タテガキ

第二章 旅

第28話 目覚め

2026/10/13 17:27 公開

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 右の耳に何かが飛び込んでくる。それは音だ。濡れて太った。
 次に何かが飛びかかってくる。それは液体のようでありながら固体のようでもある。水気と粘性をもっている。

 青年の覚醒はかくのごとく為された。
 瞼を開けば眼球が飛び出す。そう錯覚するほどに頭の芯が今も盛大に燃えている。熱が逃げ場を求めている。眼窩を通って外へと。そう錯覚するほどに。
 ゆえに彼は見開いた。きつく閉じた口が深い眠りの中で半開きになるように、それは勝手に開いた。彼は意志などしなかった。断じて。だが開いた。閉じる力が失われたからだ。

 視界の中央には陽光を遮る巨大な塊がある。何一つ分からない。それが何であるか。
 漆黒の影を白い帯が縁取って揺れている。つまり何かが、男の眼球と天空の光球が直結するのを妨げているのだ。

 右の耳元にそびえ立つ何かの存在を感じ取る。物体が空間を押しのけている。存在の知覚は常にそのようなかたちでもたらされる。
 青年は血筋で赤く濁った瞳を傾けた。摩擦も抵抗も一切無い。するりと滑らかに、丸い球が転がるのだ。見た、とはいえまい。ただ映ったとのみ述べるべきである。そこには確たる意志が不在であった。
 幅にして指三本ほど。銀とも白とも黒ともつかぬ、めまぐるしく変化する色合い。それは耳元に突き立てられていた。
 男はそれが何であるかをよく知っている。物心ついた頃から携えてきたものだったのだから、取り違えようもない。剣だ。

 水面みなもより浮上する巨大な魚のように、一つの〝指向〟が鈍重に姿を現す。あるいは焦点を結ぶ。つまり、意識が立ち戻ろうとしている。

「なにゆえ、いま……そなたっ」
 聞き覚えがある。しかし、かつての彼が知るその女の声はあくまで音。音に過ぎなかった。意味を持たぬ空気の振動に過ぎなかった。にもかかわらず、今この瞬間、それは明らかに彼の脳内で意味を構成していた。
 青年は返答を試みて口を開き、しばらくして閉じた。不可能を悟ったがゆえに。
「そなたはあにをしいし、ちちをほふりしを。いずれつがうおかたをも! ゆえにこそ、そなたもまたいぬるべき! そのはずならば!」
 現実か幻覚か。青年には区別がつかない。
 胴を跨いで立ち、自身を見下ろすこの女。艶やかな黒髪を乱し醜く口元を歪める女のことを、彼は確かに知っている。
〝上の集い〟の女。シャルメ。
「なぜせいをえるのです。なぜせいのいぶきをふたたびやどしたのか?! このちでむくいうくるさだめをっ!」
 自身の死を切実に願う台詞とは裏腹に、女の身体からは殺気を感じない。
 手指の先はおろか舌すら満足に動かぬ今のリュクルスを屠るには、苦労も工夫も必要ない。ただ、恐らく彼女が泥土に突き立てたであろう剣を引き抜き、「正しい場所」に再び振り落とせば済むことだ。にもかかわらず、その気配は欠片もなかった。
 膨れ上がった感情を抑えきれずに、女は両の腕を震わせる。
「そなたのくびを! くびを!」
 首を? 首をどうするというのか。
 甲高い叫びは青年をして、ますます現実味を失わせた。かつて経験したことのない不気味な感覚である。自己と肉体が切り離されて在る。そう感じられる。ゆえに首などただの肉に過ぎない。たとえそれが自分自身のものであったとしても。
「でも、あなたはよみされた。よみされた! ゆえに……」
 男の胴を跨いで立った女はおもむろに両の膝を落とす。途端にその顔が青年の視界を占拠する。長い黒髪が胸元を叩く。
 目元に涙はない。憎悪はある。だが、娘の瞳の奥には憎しみの分厚い毛布に包まれて、確固たる第二の情動が蠢いていた。あえて言葉にするならば「畏怖」とでも呼ぶべき心象であった。

