話を聞く限り、イリスの民はこの近辺の隷民と同種ではない。流れ者の群れである。

 リュクルスの思案を見抜いたアポリアはまことに適切な行動に出た。
導き手アルカン〟に尋ねたのだ。

「羊に委ねるのか……」
「はい。この子アルカンは立派に務めを果たしてくれます」
 大事を前に動物の行動から神意を読み取る行いはさほど珍しいものではない。ラケディアでは戦の前、王がマヌ神殿の前で鳥を放し、その飛び方を観察し吉凶を占う。
「〝名もなき御方〟の御意志は羊に宿るということか」
「いいえ。決して」
 彼は昨晩の問答を思い返し、兜の奥の眉を軽く引き上げた。アポリアは常にこの調子だ。
 肩まで覆う少女の金髪は梳られず乱れながら、束ねられた陽光のごとく無秩序に光る。そして羊の毛をも照らす。
「ならば何の意味がある」
「わたしは導き手の〝物語〟を尋ねます」
「〝物語〟とやらは動物にもあるのだな」
 リュクルスの冷笑じみた言葉を受けて、アポリアはおもむろに立ち上がり振り返る。
「もちろんです。〝物語〟にはこの世の始まりから終わり、果てから果てまで、その全部が描かれています。——逃れるものは塵芥すらない、と」
「おまえの言うことは結局……それはつまり、〝名もなき御方〟の御意志が宿ったと言うのと同じだろう」
「いいえ。——アルカンの〝物語〟はアルカンのものです。導き手の〝物語〟を受け入れるどうかはわたしたちの〝物語〟です」

 リュクルスはもはや答えなかった。

執政官アルカン〟が歩き出したのだ。
 ラケディアの〝隊列〟はその命に従い、進まねばならない。

 ◆

 緑壁とペルピネの平原を隔てる境界に打ち立てられた都市タンタリオンは、ラケディアやその他堕落都市と同様、市民の自治によって成り立つ「都市」である。
 遙か昔、神話に等しいほどの昔、まだ〝不磨の法〟が確立する前、混乱を極めたラケディア市内の内乱で敗れた者達が南に逃れ創建したとされるその都市は、百五十年ほど前に征服され、ラケディアの従属市として傘下に収まった。
 タンタリオン市民は元を辿ればラケディアの民である。土着の部族ではない。ゆえに彼らは幾ばくかの貢納と軍役を課されながらも自治を許される、ラケディア領における二等市民の地位を保持していた。
 都市ラケディアを中心に東西南北に広がるこのような巨大な従属市群こそが、つまるところラケディアという「領域」であった。ラケディアの法はラケディア市に正当に住まう者達を「市民」、従属市の正当な住民を「従民」、そして平野に点在する村落に住まう者達を「隷民」と区別する。
 それは絶対の区分であった。隷民は従民と市民に、従民は市民に服従する義務を負う。市民は常に従民と隷民を支配した。裏を返せば彼らの存在を常に脅威と見なした。よってラケディアの戦士はその威光を定期的に知らしめた。従民隷民問わず。恐怖をもって。

 他の従属市と比して、タンタリオンはラケディア領域の存続にとって重要な役割を担う存在である。そこは緑壁——魔物の住処と人の領域を隔てる最前線の拠点である。ラケディアはこの都市に二つの〝隊列〟——計六十四名の戦士を滞在させる。〝外の守り〟と称される彼らはタンタリオン周辺の村落にラケディアの威勢を知らしめるとともに、タンタリオンの異変を察知して通報する「報知器」の役割を担った。日に数名がタンタリオンを立ち、数日の後にラケディアは彼らを受け入れる。一日の滞在の後、彼らは戻る。この恒常的な遣いが一週間途絶えた場合、ラケディアは〝大隊列〟を即座にタンタリオンに差し向けることになっていた。何らかの問題——おそらくは反乱——を片付けるために。
 効率的とは言いがたいこの仕組みをラケディアは長く忠実に維持してきた。それは〝不磨の法〟が定めるところであり、副次的な効果も多少は得られたがゆえに。街道の治安維持と周辺村落への威圧こそがそれである。

