第二章 旅
第20話 語ること
2026/04/28 03:03 公開
青年の、胡座をかいた膝の中に金の毛並みの女が一人。金の毛並みの女の横に、白の毛並みの羊が一匹。
夏とはいえ夜半から明け方にかけて大気は冷える。しかし一対の男女と一匹の獣は見事に乗り切った。広場の中央で寄り集まった三つの身体は、それ自体が一個の生物である。頭と手足、そして心を持つ。
リュクルスは槍と剣を手元に置きながら極浅い睡眠をとった。男の胴を抱きしめ眠るマルガリティアが時折身をよじる。彼はその度に覚醒し、確認し、再び茫洋たる休息の世界に立ち戻る。
何度繰り返したことだろうか。彼は器用にも、律儀にも、女の動きに反応した。青年の分厚い四肢の中に収まった小さな生き物に。
旭日の気配は半ば音となって現れる。陽光は実体である。それは「集い」を取り囲む木々の枝葉を揺らした。
思考が花開く。目覚めた以上、昨夜目を逸らした事実に彼は向き合わなければならなかった。
——これほどに苦い朝があるだろうか。
発狂しかねぬほどの禁忌に触れ、敵前逃亡——つまり死への逃避という極度の醜態をさらし、取るに足らぬと思われた少女に鼓舞されてなお、彼の意識から迷いが抜け落ちることはなかった。何かを諦めるのは想像以上に難しい。
自己憐憫と大仰な悲嘆に塗りつぶされながらも、青年の意識は背後に何者かの存在を感知する。的確に。自身の胸に顔を埋めたマルガリティア。その後頭部に置いていた、節くれ立った左の手を地に伸ばし、剣の鞘を握りしめる。
「リュクルス。マルガリティ」
舌足らずな女声から対象の正体を理解してなお、彼は剣を手放さなかった。
◆
「きみは早起きだな。常のように」
「リュクルスの方がいつも早い。いつも起きている」
ラケディア市民の父と森の民の母を持つ少女は、手負いの獣じみた空気を纏う青年を刺激せぬよう大回りに距離を取る。そしてゆっくりと、溶け合った三体の生き物の眼前に回り込んだ。
彼女もまた、男の心内に発した強烈な波乱と同様のものを感じながら昨夜眠りについた。
それは不安であり、恐れである。
数週間の協働を経て、兄妹はこのラケディア市民とそれなりに距離を縮めていた。少女にとってリュクルスは複雑な感情を想起せしめる存在であった。口数少なく感情の起伏に乏しい、何を考えているか分からない青年。圧倒的な戦力と明確な意思を持ちながら、どこか地に足のつかぬ不安定が見える。自分たち森の民に対して明らかな侮りを見せるが、それが真心からのものとも思われない。身の丈に合わぬ親の服を着せられた子どものように、どこかしらお仕着せめいた風情であった。
彼女の最も身近にある若い男——兄ゲルギウスは善くも悪くも裏表のない性格をしている。年少のゲルダから見てさえ、その単純さは明らかだった。一方リュクルスは表面上兄よりも明瞭明白な態度を示しつつ、その内部は杳としてうかがい知れない。
しかし、何はともあれ彼らは共に過ごした。寝食を共にした。肩を並べて戦った。自らの〝集い〟を失った彼女にとって、いかに気に入らないところはあれど、彼らは一つの新たな〝集い〟であった。だからこそ〝隊列〟の主、〝集い〟の頭たるリュクルスが昨夜示した態度は、少女の心を強く締め付けた。青年の栗色の瞳は雄弁に物語った。
それは得体の知れぬ獣を眺める目だった。
「きみの兄はもう起きているか?」
「まだ。ゲルギウスはいつも起きるのが遅い」
「必要がなければ早起きなどしなくてもいい。よい眠りは並外れた幸福をもたらす」
朝の一時、彼の声は少々掠れが残るものの、いつもと変わらぬ平坦な調子を保っていた。ゆえにゲルダを驚かせたのは口調ではない。声質でもない。その内容である。普段のリュクルスであれば、ラケディアの戦士として常に戦の準備を、とでも言い捨てたことだろう。だがこの時、少女の苛立ちを惹起する〝ラケディア〟の語は発せられなかった。
「マルガリティもよく眠っている」
「ああ。この女は肝が太い。いつ何時も動じない。得がたい女だ」
「リュクルスが側にいるから」
金髪の女が青年に対してある種の執着心を抱いていることは明らかだった。少女二人の会話の中で、マルガリティアは殊更に男の理解者を気取った。仕草の些細な変化や声色の浮沈を捉えては意味するところを得意げに解説してみせる。ゲルダはその解釈の正誤を知るよしも無い。ただ、この異郷の友人がリュクルスに注ぎ込む熱量だけははっきりと分かった。
「おれが?」
