第二章 旅
第16話 午後
2026/04/26 02:47 公開
「見てください! リュクルス。うまくできました」
昼下がり、夕に「仕事」を控えたつかの間の休息。マルガリティアが誇らしげに示した花冠は薄紅と紫の小ぶりな花弁を茎で編んだもの。頭上に乗った脆い手慰みの成果は、しかし女の金髪に鮮やかな色合いを足した。梳らぬ金の房に。
「器用に作ったな」
「はい。ゲルダさんと一緒にがんばりました」
女は完爾として笑いながら小さな頭を振ってみせる。
「おれはそのようなものを見たことがない」
「わたしは小さい頃によく作りましたけど、ラケディアの女の人は作らないんですか?」
「我らラケディア市民は十の歳から〝少年団〟に属し、最も大切なこと——都市への忠誠を学ぶ。花冠の作り方などではなく」
言いながらリュクルスは自身の記憶を掘り返す。かつて共に暮らした少女達を。とりわけエイレーネを。
彼女達は皆、強くあろうとした。健康な肉体のみが美である。夾雑物は必要ない。ありのままの肉体を飾り立てる行いは美を損なう堕落である。男達は健康な子を産みそうな女に欲情し、女達は勇敢な戦士に欲情する。そして子が生まれる。子も両親と同様にラケディアを支える礎となる。永遠に続く偉大なる〝共同体〟の姿。
——それはつまり、おれが失ったものだ。
彼は久しぶりに友の存在を思い出した。パレイオス。エイレーネ。彼らはもう〝初のちぎり〟を済ませただろうか。エイレーネは子を孕んだだろうか。
未練は消えない。清らかな調和を保つ白亜の都市。敬意を感じられる友。輝かしい未来。〝隊列〟の仲間ととる〝共同食事〟。契り。そして、子。
——全ておれが得るはずだったものだ。
現実の彼は、薄暗い森の中で貧相な隷民の女と下らない話に興じている。野花で編んだ粗雑な冠をかぶり満足げな女と。
「リュクルス。何か違うことを考えていますね? 別のことを」
「いや。おまえの手先が器用であることは十分に理解した」
女は男の隣に腰を下ろす。そこが自身の定位置であることを微塵も疑わず、堂々と。
「他に何か言いたいことがあるのか」
「いいえ」
「ではゲルダの元に行けばいい。夕まで、まだ時間がある」
マルガリティアは言葉ではなく態度で答えた。つまり男の隣に在り続けるという。
その細い手指は時折花冠を触れる。乱雑に伸びた金の髪をできる限り手櫛ですいて、整えて、その上に載せたもの。少女自身、なぜそのようなものを作ろうと思ったのか、説明することは出来なかった。ここ一月の激動は装身具を拵えようと意志するだけの余裕を彼女に与えなかった。そして今もまた、それどころではない状況におかれている。にもかかわらず。
つまるところ気の迷いである。あるいは、それどころではない世界がそれを強いたのかもしれない。
「ねぇ、一つお聞きしたいことがあります」
「なんだ?」
「……ラケディアに、だれか好きな方がいましたか?」
想定外の問いを受けた男は驚きをかみ殺す。いつものような皮肉かと思いきや、それは旅路において一度も為されたことのない類いのものだった。
「下らない話だ。おれの好悪などなんの意味も持たない。必要もない」
「でも、いましたね。その口ぶり」
上目遣いで自身を覗き込むマルガリティアを、彼はあえて見なかった。傍らの剣を抜き、刃こぼれを確かめる。確かめようとした。
「ねぇリュクルス? どんな方ですか?」
「それを知ることに意味があるのか」
「意味はありません。意味なんて何も。一つも。でも知りたいんです。——その方とわたし、どちらが好ましいですか」
しつこい追求だが、男は微かな安堵と共に受け止める。それこそが少女のいつもの姿だ。逃げても食い下がり、言葉を引きずり出そうとする。イリスの村で出会って以来、何度となく交わされた会話の類型であった。
「……エイレーネだ。おまえではない」
「エイレーネ。エイレーネというお名前なんですね。綺麗な方でしたか?」
「健康な身体をしていた。よい子を胎む女だ」
マルガリティアはしばし口を閉じ、花冠の位置を入念に直す。
襤褸を纏う薄汚れた隷民の女。それにしては仕草が妙に堂に入っている。話に聞く東方の国の女王のように。
リュクルスは自身の連想を再びの驚きとともに受け入れた。
「ふぅん。……でも、言われてみれば確かに意味はありませんね!」
「おまえが聞いたことだろう」
「ええ。でもやっぱり意味はありませんでした。だって今リュクルスの隣にいるのはわたしです。これからの戦士様の物語に描かれるのはエイレーネさんではありません」