 ペルピネの都市がもれなく中心部に備える「広場」は、ラケディアにおいてもここタンタリオンにおいても非常に重要な意味を持つ。
 日中市民はここに集い、見知った顔と挨拶を交わし世話話にふける。使役される隷民達は市場に陳列する様々な荷物を運び込む。商人達は市民と商談にいそしむ。つまり公私を問わず人の生活の大部分が展開される場である。

 タンタリオンの城門をくぐったリュクルス一行が目指したのも当然のごとく広場であった。そこで羽振りの良さそうな者を見つけ宿を乞うのだ。ペルピネにおいては、旅の者に対する歓待はその都市で声望を集める市民の務めであった。
 ラケディアの市民として、〝外の守り〟の戦士達が住まう宿舎に向かうことも選択肢として存在したが、彼はそれを選ばなかった。
 自身の身の上がここタンタリオンに伝わっていることは確実であった。市民リュクルスが与えられた聖なる使命のために便宜を尽くすよう、元老会からの指令すら発せられているかもしれない。だが、それがお情けの美名に過ぎないことを察さぬ者はいないだろう。かつて肩を並べた僚友達から憐れみ混じりの気遣いを受けるほどに、青年の心を痛めつけるものはなかった。

「すごい人……」
 横を歩くアポリアの言葉に答えたのは恐らく気晴らしを求めてのゆえだろう。
「緑壁周縁で採れたものを手早く売りさばくのがここだ。従民共がその汚い仕事のために集まってくる」
 広場から溢れた物売りが大道の端にすら出店でみせを構えている。清浄なるラケディア、麗しの都においては決して見ることができない猥雑。人々の往来が立てる土煙のもやがそれをかすませる。
 雑踏の中にあって、リュクルスの装いは一行の快適な歩みを助けた。長槍を手に、丸盾を背負い鉄兜を被った偉丈夫が何者であるか、知らぬ者などいない。ラケディア市民に手を出したのちに何が起こるかも。
「アポリア、羊をしっかり見ていろ。見失うぞ!」
 リュクルスは敢えて周囲に聞かせるように大声で女に告げた。
 二人の前を行く〝導き手アルカン〟はまだ小躯の子羊だが、貧乏な従民にとっては一財産である。それがラケディアの戦士の持ち物と知られなければすぐに盗まれてしまう。ゆえに彼は盗難への備えとして指示を発したのだ。
 彼の言葉はもう一つの予期せぬ効果を生んだ。羊に対するものではない。女——アポリアに対するものである。見るからに粗末な貫頭衣に身を包んだ隷民の少女が誰のものであるか、それを人々に知らしめた。青年の意図とは全く無関係に。
「アルカン! わたしと一緒にいましょう」
 アポリアは素早くを抱き上げるも、見た目に比して意外な重量にしばし歩みを止める。
「おれが持つか?」
「いいえ。アルカンはわたしのことが好きなんです!」

 首を振り羊を両腕で抱きしめる少女の姿に、リュクルスはそれ以上何も言わなかった。

 ◆

「そこな僚友! 御身の名は?」
 お目当ての〝しかるべき人物〟を物色しようと人混みを見渡すリュクルスの背後から、明るい男声が投げかけられた。
 彼はその声に聞き覚えがある。〝少年団〟にいた二つほど年下の……。
「ラケディア、麗しの都の市民、執政官テセウスの子リュクルス」
 向き直り名乗りを上げると、果たしてそこには思い浮かべた通りの青年が立っていた。同じくラケディアの戦士装束をまとうが、自身よりも一回り小柄な体躯。手にした長槍の穂先に括り付けられた赤い布だけが二人の男を見分ける徴となる。赤槍は「外の守り」に就く戦士の証であった。
「やはり! リュクルスけい! ここでお会いできるとは、マヌ神のお導きです!」
「ダイオスか。久しいな」
 ラケディアの子は男女問わず十の年から親元を離れ少年団に加入する。彼らは寝食を共にする中で共同体に相応しい戦士となるべく教育を受ける。成人の監察官の元、子ども達の間でも相互教育がなされる。年長者が年少者と擬似的な兄弟関係を構成し、兄が弟に日常生活の正しい振る舞い方を伝えるのだ。
 目の前で声を弾ませる青年ダイオスこそは、リュクルスが少年団で割り当てられた「弟」であった。

