第二章 旅
第18話 夜宴
2026/04/27 08:55 公開
森に潜む女達を呼び戻さんと僚友を遣いに出したリュクルスは、しばし広場に取り残されることとなった。
片言の会話もままならぬ異人の群の中にあっても、しかし彼は恐れはなかった。
先刻刃を合わせた女は側を離れず、戦いの終わりを察して近づいてきた一組の新たな男女も不審な動きを見せない。それどころか、ぎこちない微笑みを投げ寄越しさえした。小柄な、恐らくは自身よりも十以上は年長であろう男に、その妻とおぼしき女。皆が黒髪と黒目を持つ。
二人は小屋から持ち出した木組みの椅子を青年と傍らの女の前に置き、ゆったりとした動作で右の腕を差し出し勧める。猛きラケディアの戦士を刺激しないよう、細心の注意を払っていることは明らかだった。
——存外まともな者達だ。
そこには気遣いと、なによりも秩序がある。禽獣の群にはありえない、人の動きがある。化外の地に在って相応の待遇を受けたことは青年の心に小さくない驚きをもたらした。
敬意を受け止めたがゆえに、リュクルスは腰掛けた。戦地において腰を下ろすのは明確に不注意、時には危険な行為であることを十分理解した上で、彼は敢えて木椅子に座することを選んだ。
隣に立つ女が一言告げると、中年の男女は現れたときと同様、静かに遠ざかっていく。恐らく下位者であろう二人が下がるのを見送った後、女は自身の木椅子を彼の右脇に引き寄せ、優雅にそこに座した。
対面ではなく横に陣取った意図を図りかねたリュクルスだが、疑問への解はすぐに与えられた。誠に雄弁に、明白に。
女の左手が男の上腕を撫でたのだ。四肢と似て細い指は男の盛り上がった筋肉をなぞる。
「なんだ?」
通じないと知りながら青年は問う。問わざるを得ない。右腕を女に委ねたまま。
素性のわからぬ者に利き手を預けるほど危険なことはない。にもかかわらず、彼はいつしか受け入れていた。女の仕草は興奮した犬を宥める愛撫に近い。怖がらせぬよう、優しく、緩慢に往復する。
「シャルメ」
女は自身の胸元を指し囁く。誤解しようのない行為。名乗りである。
青年の目は女の胸元に微かに輝く金の首飾りを見た。戦いの最中にあっては気づきもしなかったそれを。麻紐が通された小ぶりな円柱状の輪が、たいまつの光を受けて無秩序に、微かに、火花のように光る。恐らく何らかの模様が刻まれているのだろう。
「リュクルス」
引き写しの仕草。左腕を胸にやり、彼は一言答えた。女は小さく笑った。幾分かの羞じらいさえもたたえて。
◆
「へぇ。……ふぅん。ラケディアの戦士様は〝森の民〟の王様になるんですか?」
ゲルギウスに呼び戻され、広場に現れた二人の少女は不満を隠さない。日没と共に完全な暗闇に支配された森の中、息を潜めた数刻の苦労を尻目に、一人だけいい思いをしている青年の姿を見れば皮肉の一つも言いたくなるところ。
「愚かなことを」
「誇り高いラケディアの戦士様が勢い込んで攻め入った割には、それはそれは拍子抜けするような平穏さですね。〝森の民〟の女性まで侍らせて」
リュクルスは困惑含みにゲルダを見やる。
「ゲルダ達は森の中で待った。ゲルダは弓を持って。マルガリティは羊を持って。建物の隙間を探しながら」
「ああ、おれの見当違いだった。この村は想像以上に大きい」
空地の外から男達を援護する役割を担ったゲルダだが、広場への距離が矢の射程を優に超えることに気づいた段階で、マルガリティアを連れて速やかに後方に退いた。低木が密集する茂みを見つけ〝狼の民〟の女を押し込むと、自身は短刀を抜き周囲警戒に入る。兄の雄叫びに続く、ラケディアの男の高らかな名乗りを聞き流しながら。
〝鳥の民〟の女と〝狼の民〟の女は視線を合わせながら無言で潜んだ。手の届く距離にあってすら互いの輪郭を目視叶わぬ濃厚な闇の中で、四つの瞳だけが微かに光っていた。
「たくさん虫に食われた。たくさん気を張った。全てリュクルスの計画が悪い」