「そう。リュクルスはマルガリティの力。ゲルダが森で生きる力を持つように、マルガリティはリュクルスを持つ」
癖のついた黒髪をかき上げて彼女は答える。ゲルダにとって、マルガリティアという女は単体では価値を持たない存在であった。〝狼の民〟の女は食糧を手に入れる知恵を持たず、戦う力を持たない。森に独り放り出されれば、三日としないうちに骸と化すだろう。
しかし彼女はリュクルスを連れていた。兄妹はおろか、さらに数名を相手取ってさえ勝利を得るであろう生粋の戦士を。森の民の女にとって力とはまさにそのような形態のものだった。
「おれはマルガリティアの剣というわけか。面白い発想だ」
リュクルスは少女の言葉を反芻し、興味深げに呟いた。
その仕草には、ゲルダが青年の中に認める数少ない美点の一つがはっきりと示されていた。その持てる力を私のために振るわないという。
刃傷で弱ったゲルギウスに止めを刺し、妹を略取するなどわけのないことであるにもかかわらず、出会って数日の彼はそのような素振りを一切見せなかった。無為に過ごすことを恥じて、自ら兄の看病を申出さえした。
戦いの場面を除けば他者に高圧的な命令を下すこともない。彼は些細な不機嫌すら表さない。ラケディアを侮蔑されたと感じた場合を除いて。
この時も、自身を「道具」と言われてなお怒りを見せなかった。それは堂々たる戦士の姿である。
「悪い意味ではない。強い男を逃さないのが強い女の資格」
「そのようなものか。おれが考える強さとは異なるが、それがきみたちの常識ならば尊重しよう。——だが、受け入れられないこともある」
ゲルダの瞳は男のそれに絡め取られていた。視線を外せば身が危うい。決してあり得ぬことと分かりながらも恐れてしまうほどに、青年の眼光は重かった。
「何のことかは分かる。ゲルダにも。……大体」
「おれはきみたちと話がしたい。きみと、ゲルギウスと」
かくして再び少女は驚きを味わった。リュクルスは言わなかった。汚らわしい〝魔物〟の習わしをすぐに止めろ、などとは。代わりにこう言った。話がしたい、と。
「……もちろん。ゲルギウスを連れてくる」
「いや、寝かせておけ。空が完全に白んだ頃に、おれたちが小屋に出向く」
ゲルダの首肯を見届けて青年は剣を手放した。そして、自身の胸を枕に眠るマルガリティアの後頭部に再び手のひらを添えた。少女は一時微かに身じろぎし、やがて動かなくなった。
◆
「きみたちは、なぜ人を喰うのか」
割り当てられた小屋の中、地に敷かれた枯れ草張りの板の上で四人は車座になっていた。男達があぐらをかく一方で、女達は尻の両脇に折り込んだ足を流すように座る。木作りの簾がかけられた戸口近くにはマルガリティアが陣取っている。相変わらず膝の上にアルカンを抱いて。
リュクルスは言葉を飾らなかった。飾る術を持たず、また飾ることを嫌ったがゆえに。
「兄、戦いに勝利したのですから、何らかの報酬を得なければなりません。それは当たり前のことです。狩りに出かけて仕留めた獲物を、地に横たえたままにするというのですか?」
ゲルギウスの言葉には含意が無い。握った石を中空で手放せば地に落ちる。日は昇り沈む。それら自然の摂理を説明するのはただの作業に過ぎなかった。
「つまり、きみは敵を倒し、戦えぬ者を攫い貪ることと、狩りを同一のものと見なすのか?」
対するリュクルスの言葉にも怒気はなかった。
マルガリティアは言葉に耳を傾けながら男の横顔をじっと眺めた。〝名もなき御方〟の祭司にとって、男の瞳は興味を惹く対象である。
「どこに違いがありましょう。何も敵を辱める意図などありません。兄に教わったとおり、ラケディアの戦士として私は敵に敬意を持ちます。だからこそです。誇り高い戦いの末に勝ち得たものだからこそ、それを捨て置くなどできません」
「しかし、狩りと一言で言っても喰うばかりではないだろう。毛皮を目的とする場合もある。おれが聞きたいのはそれだ。人には他の使い道があるはずだ。」
生理的嫌悪を抑えるのは至難の業である。それを今、青年は成し遂げようとしている。
マルガリティアは男の穏やかな口ぶりに驚嘆した。彼女とて平地の民。リュクルスと感性を共有する存在である。実際にそれを口にしなかったからこそまだ冷静を保つが、もし食べていたならばとても平常にはあり得なかっただろう。怯え、恐れ、混乱して青年の背に隠れたことだろう。人喰いどもの目に自分の身体が触れぬように。昨日まで親しく四方山話を楽しんだゲルダさえ、強烈な嫌悪を以て眺めたことだろう。