 彼はダイオスを気に入っていた。生真面目なリュクルスと、同様に折り目正しいダイオスは性格的に近しかった。彼は「兄」の立場に恥じぬ振る舞いと実績を「弟」に示した。そして自身の得た技能と経験を惜しみなく伝えた。
 籤で選ばれた相手と一対一で殴り合う〝つがいの鍛錬〟で瀕死の状態に陥った「弟」をつききりで看護したこともある。「弟」の意識が戻った後には、その身体の回復を早めようと自身に割り当てられた肉を全て与えた。一週間にわたって。弟ダイオスの血肉を代償とするのならば、ひもじさは容易に耐えられた。
 優秀な戦士が増えることはラケディアの栄光に資する。自身を真っ直ぐに慕う「弟」をかわいく感じたのも事実である。戦士間の友愛は共同体の結束を強める。
 だからこそ、今の彼にとってダイオスは顔を合わせたい相手ではなかった。

「リュクルスけい、これは天啓ですよ! 我々の〝隊列〟にいらしてください。今夜はともに食事を」
 跳躍と紙一重の大股で歩み寄ってくるその姿に彼は困惑を隠せない。
「それはありがたいが……生憎今は連れの者がいる。そしてラケディアより命ぜられた神聖な責務がある」
「それです! 先日聞きましたが、一体何があったのです? 確かに燔祭の遣いは名誉。とはいえ、それは武功を得た老戦士の……」
「ダイオス! メイオンの子ダイオス。何もない。元老会はおれに栄誉を下さった。おれはケイデー山で贄を捧げラケディアの光輝を示す。マヌ神は喜ばれるだろう」
「それは分かっています! でも、兄さんほどの方を……」
 リュクルスの言葉に含まれた拒絶の色に気づいたダイオスは弱々しい語尾を残す。
 そして兜の中から視線を投げかけた。
 彼らに。

「リュクルス兄、それは?」
 男の一歩後ろで羊を抱きしめた女が、ダイオスの視線の中に捉えられていた。
「成り行きだ。ゼノジア近くの村で拾った。どこかの〝隊列〟が誅した村で」
「ああ、やり残しですか。でもなぜ?」
 なぜ拾い、なぜ同行させているのか。「弟」はそう尋ねている。つまり、なぜ処理してしまわないのか。そう尋ねられている。
 リュクルスは明確な答えを示すことができない。自身も分からぬのだから。
 理解しえぬことには沈黙せねばならない。
「売っても大した金にはなりませんよ。——何に使うのです?」
「……」
「ゼノジア、ですね? それはひょっとしたら……。何日ほど前に?」
「六日か、あるいは七日ほど前だろうか。恐らくだが」
 リュクルスの返答を受けたダイオスは槍を勢いよく掲げた。合点がいったのか、まだ少年の域を出ないラケディアの戦士は上機嫌に語り出した。思い出したのである。
 つまり、彼ら戦士達にとってそれは日常であり、容易に忘却しうる程度のことだった。
「我々かもしれません。まさに! ちょうどラケディアから戻る最中だ。それにしても、やはりリュクルス兄、これは天啓です。マヌ神が我ら兄弟の絆をよみされた! 我々隊列のやり残しけいが引き連れてくださった!」
「何があった?」
「大したことでは。隷民共は我々〝隊列〟を木建の小屋に通したのです。ラケディアの市民がそのような浅知恵を見抜けぬわけがないのに」
 ——なるほど。ダイオスは立派な戦士に育った。兎一匹すら蹴殺せなかった者が。
 気負いなくあっさりと告げる「弟」の風情を眺めながらリュクルスは心内呟いた。
 少年団の「教育」は行為への慣れを与えるところから始まる。鼠、兎と段階を踏むことで子ども達はそれに慣れていく。最終的な目標である人——隷民の殺害に至るまでの助走である。
 リュクルスは覚えている。泣きわめき逡巡を繰り返したあげく、目をきつく閉じて、ついに兎の頭を踏み潰した弟の姿を。