 リュクルス。かつて麗しの都の市民であり、かつて誇り高き〝隊列〟の戦士であった男は、ようやく状況を把握しつつあった。
 この女は自身の死体を刻もうと望んだのだ。かつて彼が倒した者たちの仇をとるために。その情動は青年にとって好ましいものであった。ラケディアで刷り込まれた感覚——死体を辱めることへの嫌悪を超えて。それが彼ら森の民のやり方なのだ。それが彼ら森の民の生き方なのだ。方法への好悪を超えた今だからこそ、青年は女に共感した。その復讐の意に。
 共同体の同胞を殺されてなお怒りを覚えぬ者など獣と大差ない。よってシャルメは獣ではない。

 直截に述べるならば、リュクルスはシャルメに真っ当な好感を抱いた。その企図において。尊重に値する存在として。
 問題は、なぜ、それを為さぬのか、である。
 男の身体に抵抗の余力は残されていない。少なくともあと数刻は。
 つまり彼は「物」に過ぎない。男の無力を理解しながら、にもかかわらず、シャルメは本懐を遂げようとしなかった。

 殺人への怖れゆえか。そのようにも推測は可能だが、恐らく異なる。理由は定かならずとも青年は確かに感じていた。
 女は今にも獲物に飛びかからんと隙をうかがう獣だ。しかし何かが戒めている。彼女の健康な、充分に発達して充分に自由である四肢を、何かが繋ぎ止めている。

「あなたは嘉よみされてしまいました……」
 ぽつりと、朝露の最後の一滴がこぼれ落ちるように、女は同様の言葉を再び述べた。

 話者も変わらず内容も不変。
 ただ一つ変わったもの。それは青年自身である。
 不思議なことに、彼は〝森の民の言葉〟を体得しつつある。驚くべき速度で。寝起きにはぼやけた視界が徐々に晴れ、意識の完全な覚醒と共に周囲の事物がくっきりと浮かび上がるように。
「……〝降くだられた方〟はかくのごとく告げられました。かつて。遠く遠く昔に。みなは等しく在り、気儘で在れ、と」
 女の細い手指が青年の頬を撫で、瞳の上を跨ぎ、額へ向かう。乾いた泥によって貼り付けられたその髪をかき上げんと。
 黒曜石を思わせる、深くも煌めく女の瞳は、一点たりとも覆われるところのない男の顔を凝視せんと望んだ。それは自身の紡ぐ言葉が真正なものであることを確かめようとする行為だ。
 つまり、この男なのか、と。
「等しく在りながら気儘で在ることはかないませぬ。等しく在れば気儘ではなく、気儘で在れば等しくはありえぬものです。ですが〝降られた方〟の御代においてはかく成りました。この森の中に。〝降られた方〟は恐ろしい槍をお持ちです。目映く輝くその槍は掟を破る者を縫い付けます。——地に。……小癪に蠢く蛇を串刺すごとくに」
 リュクルスは黙して耳を傾けるのみ。目は閉じられようが耳を塞げはしない。両腕の利かぬこの瞬間にあっては。

 当初ぎこちなく、古めかしく、統制のない単語の羅列に感じられたシャルメの言葉は、一刻一刻と滑らかに梳られていく。聞き始めには古ぼけた言い回しが、今や慣れ親しんだ日常語として脳内に響くのだ。
 女の発話が変わったのではない。受け手である自身の変化である。彼は自覚した。
「その様は自然ではありません。自然の在り様では。ゆえに、自然の上に在る方こそが〝降られた方〟なのです。自然を超えた方」
〝降られた方〟と森の民が呼称する何らかの存在がかつてこの地を支配した。等しく在りながら気儘で在るよう、それは人々を導いた。リュクルスに分かることはそれしかない。

 彼は女の吐露を笑いはしなかった。事実、彼は視たのだから。決して現実とは思われない、精神に焼き付けられた火花の残像として。古今東西、幾多の人々がそれを望み、果たせず、抗い、死に行く様を。