——このリュクルスでさえ、あのように取り乱したんですから。
不安定な心を強大な意思の力で統御してきたラケディアの戦士でさえ、投げやりに死を願った。その様を間近で見たがゆえに、マルガリティアは青年が選んだ行動——対話が意味するところを真に理解することができた。彼はなんとか立て直したのだ。
「どんな使い道?」
ゲルダの言葉は常に簡潔な装いを持つ。
「使役すればいい。あるいは、女であれば子を産ませることもできる。幸いきみたちの言う〝敵〟は同じ森の民だ。子を為すことに問題はないだろう」
「それこそが侮辱。〝敵〟の誇りを踏みにじる」
小さく頷いてリュクルスは黙考した。彼は議論において兄妹を打ち負かそうとは思わなかった。ただ知りたかったのだ。なにが善いことであるかを。ゆえにゲルダの言葉を一旦受け入れ咀嚼しようとした。
「それにリュクルス。〝集い〟にはそんな余裕はない。奴隷を養う余裕は」
「きみは前にも同様のことを言っていたな。ならば捕らえた者達も動物の狩りに使えばいい。より成果が上がるだろう」
青年の見当違いな回答を一笑に付すことを黒髪の少女はしなかった。昨日までの青年であればいざ知らず、今この瞬間の彼を笑うのはあまり気が進まない。理由は判然としないものの、ゲルダは確かにそう感じたのだ。
「捕らえた者たちに武器を与えればどうなるかは分かるはず」
「再び逆らうならば殺せばいい。それだけのことだ」
自身がまさに隷民として在ったマルガリティアは即座に理解した。ラケディアは隷民たちの武装を禁じない。金属製の農具を所持することも許す。それができるのはラケディアがラケディアであるが故。粗末な鎌や剣で武装した十の隷民を、今彼女の隣に座る男は鼻歌交じりに皆殺しにするだろう。一時もかからない。恐らく瞬き三十に満たぬうちに。
「ラケディアの戦士様ならばそれができるでしょうけど、普通は恐ろしいものですね」
「そう。——採集の仕事をさせようにも、男を一人養ってそれだけでは割に合わない」
リュクルスは腕を組み再び思考を巡らせる。
「では労役はどうだ。この家のような建物を拵えるのに使えばいい」
青年は真っ当な案を提示した。つまり自身が生まれ育った都市においてなされていたことを。
「男を、ですか? 戦士が狩りに出払った〝集い〟に男を残しておくのは危険です」
ゲルギウスが丁寧に事情を説明する。
「戦える男衆はそう多くはありません。この〝上の集い〟ですら、我らを襲った四人の他に、精々あと数名でしょう」
「なるほど。確かにおれも同様の人数を想定した。——男はこの際一旦置こう。今のきみたちの話に従えば、女ならば捕らえて使役してもいいだろう。女は男ほど多くは食わない。採取や屋内仕事をさせれば割に合う。さらに、孕ませれば子を増やすこともできる」
都市の外を眺めるラケディア市民の目は常にかくの如くあった。隷民の女は脆く肉体労働に向かないが、一方で従順な気性ゆえ反乱の恐れもなく、細々した仕事をさせるにはあつらえ向きの存在であると。
「その通りです。得た女をそのように扱うこともあります。ですが……」
言いにくそうに口ごもるゲルギウスを彼はあえて待った。短い沈黙の末、続きが告げられた。
「ですが、女は美味いのです……」
声にもならない、息を飲む音がする。マルガリティアの。
一方、リュクルスは瞑目した。それはあまりにも予想外の言葉である。彼は奥歯を噛みしめ、自身の内なる心情と戦い続けた。嫌悪という。
「ゲルギウス、それは……男のきみはそれでいいだろう。だがゲルダ、きみの方はどうだ? きみは女だ。もし喰われる側になったとしたら。嫌悪を抱くのではないか?」
「抱かない。女は美味しい。本当のこと。それに、ゲルギウスの言葉もリュクルスの言葉も変わらない。もしゲルダが捕まったらどちらも同じこと」
「そんなことはない。少なくともおれの考えならば、きみは死なない」
不意に熱を感じる。果たして彼の背にはマルガリティアとアルカンが身を縮ませて隠れていた。
「ゲルダにとって、リュクルスの考えることの方が十を十重ねたほどに辛い。ゲルダは奴隷にはなりたくない」
「森の民にとって自由こそが尊いものであることは理解する。だが、〝降られた方〟——きみたちが信じる神は嘉したもうのか。その行為を」
それはリュクルスにとって最大の疑問である。