 ◆

「——なぜそれが理由になるのですか? 戦士様」
 後ろに控えていた女が一歩踏み出し、リュクルスの横に並んだ。決然と。
 胸にアルカンを抱きしめて。

「……なに?」
「木造りの小屋はお気に召しませんか?」
 女の声は細い。しかし決して断ち切れぬ強靱さを備えている。リュクルスの脳裏に蘇るのはあの夜だ。燃えさかる村の前で自身を恐れさせた女の姿だ。
「リュクルス兄、これは一体? なんです、これは?」
 隷民の女に詰問されている。衆人環視の広場において、ラケディア、麗しの都の市民が。それはダイオスにとって理解を超える出来事だったのだろう。
「赤い槍の戦士様。わたしが、あなた様にお尋ねしています。——木の小屋はお気に召しませんか?」
 今にも折れそうな両足を開き、地を踏みしめ、今にももげそうな細腕を羊毛に埋めながら、少女は対峙していた。ラケディアの戦士に。微かに震えながら。
 対するダイオスは未だ困惑の体を抜け出せずに、しかし、偉大なるラケディアが彼に教えたとおりに振る舞った。
 断固として、果断に。そうあるべきように。
「我らを木小屋に詰め、火をかけて焼き殺す。そんなところだろう。おまえ達隷民の下らぬ仕掛けを〝共同体〟の光輝ある戦士が見抜けぬなどありえないことだ。その侮辱の罪を隷民共は命で償った!」
 ダイオスの叫びは女に向けたものではない。息を殺して事の成り行きを見守る従民たちへのもの。それは対話ではなかった。ゆえに事は深刻である。
 
 アポリアの答えはダイオスの退路を断った。
「戦士様。わたしたちの村には石造りの家など一つもなかったのです。——光輝ある戦士様」
 
 かくしてダイオスの為すべきことは明確に定められた。
 公衆の面前である。非を認めることは許されない。

 彼我の間合いは長槍に向かない。

 共同体の戦士ダイオスに躊躇はない。
 槍の柄を手放したまさにその掌が、即座に佩剣の柄にかかる。
 深く暗い諸刃が素肌を見せる。陽光が即座にそれを焼く。
 白銀に輝く切っ先は一切の猶予なく、女の顔面に飛びかかった。

 テセウスの子リュクルスは栄えある共同体の戦士である。
 麗しの都ラケディアの市民である。ゆえに彼は、ダイオスの至極まっとうな行為を傍観しなければならない。
 歯向かう者、否、その意図を仄めかした者さえも生かしてはおかない。それはラケディアの安全を脅かす。処理せねばならない。共同体の法はそう教える。彼の理性はそう伝える。

 ——声に従えよ! リュクルス! 定められた者よ!

 彼の右手は空いていた。
 アルカンを女が抱き上げたがゆえに。
 アルカンが彼女を好いたゆえに。
 よって彼の右手は空いていた。

 ダイオス同様、彼もまた躊躇しなかった。
 共同体の戦士は果断であるべきだからだ。

 鞘から躍り出たリュクルスの刃は、すくい上げるように、女の視界の外れから現れて鼻先を掠める。その鼻梁を鉄の味が満たすほどに近く、濃厚に、金属の交わる瞬きがあった。

 それは少女の瞳から一毫のところでなされ、呆気なく終わった。

 かくしてダイオスの刺突は見事に弾かれた。瞬き一つもなし得ぬ間に。
 それは一つの選択であった。



 ◆◆



 タンタリオンの〝宿舎〟は中庭を囲む正方形の石造建築である。各部屋の出入り口は中庭に通ずるのみ。屋敷を出るにもそこを経由する必要がある。街中にあってなお、それはささやかな砦であった。
 二人が案内された部屋の寝台には清潔な藁が敷き詰められている。
 リュクルスは四肢を伸ばし目を閉じる。自身の肌から立つ香油の匂いと、向かいの寝台で身体を丸める少女のそれが、さして広くもない空間に、かすかに漂っていた。
 酷い悪臭を放った子羊アルカンもまた、水で清められ、その毛並みの見事な白を取り戻した。