 彼は自身が知覚した途方もない表象の塊を消化できずにいる。
 彼はすべてを視ながら、何一つ理解しなかった。

 ただ一つ、たった一つの光景を除いて。

 彼は勇敢な男であった。団結と並び勇気を最上の徳と定めるラケディアの男にふさわしく。
 彼は何物も恐れはしない。困難に立ち向かい、乗り越え、征することを厭いはしない。一方で、人が乗り越えられぬ障壁に対してはきっぱりと断念する気概も持っていた。決して叶わぬ望みを後生大事に抱いだき続けるが如き怯懦は唾棄すべきものだ。人の分を超えた事象と戦うことはない。
 にもかかわらず、彼が幻視した一幅の図像は青年の心に恐怖をもたらした。それはごく近い、|今の先未来に起こる。つまり、今の彼と地続きの出来事である。

 腕は萎え、足は動かず。
 だが、舌は動く。

「あ、あ……ああ」
 腹から喉へ、そして体外へ。空気の流れが音を作る。
 途端にシャルメが動いた。青年の首の裏に手のひらを当て上半身を引き起こすと、泥の如き茶の髪に覆われた頭蓋を自身の膝に載せた。
「リュクルス? これで楽になりましょう?」
「ああ、おお。し、しゃ、シャルメ……。おえ、おえ、おれは……」
 舌の根がぎこちなく震えている。
 それも当然のこと。彼の口内は未知の動きに挑んでいるのだ。〝森の民の言葉〟をしゃべるという。
「リュクルス? あなた!」
 シャルメの目元が湛える涼やかささえも、驚愕を隠しおおせはしない。

 ——狼の民の青年が鳥の民の言葉をしゃべろうとしている!

「いま、い、いまは? どのときだ? どれほどの……ながさの」
「今? 今……。ならば、一晩です。あなたが倒れ伏してより一つの夜が支配し、去りました」



 ◆



 山頂付近を覆った雷雲は昼夜の境目を覆い隠した。女は木々の隙間に身をかがめて暗闇の時を過ごした。払暁、目覚めは黒から橙へ、そして群青へと移り変わる空の元でなされた。一つの夜が去り、一つの昼が訪れた。常のごとくに。
 身を丸め長く過ごした代償として硬く強ばった身体を伸ばし、シャルメは立ち上がり、ケイデーの頂を再び目指した。
 そこに何が在るのか、あるいは何が無いのか、見当もつかない。というのも、昨夜の荒天は一つの明白な意思であると思われたからだ。〝降られた方〟の。
 かの青年。平地から迷い込んだ男リュクルス。その行く末を見届けることは、まだ若い女の生に一つの区切りを付ける行為であった。

 その男は明白な敵かたきである。
 彼女は決して忘れなかった。父や兄の太く逞しい声。共に育った男衆の若木の如きしなやかな身振り。それらは全て、ラケディアからやってきた得体の知れぬ男によって奪われた。
 自らも刃を交わした。そして気づいた。リュクルス——かのラケディア戦士は人の形をした天災のごときものである、と。彼女は母アステラと語らい方針を定めた。抵抗は無意味である、と。彼女の生きる〝集い〟はその柱を失った。新たな柱が必要であった。
 女はラケディアの言葉を知らない。ゆえに意思の疎通は叶わない。だが、一つだけ理解できることがある。それはつまり、リュクルスが若い男でありシャルメが若い女であるという一事である。
 違えようのない事実は違えようのない道しるべとなる。男女はつがうことが可能である。そう在るように創られている。ならば為すべきことは一つしかない。

 水浴びの小屋に青年を誘いざなったとき、女の内心は千々に乱れた。
 憎しみは確かにある。しかし感嘆の思いもある。怖れと不安があり、期待と安心もある。苦痛と快楽。自身が臨む行為——初めての行為への好奇心もまた。
 女は自分に言い聞かせた。これからつがう相手は強靱であり、誇り高い。この肉体をまさぐるであろうその手は、たとえ親兄弟を屠ったものであれ、少なくとも卑劣な手ではなかろう、と。

 曖昧な笑みは女という性に天与の仕草であるように思われる。実際彼女は難なくそれを表した。内に蔵する葛藤は決して表出しない。
 身に纏う衣を落とし、同時に男の胸甲を外そうと試みる。無論、腕の届くあたりに短刀の用意はあるが、それを使おうとは微塵も思わなかった。経緯はどうあれ、眼前の青年は堂々と戦い敵森の民を屠ったのである。ならば騙し討ちは復讐の術すべとして相応しいものではない。