黒髪の少女が自身の腕についた虫刺されの痕を掲げる。青年はそれを見て静かに言った。直截な、明瞭な言葉で。
「すまなかった」
青年の放った何気ない一言に目を剥くのはマルガリティアだ。ラケディアの戦士が魔物の女に謝罪をしたのだから。
少女は鼻が利く。ことリュクルスにまつわる諸々については。
「ふぅん。……ラケディアの戦士様が謝罪をなさるなんて驚きです。てっきり剣を抜いて成敗されるのかと。〝ラケディアの威光を恐れぬ無礼な女だ!〟って」
「そのようなことをするはずがない。——おれが見通しを誤った。おれの失策だ」
「でも、哀れな隷民の女には謝ってくれませんものね。決して! 健気にもアルカンの面倒を見ていた女には」
抱きしめた子羊を突き出して彼女は言った。それはただの軽口に過ぎなかった。そのはずであった。
「いや、おまえにも謝罪しよう。おれが判断を誤ったがゆえに、不安と苦労を強いた」
「……」
口をとがらせ、年相応の怒りを湛えていたマルガリティアの顔面から表情が消えた。男の身に、あるいは心に、明白な異変を感じ取るが故に。
ラケディア市民を父に持つ兄妹はリュクルスからすれば半同胞と言ってもよい存在である。一方で、彼女は純然たる隷民に過ぎない。ラケディアの市民が隷民に謝るなど、天が落ち地が裂けようとも起こりえないこと。しかし今、リュクルスは確かにそれを為した。
「リュクルス? ……本当に何かありましたか?」
「何もない。ゲルギウスはこちらの状況を伝えていないのか」
「それは聞きました。その、そちらの方と戦い、リュクルスが勝利したと」
そちらの方。
金髪の少女はチラと黒髪の女に視線を向け、再び青年に向き直る。
「より正確に言うならば、あれは戦いなどではなかった。だが、この……シャルメの名誉のために、あれが戦いであったと言ってもよい」
リュクルスの隣を占めた女は自身の名が呼ばれたことに気づき、曖昧な笑みを浮かべながらその横顔を見やる。
「では、その……シャルメさんに勝って、娶ることにしたんですか?」
「おまえは意味の分からぬことを言う。常のごとく。戦いを終えてからまだ一時も経たない。名さえも先ほど知ったばかりだ」
「その割には、とても仲良くされているようですね」
棘のある少女の言葉に彼はもはや答えなかった。妹と共に眼前に佇む〝僚友〟に視線を移し問いかける。
「きみはこの村にどのような購いを望む? きみたち兄妹が決めていい。もとよりこれは、おれの戦いではない」
「いえ、リュクルス兄、その女を負かしたのは兄です」
「きみが相手をしても結果にさして変わりはなかった。それよりも彼女に聞いてほしい。しかるべき男の戦士はいなかったのか、と」
この〝集い〟において女——シャルメがある程度の地位を占めているであろうことは想像がついたが、戦いに適した者が他に誰もいなかったとは考えがたい。戦前から抱いた疑問を通訳するよう彼は頼んだ。
ゲルギウスがリュクルスの言葉を伝えると、シャルメが応じて短く二三言返す。その様は女の秘めた気位を感じさせるに十分な威厳を備えていた。
「父と兄がいるそうですが、朝狩りに出たまま帰らない、と。……リュクルス兄」
さり気なく周囲に視線を配りながら、ゲルギウスが伺いを立てる。見ればゲルダも何食わぬ顔で、腰に差した短刀の柄に利き手を置いた。
「何を心配することがある? 我々が倒した。それが事実だ。ありのままにを伝えればいい」
「しかし……」
「ゲルギウス。我々は戦いにおいて卑怯な振る舞いをしたか? してはいない。敵の襲撃を堂々と退けた。何を恥じることがある。誤魔化しはむしろ、相手の名誉を汚す行いだ」
対等な敵と正面から戦い、打ち倒す。そこに遺恨はない。敗者が倒すに値する者であったがゆえに、勝者は誇りうる。リュクルスにとって、シャルメの家族であろう男達を討ち取ったと高らかに謳う行為はまさに敬意の表れであった。
「……では伝えますよ?」