「戦士様……。ねむいです」
 アルカンを寝台に上げ、その四肢で抱きしめながら、曖昧な声でアポリアが呟く。湯浴みと香油、そしてまともな食事は心身をいともたやすくほぐしてしまう。その上、少女に極上の手触りを献上する従順な羊がいる。彼は首の後ろをなで回す小さな手のひらにじっと耐えている。時折微かに鳴くも、音には芯がない。つまり、身体と精神の弛緩を導くに、かくも優れた環境はない。少女にとっても羊にとっても。
 ただ一人、青年を除いて。
「寝るな」
 リュクルスは一言、静かに答えた。

 彼には女——アポリアが理解できない。
 一族と両親を殺されてなお、その仇の住処で堂々とくつろいでいる。恩讐を知らぬ獣かといえば、
とてもそうには思われない。昼間彼女が示した態度は明らかに怒りと誇りを秘めていた。

 数刻前、広場のただ中で、従民達のただ中でリュクルスは女を守護した。ラケディアの市民、「外の守り」のダイオスから。かつての弟が迷いなく突き出した刃を、彼もまた迷いなく剣ですくい上げ、弾いた。ゆえにアポリアの頭蓋には傷なく、今やまどろみの中に落ちようとする。
 意外な出来事に一瞬の放心を見せるダイオスに彼は述べた。女は自分の物である、と。ケイデーへの道中、身の回りの世話をさせるべく拾ったのだ、と。
 所持品の無事を確かめるていで、彼は少女に目をやった。彼女は彼を見上げ、大ぶりな口を少し歪
めて笑った。
 瞳には感謝も安堵もなかった。嘲弄だけがあった。
 鼠を追い込んでいく猫の無邪気な愉悦。嗜虐の快感とすらも感じられる。あるいは少女の真意は異なったかもしれない。笑みは純粋な感謝を示すものだったかもしれない。だが、リュクルスはそう受け取った。よって彼の中においてそれは真実であった。

 ダイオスはかつての兄の弁明を聞き、すぐに気を許した。兜を外すと昔ながらの細面が露わになる。薄い笑顔には幼い頃の面影が残る。リュクルスもまた自身の頭蓋を覆う鉄の兜を脱ぎ、剣を鞘に収める。そして同じく笑みを見せた。不器用な。
「僕が少し先走ったようですね、リュクルス兄! しかしよい稽古だった! まるで実戦さながら
の」
「いや、おれが君に説明を怠ったのだ。しかし、どれほどに不幸な行き違いに陥ろうと、ラケディ
アの戦士は最後には必ず団結する! そう在るようにマヌ神がお導きくださる」
 彼は調子を合わせ、朗々と答えた。そうしなければならなかった。
 広場において求められることは明らかであった。市民同士が相争う行為ほどに、麗しのラケディアを貶めるものはない。それは白亜の城壁に走る罅となる。隙あらば反逆を画策しているに違いない従民どもに、まさに付け入る隙を与えてしまうからだ。よって共同体の市民は一体であることを示さねばならない。常に。
 ダイオスの腕が自身の肩に回されるのを彼は黙って受け入れた。否、喜んで受け入れた。