 つまるところ、シャルメは交合を望んだ。
 未知への恐怖は、目の前に立つ青年の存在によって著しく抑え込まれた。
 浅黒く日焼けした二の腕に浮き上がる太い筋は、自身の肉体には決して表し得ないものだ。鎖骨から顎へと続く首。その中程にそびえ立つ突起は低い男声を生み出す。そして匂い。長く身を清めずに溜め込まれた臭気。それは女の鼻孔の奥を焼いた。

 彼女の華奢な指が剥き出しになった青年の胸元に届かんとする時、しかし企図は頓挫した。
 甲高くも野太い鳴き声がそれを防いだ。本来は純白であろう巻き毛も半ば茶に染まった、薄汚い、一匹の小さな羊によって。

 シャルメの笑みは曖昧さを失する。彼女はそのとき初めて、明確に笑った。逢瀬を企図し実行に移す中で唯一抱かなかった感情——おかしさが女の胸元に湧き上がった。
 リュクルスとシャルメ。一対の男女の間に興った情動は、水で満ちた革袋を針で突いたかのように呆気なく地に流れ出した。
 彼女は足下の手近な桶から手杯で水を汲み、青年の胸元にかけた。そして瞳を合わせ、微笑んだ。

 ——「今」ではないのでしょうね。

 飽きもせずに青年の臑に頭突きを繰り返す小さな獣を眺めながらシャルメは理解した。それは明らかな兆しであった。神慮の。



 ◆



「い、一夜の後のち、か」
 ケイデーの頂。
 拳大の鋭利な石がそこかしこに散らばるこの地において、女の膝は恐らく唯一の柔らかい場所であった。そこで青年が発した言葉はどこかしら空疎に響いた。
「シャルメ。……おれを、起こしてくれ」
「落ち着かれませ。リュクルス」
「シャルメ。おれには行くべきところがある」
「そのお身体は、あなたにそれを許しません。あなたは歩むことすら叶わぬでしょう」
 彼女の見立ては正確であった。
 胸甲がはじけ飛び、内に着込んだ貫頭衣すら裂けて露わになった上半身も、腰に残った布地から覗く下半身も、一様に芯がない。まるで骨を抜いて整えられた肉のように。

 にもかかわらず、男は動いた。

 もはや依頼の言葉はない。
 女の眼下で青年の腹が蠢く。筋が顫動する。その様は、まるで外なる何者かが不可視の手を伸ばし、リュクルスという名の肉を操る現れとすら見受けられた。

 何時が経とうか。
 瞬き一つの間か、それとも一刻か。

 ついに青年は直立した。
 骨を抜かれた二本の足で。

 男はもはや女を見ない。
 今まさに頂に届かんとする陽を受けて在る。

「アルカン! アルカン! どこにいる!」
 叫びは往時の威力を持たない。ただ、恐ろしいほどに純度の高い音の波である。それは一つの旋律となって女の耳を付いた。

「おれの槍はどこだ! おれの槍はどこにある!」
 小さな一歩を踏み出す。歩みは往時の力強さを持たない。ただ、恐ろしいほどの意思を蔵する。

 果たして青年の向かう先、地に刺さったそれをシャルメの瞳は捉えた。
 穂先から柄まで漆黒に染まった槍を。陽光を存分に啜ってなお変わらぬ存在を。

「猛きマヌよ! おれは……」
 気がつけば男の言葉を解する術は失われた。
 いつしかリュクルスは〝彼の言葉〟で語り出していた。ゆえにシャルメの知覚は図像によってのみ為される。

 それは一幅の絵画のごとく在った。

 右へ左へ揺れながら、おぼつかぬ足取りで歩を進める青年。
 視覚の端から小さな塊が現れ、彼の元へ走り寄っていく。
 子羊が。

 陽はかくの如き様を白日の下にさらした。

 男の背から泥が溶け流れ落ちた。
 同時にそれが顕現する。

 紫にも、あるいは黒にも見える筋が皮膚を押し上げている。
 背骨に沿って正中線を占めた一本の太い幹から、無数の細線が枝木のごとく左右に走る。
 
 女は確かに視た。
 男の背に浮かび上がった一本の巨木を。