それは誠に以て正鵠を射た言葉、真理と言ってもよい。
男の隣にエイレーネが腰を下ろすことは未来永劫あり得ない。彼らは既に別たれていた。自覚しながらも振り切ることができないもの。それはエイレーネという生身の女に結実したラケディアそのものである。それを今、少女は切り落とそうとしている。男の身体に纏わり付いた贅肉を。出会って以来常に、彼女はそれを為そうと工夫を凝らしてきた。巨大な塊肉から薄い肉片を切り取るように。肉が気づかぬように、少しずつ、薄く。
「その通りだ。エイレーネはいない。パレイオスもまた。今も、この後も。だが、おまえが隣にいるのもまた、一時のことに過ぎない」
「では、そうならないようにします」
「面白いことを言う。〝定められた物語〟とやらはどうした。おまえが何を思おうと、為そうと、全ては定まっているのだろう」
女は呆れたように首を振り、小さな溜息すら漏らした。何も分かっていないと。飲み込みの悪い生徒に呆れる教師の素振りである。
「違います。リュクルス。それでも為そうとしなければいけません」
「なぜだ? 全ては無意味だろうに。全ては定まっているのだから」
「いいえ。わたしは絶対にそうするべきなんです。神はきっと、そう為したわたしを物語に描かれたはずですから」
「〝名もなき御方〟の祭司として、おれを手放せないか」
「はい。もちろん。……それに」
躊躇いがちに目を伏せて、少女は押し黙った。発話は一つの選択である。語ってもよいし語らなくてもよい。この時マルガリティアは語ることを選んだ。そうすべきだと考えたからだ。
「わたしが、共に居たいと思うからです」
◆
リュクルスは惰性の中にある。
その二十年に渡る生の中でラケディアに仕込まれた行動規範は、彼が意思と希望を失してなお体内に燃え続けた。ケイデーの山頂に到り燔祭を執り行う。無意味な行為であることを十分に知りながら、それを為そうとした。なぜならば、それこそがラケディアが彼に与えた最後のものであったからだ。ラケディアはリュクルスに望んだ。山に登り死ねと。
そんな彼の心中にマルガリティアの言葉は不可思議な感覚を残した。
——この女はおれと在りたいという。ただ死にゆくのみのおれと。
居心地の悪い、不気味な状況である。これまで一度たりとも感じたことがなかったもの。
——城門の隅で物乞いをしていたあの男。あの男、犬、オイステスでさえラケディアに住むことを許された。一方、今のおれは麗しの都に入ることすら叶わない。市民ですらない。死を望まれた不良品だ。おれには価値がない。何一つ。
〝上の集い〟を襲おうと考えたのも深慮ゆえではない。期せずして同行者となった兄妹の集落が襲われたことに対する報復。道中襲撃を受けたことに対する仕返し。だが、いずれも命を賭して行うべきかと問われれば難しいところである。彼が後生大事に抱えた市民の誇りとは何の関係もない、いわば他人事である。にもかかわらずそれを為そうと企図したのは、窮極のところただの成り行きに過ぎない。望む未来を持たぬ限り目的もまたない。目的なくとも行動せねばならない。だからこそ手頃な目標に流された。
つまり捨て鉢の流浪。惨めな。
ラケディアという唯一無二の光輝ある価値を失った自分に対し、マルガリティアはそれでも「共に在りたい」と言った。全く以て意味の分からぬ事であった。
「祭司としてではなく、おまえ自身がおれと居たいと望むのか。なぜだ?」
少女が川辺で〝神託〟を述べ引き留めたとき、彼はその意図を理解することができた。自分が〝声を聴く者〟であるのならば、祭司が付き従おうとするのは当然のこと。それは神慮に叶う行為である。十分に納得しうる行動だった。
しかし、祭司を衣装を脱ぎ捨てたマルガリティア——一人の女が、ラケディアの誇りを剥ぎ取られたリュクルス——一人の男に執着する理由は分からない。
「分かりません。でも、そう感じるんです」
「つまり、おまえはおれの子種を欲しているのか。しかし残念なことに、おれはもはや麗しの都の市民ではない。偉大な戦士でもない。だから、おまえがおれの子を宿したとして何の得も名誉も……」
「リュクルス。リュクルス。子どものお話はしていません。わたしはあなたにお話しています」
「おれ? おれには何もない」
男の言葉を受けた女の笑みは極上のものだった。目元は歳相応の幼さを、口元は成熟した女の色香を表す。