 燔祭の遣いという光輝ある使命を帯びて旅をする兄を、ダイオスは自身の隊列宿舎に誘った。一晩の逗留を求めて。旅路にある同胞市民を助けぬなどありえないことだからだ。糧食と身の清め、共同食事、そして快適な寝床。与えられるべきものは全て与えられるべきであった。
 ラケディアの市民にふさわしく、食事は質素なものだが、振る舞われた酒だけは上等であった。澄んだ赤の葡萄酒は純粋な酒精すらまき散らす。柔らかくなるまで丹念に煮込まれた豚肉を頬張りながらも、しかし彼は酒をもって喉を潤すことをしなかった。大仰な素振りで勧める弟に彼は応えた。
「神聖な燔祭の旅路には身を清めねばならない。酔い混じりでマヌ神にお会いするなど不敬極まる
ことだ」
 冗談に擬態しつつも、ある種の重みを添えてリュクルスは誘いを受け流した。
 そして自身の境遇に途方もない徒労を覚える。
 目の前に注がれた、おそらくは上等の葡萄酒は素晴らしい快を喉にもたらすであろう。だが、快は大きな失望を対価とする。一方で、酒を逃す不快は後に喜びへと転化するだろう。どちらを選んでも幸不幸が相殺されてしまう状況は、確かに彼を疲弊させた。
 彼は飲まなかった

 ◆

 深夜、予定通り出立の準備を整え、アポリアとアルコンを伴い中庭に歩み出たリュクルスは、果たしてそこに期待通りのものを見た。そして語りかけた。期待通りの者に。
「メイオンの子ダイオス。君とこうして再び対峙するほどに、喜ばしいことはない」
 ダイオスを中心にして、半円状に〝隊列〟の戦士達が広がっている。それはまさにリュクルスが欲した状況であった。
 ラケディア、麗しの都の市民として、疑わしい者を放置することは許しがたい怠慢である。処置が為される必要がある。少年団で共に過ごした弟が立派なラケディア市民として成長を遂げた姿にリュクルスは喜びを禁じ得ない。頼もしいラケディアの戦士に。
「リュクルスけい! メイオンの子ダイオスは、猛き都の栄えある市民として、あなたに問うべきこ
とがある!」
「従民共の目の前ならばいざしらず、ここにおいては真実を語ろう。他ならぬラケディアの同胞に対して」
 槍を握りしめた掌に薄らと汗が湧き出してくる。
 ラケディアの法は訓練時を除き、市民同士の殺し合いを強く戒めている。それは〝不磨の法〟以前の忌まわしい内戦の記憶が人々に残した教訓であった。
 だが、相手が反逆者であると分かれば話は違う。反逆者は市民ではない。
けいの言葉はおかしいことばかりです! ラケディアの戦士に足手まといの隷民など必要ないはず。
それも光輝ある燔祭の遣いに。なのに……!」
 声には幼い哀願の響きすらあった。リュクルスにも十分理解できる心情だ。ラケディア、麗しの都の民の中に裏切り者を見出すなど、想像すらも忌まわしい。さらによりにもよって、それが兄であるなどと。

 彼は正対するダイオスの一挙手一投足に視線を走らせる。
 ——その手にかかるのも悪くない。ダイオスの手に。
 弟に串刺される自身の姿を幻視して、彼はその情景に限りない共感を覚えた。いずれにせよ自分は死なねばならない。ラケディアに戻ることは叶わない。ならばここで弟にくれてやるべきではないか。〝共同体〟を裏切った者を誅するという名誉を。

 ——逃げ足のリュクルス! 怯えて背を見せる!
 だが一方で「声」は常に彼に教える。その秘めたる望みを。厭いて全てを放り投げようとする心を「声」は適切に暴く。無意識の望みを。ゆえに彼は不本意な行動を取らざるをえない。釈明する、という。