猛きマヌも、おそらくマルガリティアが信ずる〝名もなき御方〟もそれを嫌う。しかし神々の中には、あるいは許容される方がおられるかもしれない。神々の思惑は人には図りがたい。言葉に出すことはおろか、心の中においてさえ不敬を用心深く避けながらも、彼は疑念を抑えきれなかった。
「〝降られた方〟は何も言わない。善いとも、悪いとも。——でも許されるはず」
「なぜそう言える? 神々の御心は人には推し量れない」
「もし駄目なのならば、〝降られた方〟はゲルダたちをここに置かなかった。——リュクルス、もう一度言う。〝恵み〟はごちそう。多くの人がそれによって生き延びることができる」
平地に育った者たちが薄々感じていたことをゲルダはここで明言した。つまり、〝緑壁〟は大量の人を養うほどの食糧をもたらさない。
「狩りでは足りないか」
「足りない。大きい獲物は少なく、仕留めるのは大変。でも、人はすぐに増える」
「ゲルダ、きみの言を理解する。だが、自分が言っていることの意味を本当に理解しているか? その言葉は要するに、人を家畜と見なすに等しい」
重々しく告げられた言葉を、しかし森の民の小柄な少女は正面から受け止めた。
「理解している。——ラケディアと同じ」
瞬間膨れ上がった怒気を収めるのに青年はしばらくの時を要とした。深呼吸は大げさな素振りではない。切実に求められていた。
——汚らわしい魔物ども!
脳内に木霊する叫びは「声」ではない。青年の正気が生み出したものだ。彼の意識は、彼の身体は、ゲルダの断言をどうあっても受け付けない。
しかし、まさに昨夜、彼はそれを為したのだ。かつて光輝あるラケディアの市民であった男は、疑いようもなく、たしかにそれを口にした。咀嚼し飲み下した。ゆえに彼はもはやラケディア市民ではなかった。
にもかかわらず、生きて行かねばならなかった。
「ゲルギウス、ゲルダ。きみたちに正直に言おう。おれはどうしても、それを受け入れられない」
「理由は?」
ゲルダの声色は酷く冷ややかなもの。巨躯に似合わぬ困り顔の兄に比して、妹は厳然とした佇まいを崩さない。
「確かに明白なものはない。認めよう。——それでもあえて言う。一度〝隊列〟を組んだ〝僚友〟に、おれはそれをしてほしくない」
してほしくない。
その言葉を聞いたとき、広く逞しい男の背に縋りながらマルガリティアははっきりと悟った。彼は変わったのだ、と。
「おれはどうすればいい? ゲルダ、ゲルギウス」
まず答えたのは兄。
「リュクルス兄、あなたの言うことがラケディアの流儀ならば、私たちは従います。なにせ我ら兄妹はラケディアの……」
しかし語り終えることはなかった。
妹の言葉が鋭く兄の言を断ち切ったのだ。その小柄な身体からは、その幼さを多分に残す表情からは想像も付かぬほどに、少女の一言は威厳すら含んでリュクルスの耳に届いた。
「剣で語るといい」
◆◆
「おれはそれを為したくない」
まさにこの一言は、ラケディア、麗しの都の青年がその生において新たな一歩を踏み出す画期となった。ペルピネの南端、ケイデーの麓、緑壁の奥深くでリュクルスは確かに述べた。剣に依らぬ、と。
だが、対話の相手となった黒髪の少女にとって彼の言葉は俄に理解しがたいものであった。それは昨日の昼になされた威嚇、力による強制とは正反対のものである。
「昨日と今日で何が違う? リュクルスはゲルダとゲルギウスに強いたはず。ゲルダたちを力で従わせた」
「ならば言おう。違いは明白だ。おれはもはやラケディアの市民ではない。市民として決して許容されぬ行いをしたのだから」
「ラケディアは〝恵み〟を許さない? 父ガイオンは食べた」
彼はしばし天井を見上げる。想像しながらも、できればそうあってほしくないと望んだことが結局のところ現実であった。
——緑壁で生きるとはそういうことだ。彼らの中で生きるということだ。
「ラケディアは許さない。猛きマヌもお許しにならない」
彼の返答を受けて、今度はゲルギウスが嘆ずる番である。
ラケディア市民に憧れるこの善良な青年にとってもまた、恐れていた予想が現実のものとなった瞬間だった。リュクルスとマルガリティアの反応から〝恵み〟が麗しの都における禁忌であろうことは想像がついたが、彼は努めて目を背け続けた。この瞬間まで。だが、こうも明らかに告げられては誤魔化しがきかない。
「……しかし、父は」
「おれはきみの父について述べはしない。その姿を見たこともなく、語り合ったこともない者については何も」
「リュクルス兄、はっきりと言ってください! 父は!」