片句すら理解及ばぬながらも、ゲルギウスの弱気だけは手に取るように分かった。リュクルスは事の推移を無言で見守る。女が激発するならばそれも構わない。媚びるならばそれでもいい。いずれにせよ敵にはなり得ぬ存在なのだから。
しかし森の民の女——シャルメの態度はそのどちらでもなかった。一瞬息を飲み、しばし瞑目した後、彼女は立ち上がり青年の前に進み出る。そして見下ろした。瞳を逸らすことなく、堂々と。涼やかな黒い瞳の奥に怒りはない。同時に、恐れもない。
「ラケディアの戦士がおまえの父と兄を倒した。堂々と。恥じるところ一片もない。再び剣を取るならばそれもいい。おれは逃げも隠れもしない」
青年もまた立ち上がり、女の眼差しを受け止めた。
相手が「正しい言葉」を解さぬことを知りながら、それでも自身の言葉が届くことを彼は確信していた。込み入った内容ではないのだ。彼は女の家族を殺した。それ以上でも以下でもない。
シャルメは黙して去った。
◆
戦闘再開を予想したリュクルスの隊列にとって、その後の展開はまたも意外なものであった。広場に宴席が設えられ、彼らは招かれるままに座った。
成人の男が大の字になって横たわれる程の、木板を編んだ枯れ草で包んだ座席が人数分用意される。リュクルスらの対面にはシャルメともう一人、女がいる。草冠を模した金細工を載せた白髪交じりの茶髪は、黒髪ばかりの森の民の中で一際目立った。
「シャルメの母親だそうです。名はアステラと」
隣に座るゲルギウスが通訳の役割を果たし〝上の集い〟の母娘と言葉を交わす。
弱冠二十歳のリュクルスには外交の経験などなかったが、今、彼は〝隊列〟の代表者として振る舞わねばならなかった。好む好まざるに関わらず、相手にそう認識されている以上、相応の態度を示す必要がある。
「ラケディア、麗しの都の市民、執政官テセウスの子リュクルスが〝上の集い〟の方々に告げる。我らは今朝あなた方の戦士と交戦し、これを破った。一方で、あなた方の戦士は我が〝僚友〟ゲルギウスとゲルダの属する集いを襲い、これを滅ぼした。以上の状況に相違はあるだろうか」
ゲルギウスの通訳を経て青年の言葉は森の民に届く。返答はすぐに帰ってきた。
正しい言葉で。
「リュクルス殿、と。ラケディアの戦士、聞きしに勝る精強。——我らに異見なし」
台詞の主はアステラ。シャルメの母である。幾ばくかの疲れを含んだ掠れ声ながら、なお毅然とした、確たる口ぶりだった。
「これは驚いた。……あなたは正しい言葉を話されるのか。どちらで学ばれた? アステラ殿」
「父より」
「なるほど。ではあなたはこの兄妹と同じくラケディア市民の血を引くと。お父上が?」
「否。父の父」
自身と〝隊列〟が今朝方撃退した戦士達の一人の妻であり、一人の母であった女は、年の頃四十を優に超える。その父の父——祖父が生きた頃となればリュクルスの想像を超えて昔のことである。
「では、その方よりお父上へ、そしてあなたへと正しい言葉が受け継がれたと」
「然り」
古風な言い回しに得心がいったのか、青年は厳かに頷き会話を進めた。
「祖父君の御名は?」
「フィリポス」
「フィリポス殿もやはり、燔祭の遣いとしてこの森へ?」
「燔祭の遣い、とは何か」
「ケイデーの頂に赴きマヌ神に生贄を捧げる。共同体の光輝ある戦士が任される栄誉ある仕事だ」
アステラは首を振り否定の意を示した。
「フィリポス来たりしは盟約の故」
「盟約とはラケディアと森の民のものだろうか? それは俄に信じがたいことだ。我らとあなた方は交流を持たない」
若く精力に満ちた戦士の断言を耳にして、アステラは微かな笑みを零す。
「〝鳥の民〟、森寵を与え、〝狼の民〟、血を以て対価となす」
「聞いたことがないが、ここで真偽は問うまい」
ラケディアと森の民、二つの世界に何らかの交流があろうことは予測していたが、それが双方向のものであろうとは考えたこともなかった。森の恵みと血。興味を惹く言葉を受けてなお、彼は深入りを避けた。