「いけないことですか? この花冠にだって意味なんてありません。でも、わたしはこれを作ろうと思いました。できあがったら、好きになりました」
「忘れたのか? おれは、おまえの村の者達を殺した男だ。おまえの父や母を。あるいは友を。おまえが真っ当に誇り高い女ならば、復讐を図るべきだろう。縋るのではなく」
「リュクルス。——あなたは殺していません。イリスの村の、誰も」
「ラケディアの戦士がそれを為した。ラケディアの戦士とは、つまり我らだ」
全ての根源がそこにある。
両親の遺体を前に途方に暮れた少女は、全てを失い途方に暮れようとしている青年と出会った。共に旅をする中で青年はラケディアと別たれた。ゆえに復讐は完遂された。残されたのは根無し草となった一組の男女である。ただの男と女であった。
にもかかわらず、男は存外に諦めが悪い。未練がましい泣き言を手放さない。〝我ら〟などと言う。その代名詞の中に、彼はもはや含まれていないのに。
「でも、リュクルスはもうラケディアの戦士ではありませんね。そうでしょう? 先ほどあなたは自分でそう言いました」
「……ああ。そうだ。マルガリティア。おれはラケディアの戦士ではない。だから、実を言えばもう為すべき事もない」
「わたしも同じです。あなたの喉に噛みついて、食いちぎってやろうと思ったこともありましたけど、今はもうそんな気になりません」
肉食獣の真似をして両手を掲げ、小さく口を開け、噛みつく素振りをする少女の姿に、リュクルスは再びの戸惑いを覚えた。彼の双眸の中で、女が美しく見えたからだ。それは終ぞ感じたことのない不可思議な情動の兆しであった。
「いっそ、この森の中で暮らしましょうか! あなたとわたしとアルカンで。ゲルギウスさんとゲルダさんも一緒に。わたしたちの〝集い〟を作って。鳥は自由に巣を作ります。鳥の民もまた同じようにしてもいいでしょう?」
同意が得られぬことを明確に理解しながらも、マルガリティアは囁いた。驚くほどに蠱惑的な青い瞳を輝かせて述べた。
「それは祭司の言葉か? ——それともおまえの言葉か?」
「もちろん、わたしの」
「ならば祭司のおまえはどう言う? 聞こう」
男の左腕を不意に女のそれが絡めとった。蛇のように。あるいは蜘蛛の糸のように。ぬめるように。
「声に従え、と」
少女の体温を剥き出しの肌に感じながら男はしばし瞑目する。そして言った。
「では、従おう。この忌々しい〝声〟に」
——山頂へ! リュクルス! 石を金となす者!
「声」は木霊して止まない。
◆
〝上の集い〟は兄妹の属したそれに倍するほどの成員を擁するという。
ゲルギウスもゲルダも実際に赴いた経験はないため、全ては伝聞に過ぎない。だが、森の民の生活様式を考慮するに、その程度が妥当なところであろうとリュクルスも納得した。
二人の父が健在であった頃は互角の勢力を保持したという前提に従う限り、多く見積もっても人口は倍程度。これが百人規模の相手となれば、いかにラケディアの戦士とはいえ一人では荷が重い。
敵の総数が四十から五十人程度であるとすれば、狩猟に従事する人数は最大でも二十名ほど。なんらかの戦闘行為に耐えうる数はそこからさらに半分程度となる。二十名規模の集落であった兄妹の集いにおいて戦闘に従事可能な人間は五人。よって兄妹不在の襲撃時、集いは残りの三名で〝上の集い〟を迎え撃ったことになる。その者達が抵抗時に倒した人数とリュクルス達が始末した四名を合わせて差し引けば、現状〝上の集い〟が投入できる戦力は十を超えるかどうかであろう。そうリュクルスは読んだ。
十対三の勝負はそう悪いものではない。先刻の遭遇戦で敵の平均的な力量も推し量ることができた。対人戦の経験は明らかに少ない。平地に比して格段に低い森の人口密度から考えるに、人と人が殺し合う機会が足りないのも当然のことである。一方、ラケディア市民はまさに敵、つまり人を殺すことに特化した存在であり、戦闘と殺人は生活の一部である。
リュクルスは〝集い〟の構造についても聞き取った。中央の広場である「空地」を囲むように家屋を建てる形は森の民に共通する様式であると述べたのはゲルダ。神話に描かれた原初の集いから大枠は変わらないという。
それは図らずも、リュクルスにとってもなじみ深い形態であった。
規模は全く異なるが、都市ラケディアもまた同様の構造を持つ。あるいはラケディアから派生した他の従属都市も。
以上の状況を把握したとき青年の前には二つの選択肢があった。