「ゲルギウス。おれはおれが知ることのみを述べる。ラケディアにおいて人を喰う者はこう呼ばれる。——〝魔物〟と」
鋭利な棘を備えた言葉は、吐き出すリュクルスの喉をすら容赦なく切り裂いた。しかし、森の民の少女は怯まなかった。
「どう呼ばれてもかまわない。ただ、リュクルスがゲルダに〝恵み〟を捨てさせたいのなら、力で行うしかない」
「剣で脅かされて従うのであれば、きみが嫌う奴隷と何の違いがある?」
「違う。奴隷は納得しない。心から従わない。恐れで支配される」
物わかりの悪い目の前の青年に、森の民の少女は苛立ち混じりに答えた。なぜこれほどに単純なことが理解できぬのかと言外に、如実に表しながら。
「では、きみと剣を交え、おれが勝てば、きみは納得するのか?」
「リュクルスが勝った後、ゲルダを望むなら、ゲルダは納得する」
「〝望む〟とは?」
「リュクルスが勝てばゲルダを殺すことができる。〝恵み〟の肉とすることも。殺さないならば、それはゲルダを望んだということ。ゲルダの肉以上にゲルダ自身を望んだ」
会話の中で彼はおぼろげながらに森の民の感覚をつかみつつあった。
それは人体を食料とすることを禁忌としたラケディア市民には思いもよらぬ発想である。
この緑壁に生きる者たちにとって「物質としての肉体」と「精神を秘めた〝人〟」は価値比較が可能な関係にある。人が人であるためには肉としての有用性以上のものを示さねばならない。敵を下しながら、なお生かすということは、勝者が敗者の人間存在に価値を見いだしたと認めるに等しい。平地においてよりも貴重な食料を敗者の生存のために割くほどの価値を。
兄妹の集いで鳥獣に食い荒らされた幾多の死体と昨夜彼らに振る舞われた肉もまた、比較可能な物質である。〝上の集い〟の襲撃者達は敵を選別した。喰うためのものと、うち捨てるものに。
拠り所を失い宙に浮いた意識を持て余すリュクルスだが、思考の片隅では透徹した計算を淡々と進めていた。それは幼時から刷り込まれた日常である。人を食糧と見なす森の民の生活様式から考えて、死体の遺棄は貴重な食糧を無為に捨て去る行為である。にもかかわらず、兄妹の集いには十以上が放置されていた。単純に、全てを持ち帰ることができなかったのだろう。山間の獣道を使って物資を運搬する手段は人力以外になく、襲撃者の側は十分な人手を用意できなかった。ゆえに、選び抜かれた生きた肉を連れ去ることしかできなかった。
となれば、戦いで命を落としたか、あるいは最初から数が少なかったか、いずれにしても敵の数はそう多くはない。ただでさえ少ないところに、昨日朝〝隊列〟との遭遇戦で四人の戦士を失っている。シャルメの父と兄弟を含む、恐らくは〝上の集い〟の中核となる戦士達を。
——確かにこの地では、ラケディアの戦士は引く手あまただろう。これほどに脆弱な人々の世界においては。
一つの村を滅ぼしたほどの勢力が、一人の男の存在によって存亡の縁に追いやられているのだ。たった一人の男によって。
「……でもゲルダさん、〝望まれた〟人と奴隷はどう違うんですか? どちらも負けて、生かされています」
青年の背から顔を出したマルガリティアが会話に割り込んできた。ラケディアの奴隷であった彼女にとって森の民の感覚は興味深いものである。
「奴隷は望まれたのに納得しない者。命惜しさに従う。卑怯な者」
「負けた人は皆納得するんでしょうか。わたしにはそうは思えません」
「マルガリティの言うとおり。納得できる勝負はめったにない。大体は負けた側は不満に思う。だからゲルダたちは奴隷を作らない。——〝恵み〟にする」
その口ぶりは鮮やかですらあった。少女の言は人の意思よりも世の理を示すもの。森の民の世界の。
「勝負に負け、負けに納得して、さらに〝望まれた〟場合、勝者と敗者の関係はどのようなものになります?」
隷民はまさにゲルダが定義した奴隷に近い。敗北に納得せず、力によって強制された者達である。ゆえに麗しの都は隷民を抑え込むために必要な唯一のもの――力を磨いた。そしてひたすら脅した。一方、森の民の世界では納得しない者を生かしておく余裕はない。ゆえに〝恵み〟に変える。
生まれ育った村をラケディアの戦士達に蹂躙された後、遅れてやってきた市民リュクルスに対して、マルガリティアは服従しなかった。命を危険にさらしても自身の意思を曲げなかった。にもかかわらず青年はそんな彼女を殺さなかった。つまり森の民の理屈に従えば、彼は納得しない少女にさえ「価値」を認めたことになる。
どれほどの?