「ダイオス、きみの想像通りだ。この女はおれの物ではない」
「ではなぜです? あなたはラケディア市民に無礼を働いたその隷民を庇いました。つまり……」
 言葉にはしたくない。リュクルスには弟の心境がありありと分かる。それはつまり、反逆であるなどと。
「この女は……神の物だ」
「神の? 隷民が?」
「この女はきみの〝隊列〟が下した懲罰を生き延びた。数日後、おれが村を訪れ、おれもまた、こ
の女を処理しようと考えた。危険な女だ。——だが、それは叶わなかった」
 額を覆う黒い巻き毛の下、ダイオスの目が怪訝そうに細められる。
「叶わないなどと。見たところ、そんな貧相な身体、剣の一閃で終わるはずです。昼間けいが手を出
されなければ、今頃それは死んでいました」
 そのようにならなかった事実こそがまさに神意ではないか。リュクルスは疑っていた。
 ダイオスもリュクルス。ラケディアの戦士が二人、少女を処理しようと意思し、実行した。にもかかわらず彼女は生きている。アルカンを抱いて、彼の隣に佇んでいる。
「だが今、事実この女はここにいる。腐臭を放つ幾多の死体の中で三日生き延び、おれの決然たる刃を逃れ、おれに、ラケディアの市民に保護されている。さらに昼にはきみの刃をかいくぐった。このようなことがありうるだろうか、ダイオス」
「でもそれは、全てあなたが——テセウスの子、石の如きリュクルス。あなたが為したことではな
いですか!」
 問答の最中、リュクルスの心内に、急速に、爆発的に何かが育ちつつあった。それは当初ちっぽけな、取るに足らぬ疑義に過ぎなかったが、いつしか推論となり、今や確信とさえ呼べるほどに強く壮麗なものとなり男の脳内を満たした。
「きみはおれを幼時から知っているな? そうだな、ダイオス」
「ええ、あなたはまさに僕の兄です」
「では、おれを知っているな? おれがラケディアの市民として立派に務めを果たす男であると。おれは戦場で卑劣な態度を示したことはない。日々の〝仕事〟を常に全力で成し遂げてきた。市民として〝共同体〟に全てを捧げてきた。そして今、栄えある燔祭の遣いを任されている。それを知っているな?」
 リュクルスは肩を大きく開き、誇らしげに語り上げた。
 誇張は虚栄であり恥である。しかし事実の主張は為されるべきことだ。堂々と。ラケディアにおいて誇りとは、堂々と語りうることを為し、それを朗々と語りうる状態を指す。
「もちろんです! 石の如きリュクルス。皆があなたを讃えています。誇り高き共同体の市民リュクルスと」
「では決して思うまい? おれが私欲ゆえに、ラケディアへの背信ゆえに何かを為すなどとは。麗しの都を貶める行いをおれが為すと、きみは思うか?」
「いいえ! いいえ! ……ですが!」
「では誰だ? そのようなおれに、この隷民の女を生かせと強いるのは誰だ」
 リュクルスの語気に興奮はない。ただ断固たる重みがあった。
 明白な事実を述べるとき、そこに感情は無用である。事実は人の想いに助けを求めない。説得の必要はない。明らかに正しいのだから。
 リュクルスの意識においては、つまりそれは事実であった。
「まさか……神々のどなたかが守護されているのですか? 猛きマヌ? あるいは、糸紡ぐ女神ア
ポリア……」
 天上に住まう神々は、人の子に神意を授け、地上に事を為される。それはペルピネの大地に生きる人々にとってごく当たり前のこと、常識である。ダイオスにとってもリュクルスにとってもそれは世界の核心となることわりであった。陽が昇り昼が生まれ、陽が沈み夜が支配する。それら世界の仕組
みと同様に、神々は人々を昇らしめ、沈ませる。
 今リュクルスを使役し、少女を守護せしめる神は誰なのか、ダイオスは知りたかった。