リュクルスの反応を察した女は軽く手を挙げ、周囲で宴席を取り囲む村人達に合図を送る。
〝隊列〟と〝上の集い〟の者達の間に、しばしの沈黙が訪れた。
リュクルスとマルガリティアは森の民の言葉を解さず、アステラ以外の者達は「正しい言葉」を知らない。ゆえに両者は共に、居心地の悪い時間を過ごすこととなった。
◆
待つこと暫し、宴の中心となる食事がもたらされた。
各自の敷板の上に、足のついた円形黒焼の器が三つ運ばれてくる。うち一つには大ぶりの肉が、一つは名も知れぬ穀物とおぼしき塊、そして最後の一際小さな土器に盛られた白い粉。全てが瑞々しい緑の大葉の上に盛り付けられていた。
「そうか。きみたちは予め食事を個々に分けるのか」
「はい。大皿に盛るラケディアの〝正しい作法〟とは異なりますが……」
左隣に胡座をかいて座るゲルギウスに尋ねるや、彼は躊躇いがちにそう告げた。先方に「正しい言葉」を解する者がいる以上、迂闊なことを言えば無礼を咎められる。
「何も他意はない。ただ目を惹いただけのこと。それにしてもいい匂いだ。この森に踏み入って初めて、小動物以外の肉を見る」
満遍なく焼き目のついた肉塊はかぐわしい香気を青年の鼻にもたらす。
——羊か。経緯はどうあれ先達に感謝せねばならない。燔祭のなれの果てに。
両手のひらを広げ、合わせたほどに巨大な肉塊を眺めながら、青年はそんなことを考える。同時に、彼の羊の存在を思い出した。
右隣を占めるマルガリティアに目を向けると、彼女も同様のことを想起したのだろう、視線を傍らに放ちリュクルスに示した。自身の隣で丸い身体をさらに丸め、くつろぐアルカンの存在を。
——成り行きとはいえ、羊には酷なことだ。こいつは同族が食われる様を見せつけられている。何も知らずに。
事実彼は憐れみさえした。無知な獣に。また羨みもした。煩悶と無縁の生に。
「我らを迎えるに、かくも豪華な宴。痛み入る」
青年は姿勢を正し、対面に座るシャルメとその横に座した母アステラに告げる。先刻剣を手に対した女は莞爾とした笑みを浮かべ、またも彼には理解できぬ言葉を発した。
「彼女はなんと?」
「ラケディアの戦士に気に入ってもらえるとよいが、と言っています」
僚友の言に小さく頷きを返すと、彼は改めてシャルメを眺めた。
しばし無言で見つめ合う二人を尻目に、大きな壷を抱えた女が各人の杯に白く濁った液体を注いでいく。彼の鼻は即座に酒精の存在を嗅ぎ分けた。
敵地で酒を飲むなど、かつての彼からすれば考えも及ばぬ行為であった。事実、従民都市タンタリオンでは、純然たる同胞と囲んだ〝共同食事〟においてさえ避けた。それが今、よりにもよって緑壁の奥深く〝魔物〟の群のただ中で、〝魔物〟と囲む宴席において、酔おうとしている。明らかな心境の変化を彼は自覚していた。
タンタリオンで彼を兄と呼んだダイオス。緑壁で彼を兄と呼ぶゲルギウス。皮肉な対称性を秘めている。彼は真の同胞たるダイオスと戦い、半分の同胞に過ぎないゲルギウスを助けた。
——それで構わない。おれも、もはや半ば森の民のようなものだ。少なくとも、彼らとさして変わらぬほどに、ラケディアとはほど遠い存在になった。
羊肉と酒精の香気は見事に男を打ち負かした。飢えも戦傷も大義のために耐え忍ぶラケディア、麗しの都の市民が、今ここに屈服しつつあった。
——そう捨てたものではない。兄妹の父ダイオン、アステラの祖父フィリポス。このように同類もいる。おそらく他にも幾多のラケディア市民がいたのだろう。この緑壁で生き、朽ちた。
先達の存在は誠に頼もしく思われた。捨て子は独りではないと分かったのだから。
——この村がおれを欲するならば。あるいはここで、おれを酔わせ殺そうとするならば。どちらも大差はない。
リュクルスの心を満たしたのは明白な事実である。彼はこの時点において既に打ち負かされつつあった。
——そう捨てたものではない。ここで森の民として生きるのも。