少女は自問する。おそらくそれは彼女を旅の同行者とすることによって背負い込む苦労。例えば従民都市タンタリオンでは同胞と一触即発の対立が生まれた。例えば道中、少女の安全を確保する手間があった。何よりも、少女によって絶え間なく為された精神への攻撃に耐える苦しみがあった。それら全てを対価とするに足る価値をリュクルスは認めたのだ。マルガリティアに。
自覚したとき、埃に汚れた首筋が薄らと赤く染まった。不随意に。
「主従。鳥のごとく在る民が、自由な意思で従う」
「ゲルダさんは……リュクルスに負けたらその、主従に?」
「戦う必要もない。ゲルダはリュクルスに勝てない。もう分かっている」
勝者に擬せられた青年は得心がいかぬ面持ちを浮かべた。誇りと自由について語りながら、至極あっさりと敗北を認める心性は推し量れないものだ。
「〝納得〟しているのならば、なぜ剣で語れと?」
「リュクルスは本当に愚か。なぜ分からない。——リュクルスの言葉には価値がない。力に価値がある」
「おれの価値はその力をおいて他にない。認めよう。だが……」
「違う! 本当に愚か」
慣れない「正しい言葉」をしゃべるもどかしさがゲルダの苛立ちを増幅させた。森の民の少女は自身の膝を打つ。その様は年相応の幼さを感じさせる。語る言葉の重さに比して。
「リュクルスは力でゲルダ達を従える。だからもう、リュクルスは独りではない」
「理解している。きみたちは〝隊列〟の……」
聞き終わらぬうちに少女は勢い込んで立ち上がり青年を見下ろした。傲然と。
「ゲルダ達は〝僚友〟ではない。――リュクルスは主。主は従者を背負う。それを認めるなら、ゲルダはリュクルスに従う。……〝恵み〟も諦める」
◆
朝の対話はそのまま無言に終わった。
ゲルダの決定的な言葉の後、リュクルスは何かを語る気力を持たなかった。事実彼は混乱の極みにある。
昼前の陽は若々しく、容赦なく世界を照らした。〝集い〟の「空地」においては身を隠すに足る暗がりはない。全てが白日の下にある。男は一見平常を保ちつつも微かな放心は隠しきれない。そぞろ歩きに出ようとする彼をマルガリティアはあえて見送った。アルカンを託して。
リュクルスとアルカンはともに広場を歩み出す。
旅の始めにおいてはこの子羊のみが〝隊列〟の仲間であったことを彼は不意に想起する。燔際の使いという光輝に満ちた役目を与えられて、彼は失意のうちに旅立った。それは明らかに死出の旅であった。しかし、途中立ち寄った名もなき村で、彼らは新たな同行者を得る。偶然にも。〝名もなき御方〟の祭司マルガリティア。彼女を加えた一行は進んだ先、緑壁の縁でゲルギウスとゲルダの兄妹に出会った。偶然にも。
ゆえに、偶然にも、男と羊の行く手に森の民の女——シャルメが現れたとき、一人と一匹が動じることはなかった。
夕暮れの弱光においてさえ見事な艶を示した長い黒髪は、昼の陽光の元にあって涼しげな風合いを加えている。女の歩みに合わせてそれは揺れる。昨日と打って変わって明るい生成りの着物を纏う立ち姿は、日の熱昇りきらぬ夏の午前によく映えた。
シャルメが歩み寄るのを視界に捉え、彼はやむなく立ち止まった。できることならば自然な成り行きですれ違いたいところだが、女の視線が自身に固着されていることはすぐに分かった。
——おれは何を言えばいい。語ったところで通じぬ相手に。
昨夜の宴が自身を貶めるために仕組まれた罠であったならば、彼は気を病む必要などなかった。敵として立ち現れた者に対してとるべき態度は二つしかないからだ。戦うか降伏するか。
しかし兄妹との対話を経た今、酒宴がまさに歓待であったことは明らかである。この〝集い〟の主導的立場にある女は彼ら〝隊列〟を受け入れた。
女の細面に控えめな笑顔が浮かぶ様は、リュクルスに彼我の関係を容赦なく、誤解しようもなく伝えた。
二人は昨日の夕暮れに刃を交わした。正面から堂々と戦いはなされた。そして一片の疑義も見いだせぬほど、彼は圧倒的に勝利した。さらに、殺さなかった。〝恵み〟とはしなかった。
「怪我はないか?」