鏖殺か、あるいは戦士との戦いか。
夕闇に紛れて静かに侵入し、人影とみれば手当たり次第殺すこともできる。戦地の覚悟を持たぬ人の群は、死の匂いが掠めただけで恐慌状態に陥るだろう。従民都市における数度の「仕事」を経験した彼はその様を容易に想像することが出来た。
または、堂々と名乗りを上げて敵の戦士を呼び寄せてもよい。一対一の勝負にはなるまいが、いかに囲まれたところで数名倒せば敵は戦意を喪失するだろう。
彼が選んだのは後者だった。
「ゲルギウス。きみと隊列を組む。地上見渡す限り、それを恐れぬ者はない、ラケディアの〝隊列〟を」
指示を受けた青年は喜色満面、拳を突き上げて答えた。
「兄、なんと光栄なこと!」
「我らラケディアの〝隊列〟に敗北はない。戦士達は皆等しく一つになる。——ただし、今回は変則的なものだ。戦場ではおれの指示に従え。必ず」
「もちろん。その光輝ある名を汚さぬよう励みます!」
実際のところはといえば、二人の男が互いの背を守りながら周囲の敵と対峙するだけ。しかしリュクルスはあえてそれを〝隊列〟と呼んだ。
「ゲルダはマルガリティアと共に森の暗闇の中に。弓は使えるな?」
「できる。でも、ゲルダも共に行かなくてもよい? ゲルダも戦える」
言の端には若干の不満が感じられた。先ほど倒した魔物から剥ぎ取った弓矢を掲げて無言の主張。
「軽んじているわけではない。きみは我ら〝隊列〟の命綱だ。陽が落ちれば空地の外には光もない。木々に覆われぬ空地のみが月の光を得る。暗闇から敵を狙え」
「……」
説明を受けてなお納得せぬ黒髪の少女に、リュクルスは重ねて伝えた。
「ゲルダ、勘違いしているようだが、ラケディア〝隊列〟の核は後方にある。後列に絶対の信頼を抱くがゆえに前列は精強無比であり続ける。後ろに弱兵を置いては前列の力は発揮されない。つまり、きみの存在は戦いの帰趨を定める」
戦闘能力を持たぬマルガリティアを守るためにも、ゲルダを〝隊列〟に組み込むことはできない。ゆえに彼女の役割は定まった。
「分かった。ゲルダはマルガリティを守る。……〝隊列〟も」
「それでいい。——ところでゲルギウス、きみは森の民の言葉をしゃべれるな?」
ゲルダの脇に並ぶ青年に向き直り尋ねる。
「それはもちろん。はい。……ですが、あまりしゃべりたいものではありません」
「おれが為せぬ以上、それをするのはきみしかいない。ケイデーの頂まで、あるいは月にまで届くほどの大音声で名乗りを上げろ。そして敵の頭を呼び出せ。頭でなくともいい。とにかく戦士を引きずり出せ」
「分かりました。しかしリュクルス兄、私も〝正しい言葉〟で……」
「〝魔物の言葉〟で一度名乗ったら、その後は好きにしていい。後でラケディア戦士の正式な名乗りを教えてやる」
妹に比して単純な兄の不満を容易く摘み取ってから、彼は最後、マルガリティアに語りかけた。
「おまえはゲルダと共に。今回は盾を貸してやることはできない。とにかく木の陰に身を隠せ」
「分かりました。——そういえばリュクルス、この子はどうしましょう」
少女の膝に頭を乗せ午睡を貪るアルカンは、その存在によって男に思案を強いた。思わぬところで鳴きでもしたら面倒なことになる。成体に比べてか細くも、羊の鳴き声は芯を持ち、存外よく通る。
「放置すれば彷徨い出すやっかいなやつだ。おまえが捕まえておけ」
「いいのですか? 戦士様のことですから、てっきりこう言うと思っていました。〝ラケディアの誇りを汚す獣め、ここで絞めて食べてしまおう!〟って」
明らかな揶揄いを含んだ台詞に対して、青年は小さく肩をすくめて答えた。至極真面目に。真剣に。
「彼は〝執政官〟だ。おまえがそう定めただろう。——ラケディアの執政官は常に戦場に在る。後退はない」
重々しく語られた言葉は少女の驚きを引き出すに不足ないものだった。今この場において男が纏う空気は、これまでの旅路において彼が漂わせてきた幾分か捨て鉢のものではない。決して。
マルガリティアは瞠目を禁じ得ない。
隷民の娘が生涯出会うこと叶わぬ光景を今、目撃しているのだから。
ラケディア、麗しの都の〝隊列〟を率いる本物の戦士がどのような存在であるか、彼女はその目で一部始終を見たのだ。
投げかけられた当てこすりに苛立ち、重ねられた女の手に驚く青年はもはやいない。
それは堂々たる姿であった。紛れもない、執政官の。
ペルピネの大地を遍く統べる都市、ラケディア、麗しの都の精華がそこに在った。
石の如きリュクルス。