「いいえ、戦士様。誰にも!」
 第三の声が対話に割って入る。先刻少女を包んだ眠気はとうに剥がされていた。
「この女は常に否定する。だが、おれにはそうは思われない」
 アポリアの言葉を受け流し、依然彼はダイオスに語りかけた。あるいは自身に向けた言葉であっ
たのかもしれない。
 ——おれはそうは思わない。と。
 そうでなければ理屈が合わない。忠実な市民たる自分がラケディアを裏切るなどと。そんなことはありえないのだから。
「女、おまえを守護なさる神はどなただ?」
 ダイオスは明らかに態度を変えた。たんなる隷民は会話の相手とはなりえないが、尊敬する兄リュクルスをして守護せしめるほどに神が愛でる者となれば話は別だ。
「名などありません。神はただ御独り。戦士様。——〝唯一確かに在るもの〟に名は無用です。名
は、あるものを他から区別するときにのみ、用いられるものですから」
 何かを諳んじるように、極めて滑らかに、少女の口から言葉が流れ出る。〝聖句〟。
「確かに、おまえは神々のどなたかに嘉されているように感じられるが……。にもかかわらず、その方はおまえに名を明かされていないのだな」
「いいえ。戦士様。わたしはあなた方のように偽の神に縋りません」
「偽の神だと?」
 弟の声色が重く移り変わるさまを感じながら、他方リュクルスは思案する。
 ——このような涜神の者を守るために、神々のどなたかがおれを使役される? そんなことがあるだろうか!
 女は一貫してマヌ神の存在を否定する。その途方もない涜神のために命さえ賭ける。彼女の心内において、それは事実だからだ。では、なぜ確信できるのか。リュクルスには理解できない。彼がマヌ神の実在を「分かる」のはラケディアの存在ゆえだ。ペルピネの平原にそびえ立つ白亜の城市と、そこに生きる栄えある市民の存在ゆえに、それら全てを成り立たせるところの存在——マヌを確信する。
 では、女にとっての証はなんなのか。
「おまえの言のあかしはなんだ。それを示せ! おまえが言った御方の存在を、我らに見せてみろ」
 同様の疑問がダイオスの口から発せられたことはリュクルスにとって好ましかった。この時、あるいはラケディアを出たとき既に、彼は自己の正気に自信を持てなくなっていたがゆえに。

 ダイオスの敵意を受けてなおアポリアは怯まない。
 抱えた子羊の背を静かに撫でながら、傲然と立つ。先刻寝台で眠気を得てぐずったと同じ者とは
思えないほどに、その様は堂々たるものだ。
 梳られた金の髪は夜風に靡き、戦士たちが掲げる松明の橙光を悉く跳ね返す。
「戦士様、あなた様の神は、ご自身の存在を感じさせるために人に証を与えるのですか? それではまるでただの人ですね。わたしたちイリスの民は証を示されずとも、神を感じます。証を示さなければ認められない神と、証がなくとも認められる神では、どちらがより偉大な方でしょうか」
 刹那、ダイオスは返答に窮する。
 少女の言葉が稚拙な一節であったならば話は早い。畜生とさして変わらぬ隷民の戯れ言と片付けられる。だが、その言は明らかに境遇と年齢にそぐわぬものだ。つまり、何らかの神意を受けている可能性が高い。
 にもかかわらず、不思議なことに、女は猛きマヌ神の存在すら否定する暴言を平然と吐く。さらに、想像するに恐ろしい涜神を経てなお、こうして生きている。

「ダイオス、ご覧の通りだ。——おれはこの女を連れてケイデーに登り、猛きマヌの神意を伺う。
そこで証が示される。女の言葉が戯れ言であれば、マヌ神は断固たる裁きを下されるだろう」

 ——山へ往け! 山へ往け!
「声」の指し示すところのものが何であるか、リュクルスはようやくここに輪郭を得た。彼は意味を得たのだ。
「声」を聞き、気狂いと化し、ラケディアの疵として放逐された男は、その旅路に一つの意味を見出した。自身を使役するものの正体を見極めること。それこそが生命を捧げる目的となった。
 だが、それはつまるところ「私欲」である。

「戦士様、ラケディアのことはもういいのですか?」
 数日前、野宿の夜に旅の目的を尋ねられた彼は、燔祭の意義を少女に伝えた。彼の生命は共同体のために捧げられる、と。しかし今、彼の旅は不純物で濁りはじめている。

 少女は驚くほどに敏感であった。「建前」に対して。
 彼女は明らかに挑発していた。リュクルスの「装い」を。

「よくはない。——おまえは……ついでだ」
「そうですか。では、リュクルス様の〝物語〟がそう在りますように」
 アポリアの瞳は年に似合わぬ艶やかさを示し、青年の瞳を優しく撫でた。