迷った末に浮かんだ台詞は奇妙なものとなった。宴の謝辞にも宿を借りた礼にも抵抗がある。となれば時間を遡り、戦いの場について触れる以外なかった。
女は瞳を軽く見開いて首をかしげると、再び微笑んだ。
意思疎通をなし得ない二者が友好の念を示そうとするとき、笑みと手振り、特に得物を持たないことを示す素振りは分かりやすい様態といえた。ゆえにラケディアの市民は笑みを浮かべず、素手を見せない。彼らは他者の友誼を乞う必要などないのだから。
しかし、ここ緑壁においてリュクルスは〝共同体〟の戦士ではなかった。ゆえに何らかの行動が求められた。彼は極めてぎこちない動きで互いの戦いを模した素振りを見せた後、腕や腰、頭を触り、痛みを感じる演技をしてみる。
滑稽な仕草というほかはないが、青年は大真面目であった。そして残念なことに彼の努力は報われなかった。最初驚いた表情を浮かべた女だが、やがて肩を揺らして笑い出す。
「おれはきみの身体を案じたのだ。それを笑いものにするなど」
口ではそう告げながら、怒りは湧いてこない。目の前の女は負かした相手である。対等の敵手ではない。
笑いの発作を収めたところで、シャルメはおもむろにリュクルスの手を取り歩き出す。
「どこへ行く」
答えはなかった。広場を囲むように建つ家屋の一角に女は男を導く。右の手を女の左手に絡め取られながらもリュクルスは大人しく付き従った。彼らの歩みの後ろをアルカンが追従した。
薄汚れた戦士と薄汚れた導き手は見事に誘われた。
◆
充満する香油の匂いに支配された小屋の中には大きな水桶が幾つも並んでいる。
シャルメは彼を屋内に招じ入れると二言三言語りかけ、笑顔を見せた。そして正面から抱きつくように身体を重ね、両の腕を男の背に回す。
手の動きから、女が青年の胸甲を留める革紐を外そうとしていることはすぐに分かった。
ラケディアの戦士の反応に思考が介在する余地などない。戦士の武装を解く試みとはつまり、明白な敵対の仕草である。敵対者を至近に捉えて身体は相応の行動を取ろうと動き出す。ゆえにリュクルスの意識は抑制のためにこそ用いられた。剣を抜かないために。
「止めろ。——何をしているか分かっているのか?」
女の優美な肩を男の頑強な手のひらが包み、押し戻す。そして太く低い警告の声は実体を持つ第三の腕のように機能した。
明確な拒否を受けたシャルメは一瞬瞳を大きく見開き、自身の肩を握りしめる男の手を確認すると小さく首をかしげた。
成熟した女と見えながら、その素振りは幼さすら秘めている。凛とした佇まいで男と対峙した戦士の姿と、撫でた犬に吠えられて呆然とする子どもの姿が、一個の人間の中に同居している。
——マルガリティアも常にこのような調子だ。この上なく立派であるかと思えば、恐ろしく子供じみた振る舞いもする。
かつて〝共同体〟で交流を深めたエイレーネからは感じられなかった二面性。リュクルスが死出の旅で得た些細な報酬である。人とはどのようなものであるか、極小とはいえ彼は新たな知見を得たのだ。
青年の目から見て、マルガリティアとシャルメには似通ったところがあった。年若い〝名もなき御方〟の祭司は、彼に些細な悪戯をすることを好む。不似合い極まる花冠を男の頭に乗せてみたり、子羊の前足を持って男の腕を引っ掻いてみたり、無意味で不合理な行いをなすことが増えた。鬱陶しそうに振り払うと満足げに微笑み、再び大人しくなる。
ゆえに彼はシャルメの行動もまた同様の結末に落ち着くことと予測した。
そして見事に裏切られた。
思案顔は一瞬のこと。
得心がいった風情で頷くと、女は腰を縛る紐をほどき、おもむろに裾をたくし上げていく。生成りの貫頭衣はみるみるうちに織り込まれ、白い肌が解き放たれた。
リュクルスは女が衣を脱ぎ捨てる様を目前にしながら言葉を発しなかった。
それは余りにも予想外のことである。
他者が意外な動きを示したときには、その理由を探る必要があった。周囲の世界が自身の予測を超えた装いを示すとき、そこには常に生命の危機が隠されている。ゆえにラケディアの戦士は現象から原因を考察する。
一糸まとわぬシャルメの立ち姿。見事な金細工の首飾りと、両の手首に通した大ぶりな黄金の腕輪を残して。
