第1話 邂逅/再会
2026/06/22 13:01 公開
東京メトロ銀座駅から地上に這い出し、深く息を吐く。
直通の地下通路を使いたかったが、平日にもかかわらず、今日に限って目指す方向は観光客で混み合っていた。交差点で足止めされることや階の移動を考慮しても、一度外に出た方が早いと考えてのことだったが、今になって自信がなくなってくる。
余裕のある時間設定にしたつもりだったが、演習授業が想定外に長引いてしまい、大学を出るのがかなり遅くなった。この分だと着くのは開演時間ぎりぎりになるだろう。
幾分早足で、目的地に向け歩き出す。
銀座は地方出身の一介の大学生には少しばかり敷居が高い街だ。それでも定期的に訪ねているのは、とある商業施設の地下にある能楽堂のためだった。
今日かかるのは卒論で扱う予定の曲のひとつ。知名度が高い曲とは言えず、上演回数があまり多くない。実際に観る機会は貴重だ。せっかく脇正面の学生席ではなく、奮発して正面の席を取ったのだから、遅刻することだけは避けたかった。
だが、こういうときほど嫌な予感は当たるもので、目的地であるビルを目の前にして信号が赤に変わる。
うん、まあ、そんな気はしてたよ……と内心で嘆きながら足を止めた。残念ながらこの種の小さな不運とは、昔からの長い付き合いだ。いなし方ややり過ごす方法もそれなりに詳しい。
現に今も、目当てのショッピングモールのすぐそばまで来た以上、なんとかぎりぎり間に合いそうではある。焦って事故にでも遭っては元も子もない。
そう考えながら周囲を見回したのは、気持ちを落ち着けるため以上の目的があったわけではなかった。だが、車道を隔てた右側――かなりの距離があるにもかかわらず、その人の姿は鮮やかに目に飛び込んできた。まるでずっと探していた人のように。
現実離れして見えるほど優美な立ち姿だった。
離れていてさえ分かる、完璧なバランスの横顔には一切の表情がない。人形めいて端正な顔立ちを、長い艶やかなダークブラウンの髪が縁取る。おそらくは欧米系とおぼしい、しかしそれを差し引いても女性にしては長身の、すらりと無駄がない身体を包むシンプルな濃紺のワンピース。すんなりと優雅に伸びた手足は、一切の力みがないのに少しも不安定さを感じさせない。静謐さと力強さが矛盾無く同居する、まるで猫科の猛獣のような姿だった。
華やかな人や物には事欠かない銀座にあってさえ、その存在感は圧倒的だった。現に、行き交う人々がひそかに――あるいはあからさまに視線を向けている。そうした一切の視線や関心を、当たり前のように受け流して『彼女』はそこにいた。打ちのめされるような威厳と――何故か同時に、泣きたいような寂しさを覚え、目が離せなくなる。
ふと、何かに気を取られたように、『彼女』の視線が動いた。ゆっくりとこちらに向けられた目が、自分の上でぴたりと止まる。曖昧な何かを思い出そうとするかのように、静かに『彼女』が首を傾げた。
そのとき、何故そんなことをしたのか、自分でもよくわからない。
左手をそっと持ち上げ、肩にかけた鞄の陰になるような目立たない位置で、小さく振った。
まるで友達にするように。
小学生のころ、授業中に教師の目を盗んで、友達と合図を送り合ったときのように。
はっと『彼女』が目を見開く。おかしな人間と思われただろうか、と動揺したとき――人形のように整った面差しに、さっと光が差すように笑顔が広がった。
それは劇的な変化だった。たのしい。うれしい。しあわせ。言葉がなくても、誰が見ても明らかな陽性の感情。何も憚ることのない、まるで小さな子どものような、開けっぴろげの笑み。
『彼女』が右手を挙げ、こちらに大きく振り返す。周囲の目線など構いもせず。それこそ小さな子どもが、別れ際に友達にするように。さよなら。またね。また明日。――また、遊ぼうね――。
不意に自分を押し流すように、周囲で人の波が動き始める。
驚いて振り向けば、進行方向の信号が青に変わったところだった。
夢から覚めたような気持ちで、のろのろと、押しだされるように歩き出す。
名残惜しく振り返っても、『彼女』の姿はすでに人波に埋もれて見えなかった。
「――アナ?」
待ち合わせ場所に現れた友人に、知子は驚いて駆け寄った。慌てて片手を取る。
「大丈夫? 何かあったんですか?」
「はい――いいえ、はい、知子。私は大丈夫です」
目元を子どものようにごしごし擦りながら、アナリースは笑う。
きっとアイメイクが流れてひどいことになっているだろう。でも今はそうするのがふさわしい気がした――遠い昔、ほんとうに昔の、子ども時代を思い出した今だけは。
涙を止められないまま、それでも誇らしく、笑顔でアナリースは告げた。
「お友達に会いました。
――ずっと昔に別れてしまった――子どもの頃の、大好きなお友達」