タテガキ

4それは、蜜酒のような(アナ♂わた)

2026/07/05 13:46 公開

縦書きリーダーで読む

「アナトールさん、何か飲まれます?」
「何かおすすめはありますか? あまり和食には詳しくないもので……」
 完全個室の和食料理店。二人の男女、アナトールと女社長はテーブルを挟んでメニュー表を眺めていた。事前にコースを頼んでいたから、飲み物を決めるだけである。アナトールは目の前の女性が少し悩んでメニューから日本酒の名前を二、三挙げるのを聞き、彼女が最初に挙げたものを頼んだ。彼女も同じものを選ぶ。そのままスマホから注文を済ませると、早々に飲み物と前菜が運ばれてきた。乾杯してそれぞれ前菜に箸をつける。アナトールが器用に箸を使うのを彼女の視線が興味深げに向けられるのを察して彼は笑みを浮かべながら言った。
「練習しました。どこか変な所はありませんか?」
「ああ、つい見てしまってすみません。とても綺麗に使われているものですから、つい」
「よかった。気になっていたお店に誘っておいて、フォークとナイフでは少し格好がつきませんから」
「フォークとナイフでも気になりませんよ」
「いえ」
 一度アナトールは言葉を切り、きれいな笑顔を浮かべ、彼女の顔を見て言った。
「せっかくの、デートですから」
「……デートだなんて、わたしじゃアナトールさんに釣り合いませんよ」
「いいえ。私は貴女が相手だから、これをデートと呼びたいんです」
 真っ直ぐに笑みを向けるアナトールに対し、彼女はそっと視線を逸らしながら日本酒を煽った。なんと返したものか、と彼女は言葉を探しながら、前菜を口に運ぶ。何とか捻り出した声は少しばかり小さい。
「熱烈ですね、フランスの方って」
「お嫌いですか?」
「……反応に、困ります」
 正直なところを彼女は口にした。最初からアナトールは行きたい店について「完全個室で周りを気にせずにお話ができる」ときちんと言って誘っていた。完全個室の飲食店で男女が二人っきり。それをわかっていて、彼女は来ているのだ。
 二人の間に沈黙が下りた所で、ちょうど次の料理が来る。アナトールが「美味しそう」と目を輝かせるのを見て、彼女は息を吐き、自らも箸を伸ばした。
……二人は付き合ってなどいない。彼女はアナトールからの口説き文句には曖昧に濁すばかりで、決定的に関係が変わる答えは返していない。それでも「日本に来てから色々行ってみたい所があって」「一人で行くには少し、作法など失礼がないか不安で……」と困った顔を見せる彼に絆されてしまって、この女社長はなし崩しに彼と何度か二人でお出かけをしていた。それも、今や口実でしかないとお互いにわかっている。アナトールからは折りに触れて口説かれているものの、彼は全く彼女に触ろうともしなかった。──そういう彼だからこそ彼女は徐々に気を許してしまった。どこからどうみてもデートにしか見えないと、自分でも理解しながら彼女は今日も誘いに乗っている。
アナトールは黙って箸を口に運ぶ彼女に呼びかけた。彼女の名前を口にする度、彼は口元が緩むのを実感する。
「前にもお伝えしたことですが、私は貴女と共に在りたいのです」
「それは、その……」
 言葉に窮する彼女を前に、アナトールは口元には笑みを浮かべたままどこまでも真剣な眼差しで彼女を見る。
「結婚の形でなくとも良い。貴女が求めるまで、私からは貴女に触れません。……パートナーとして、貴女が求める姿で在りたい、と思います」
「……あの」
「なんでしょう」
 少し迷った素振りを見せながら、まず彼女はグラスの日本酒を一気に呷った。ごきゅ、と飲み下し、タンッとテーブルの上にグラスを置く。アナトールが目を丸くするのを見て、彼女はちょっと笑ってみせた。それでも声は偽ることができず、彼女は知らず知らず声を震わせながら言葉を唇に乗せる。
「それ、わたしにとってどこまでも都合がよすぎて、信じられません。アナトールさんにメリットないですよね?」
「ああ、なるほど」
「お金でもなく、体でもなく、では貴方は何をわたしに求めているんですか? わからない。なぜ、こんなに良くしてくれるのかもわからないだらけです。わたしは貴方になにも返せない。仕事だって、結局何も繋げられなかった」
 一気にまくし立てた後、彼女は深くため息をついた。対してアナトールはどこまでも、彼女から視線をそらしてくれなかった。美しい肉食獣のような男だ、と彼女は心の中でそっと呟く。最初は彼の顔を見れていたものの、段々と視線は下がり、テーブルの上の料理を眺めるばかりだった。誤魔化すように料理に箸を伸ばす。
 アナトールは顎に手をやり、少し考える素振りを見せ、黙々と食べる彼女に向かって言った。
「私は、貴女が好きです」
 ぴた、と彼女の箸が止まる。気にせずにアナトールは続けた。
「私が貴女に求めることは……そうですね、強いて言うなら『いつまでも隣にいて欲しい』です」
「……それだけ?」
「それだけです」
 信じられない、と目を見開く彼女に対し、アナトールはニコッともう一度きれいな笑みを浮かべてみせる。
「貴女に一番近い男は、私であってほしい。そして貴女に求められる時が来るならば……私は何でもして差し上げたい、と思います」
 アナトールの甘く痺れるような声に、目の前の彼女はそっと視線を逸らした。「自分」を奪われる事に恐怖を抱く女にとって、どこまでも都合の良い、だからこそ罠のようにも聞こえる言葉だ。罠のように聞こえるのに、どこまでもまっすぐに見つめてくる鳶色の瞳は、騙してやろうなんて意図を全く感じない。……狂信に似た恋だと、彼女は酷く失礼なことを考えた。頬がさっきからずっと熱い。酒のせいだと、彼女は頭を振った。
 何とか絞り出した言葉は、酷く情けなく震えていた。
「……考えさせて、ください」
「ありがとうございます」
 アナトールはグラスの日本酒を飲みながら、話題を変えようと「次の料理、何でしたっけね」と言う彼女にニコ、ともう一度笑った。
 ちょうど、コースのメイン料理が出てくる。彼女が「わ、おいしそうですよ」といつも通りを装って言うのに合わせて「そうですね」と相槌を叩きながら、アナトールは箸を動かした。
 食べながらアナトールはふと、前世の、アナリースの結婚式の日を思い出す。陛下に触れられることに、他人の体温に酷く緊張していたこと。そして後日の、彼に初めて触れられた夜のことを。それがアナリースに与えられた勤めであり、役目であったから、そしてあの人だったから、「私」は耐えられたのだと理解している。でもいまは勤めでもなく、まだ恋人ではない彼女に対して、アナトールはただただ彼女のことが欲しかった。彼女の意思が。強制力もなく、自由意志を持つ個人として、彼女がアナトールを欲しがってくれやしないかと、心の底から願っている。
 優しく、柔らかく、暖かく、前世の自分が「彼」からもらった幸福を思い出す。アナリースにとって異性の愛し方とは、相手を個人として尊重し、言葉を交わし、求めるものを分け与えることだった。
だから、アナトールも同じように愛そうと思った。他の誰にも渡したくない、彼女の心が欲しくて欲しくて堪らない、とみっともなく叫ぶ子供のような心を押し隠して。
「アナトールさんは、何か飲み物頼みます?」
「ああ、では同じものを」
 目の前で顔を真赤にしながら日本酒のおかわりを頼んでいる彼女を見て、アナトールは目を細めるばかりだった。

(おわり)