だが、弱光に鈍く光る黄金の妖艶も、艶やかに梳られた黒髪を纏わせた白い肌の清冽さえも、青年が培った生き方を屈服せしめることはなかった。
敵の前に裸体を晒すことの意味を彼は探した。微動だにせず。しかし右の腕は即応の準備を整えて。剣を抜くことも、あるいは若木の幹のごとく逞しい腕で女の首を折ることもできるように。
彼女の異常な行動が訴えるところのものを推察するのはそれほどに難しいことではなかった。裸であるとは何も持たないこと。例えば剥き出しになった男の首筋に突き刺す合口のようなものを。
「おれはきみを疑いはしない。きみがそのような卑劣な企みを為そうなどと」
リュクルスにとって、女の剥き出しになった乳房も張り出した腰もある種の侮蔑とさえ映った。
女は敵意を持たぬ証を裸体で示した。だまし討ちの器具を持たぬことの証明を為した。だが、それは裏を返せば、リュクルスが彼女を恐れているだろうとの推測を元になされた行動である。猛きマヌの都に生を受けた市民が脆弱な森の民の女に怯えるなど、全く以てあり得ないこと。
青年にとってシャルメの行動は軽侮に等しく感じられた。
「シャルメ。おれはきみを恐れない」
彼は腰に吊った剣を取り、女の足下に投げ落とした。
——使いたければ使えばいい。刃を鞘から抜き放つまでに、おれはこの女の首をへし折ることができる。
腹の奥からせり上がる不可思議な情動は、自身を侮った森の民の娘に対する憤り。
彼はそのように認識した。少なくとも彼の理性は。
「……リュクルス」
二人が共有する唯一の認識は、互いが名前以外の何物をも共有しえないという事実である。ゆえに女は彼の名を呼んだ。角がそぎ落とされた、丸みを帯びた音で。
偶然にも男女の境界を示すように転がった剣を、女は難なく踏み越えた。そして男の元に辿り着き、先ほど拒まれた行為を再び為した。両の腕を男の背に回して。
自分の身体が発する悪臭に慣れきった嗅覚を、女の匂いが刺激した。香油の甘く滑らかな、蜜のごとく優しい刺激が。
二十歳の青年にとって、それは圧倒的な体験である。それは女体であった。
事ここに到り、リュクルスは理解した。なぜこれほどまでに昂ぶり神経を尖らせているのかを。
ラケディア、麗しの都が作りあげた精緻な機関が今、狂わされようとしていた。
——かつてあの兄妹の父が辿った道がこれか。この女と交わり、子を為し、森の民として生きるのか。他の村を襲い、敵を殺し、その肉を食うのか。〝恵み〟として。おれはそうやって生きるのか。この薄暗い森の中で。
抗する力は残されていない。他の道もまた残されていない。死を眼前にした人の生において最も自由な一時を過ごしながら、彼は世界に絡め取られつつあった。ゲルダが情け容赦なく白日の下に晒し、突きつけた責任。そして今、肌も露わに抱きつく女が彼に負わせようとするもの。半壊した〝上の集い〟を維持するという。
かつて背負いたいと切に願った共同体の責務、光輝ある重荷は、結局彼には与えられなかった。代わりに授けられたものを前にしてリュクルスは目眩を抑えられない。
——おれはもはやラケディアの市民ではない。共同体の一員でもない。テセウスの子を名乗ることさえできない。おれはただのリュクルスだ。では、ただのリュクルスはこれを望むのか? 心から。
シャルメの息づかいは耳元で響く。背には二本の腕が蠢く。
彼は捕食された羽虫に過ぎない。蜘蛛の目映い糸に絡め取られて、ゆっくりと、時間をかけて囓り取られていく。
それもよいのではないか。
この生き様も捨てたものではないと思い直す。森の中で生きる未来を夢想してみる。この蜘蛛が産むであろう子は偉大な戦士になるだろうか、と。
彼は恐る恐る女の剥き出しの背に腕を回し、怖々と撫でた。十の敵を屠るに勝る緊張を秘めて。
腕の中で女が身をよじった。
事実、リュクルスはその行く手を定めつつあった。否、定める必要すらない。行く手は一つしかないように思われた。
彼には。
しかし、小屋の中にいる、もう一人のラケディア戦士は昂然と異を唱えた。
甲高い、しかし強烈な芯を持った叫びを放った。緑壁の奥深く、それは響き渡る。
彼は執政官である。ラケディアの。