不意に鼻腔の奥深く、眉間の裏に熱を感じる。口内に残る濁り酒の酸味がもたらしたものか、あるいはより酢いもの、つまり、もはや誤魔化すべくもない現状の認識が喚起したものか、熱は微かな涙となった。
「ああ、とても美味い。染み渡り、おれを生まれ変わらせる。あなた方に何を返せばいい? この酒と、肉の対価に」
母娘の表情は驚くほどに似通っている。親子のものとして。二人の女が見せた艶やかな笑みは青年の瞳をとらえた。
「汝の得手を以て」
得手。彼が得意とするところのものは一つしかない。戦いという。
「それも悪くない。あなた方が望むのであれば」
◆
宴は静かに進んだ。
兄妹ははしゃぐ質ではない。兄は未だ払拭しえぬ恐れ——報復への——を押し殺すかのように神妙に、妹は対照的に、半ば傲然と飲み食いを進める。マルガリティアといえば、何やら物言いたげな表情を見せつつ沈黙を守った。そしてリュクルスもまた、静かに食い、酔った。
事情は〝森の民〟の母娘も変わらない。母は時折娘に語りかけ、娘は応答する。親子の会話を青年は理解できない。森の民の言葉を解する兄妹が特段の反応を示さない以上、大した内容ではあるまいとあたりを付けた。先方に「正しい言葉」を解する者がいるのと同様、こちらにも〝森の言葉〟を知る者達がいる。内密の話は不可能に近い。
動きがあるとすればシャルメのものだけ。彼女はリュクルスの杯が空になったところを目ざとく見定めては、杯を満たす。席を立ち、手ずからに。
青年は軽い目礼の後、酒を注がれた杯を控えめに掲げる。女は小さく微笑んで自身の席に戻った。そのしなやかな後ろ姿を横目に、彼は小刀で肉を切り分ける。
ふと傍らに目をやればマルガリティアの食が進まない様子。肉は手つかず、穀類も少し摘まんだきり、傍らの子羊を所在なげに撫でている。
「マルガリティア、どうした?」
「何も。ただお腹が空いていないだけです」
少女は頭を振って素っ気なく答えた。
宴席の四隅に立つ松明の光が、その見事な金髪を赤く染め上げていた。彼は同じ光景を見知っている。今となっては遙かに昔のこととすら思われるこの旅の始めに、少女の故郷——名もなき隷民の村で見たものだ。
「ならばいいが……」
言ってしばらく、リュクルスははたと気づく。少女は自前の小刀を持たないのだ。長い野宿の最中、食事時には自身のものを都度少女に貸していたことを思い出した。彼が切り分けてやることさえあった。
「ああ。気づかなかった。——これを使え」
青年に差し出された小刀の柄を、しかし彼女は拒む。あらぬ方を向いて。
「いりません。本当に」
頑なな反応に青年は胸中苦笑を禁じ得ない。
——拗ねているのか。この女はまだ十七。幼い素振りも抜けきらない。
「無理にとは言わない。ただ、小刀は渡しておく」
「いいえ……」
打って変わって弱々しい、しかし明瞭な拒絶。マルガリティアはアルカンを膝の上に抱き上げ青年に背を向けた。肩には微かな震えすら見て取れる。
リュクルスは所在なげに小刀をしまうと、今度は困惑混じりの視線を兄妹に投げた。兄は不思議そうに二人を見つめる。妹は咎めるような、あるいは気遣わしげな視線を返した。
震える女の姿は、青年をして再び旅の始めを想起せしめた。燃えさかる村の家屋を背景に、独り残された哀れな少女を楽にしてやろうと剣を振り上げるリュクルス。首を差し出す少女。その姿を。
——あるいは、おれが森の民の女に奪われることを恐れているのか。
青年は無言で正面に向き直り、酒を呷る。甘さの中に微かな酸味が喉をついた。
◆
宿として割り当てられた小屋を目指して〝隊列〟は歩く。リュクルスとマルガリティアが先頭に、後方には兄妹が続く。
月は天頂に至り、明瞭に「空地」を照らした。目を焼く篝火が消えた後、その光は驚くほどに激しく地上に降り注いだ。
不意にマルガリティアが歩みを止める。
そして口を開いた。
宴の半ばから固く噤んだその唇を。薄いそれを。耳まで届くと錯覚させるほどに長いそれを。
「リュクルス、なぜ食べたんですか」
「なぜ、とは? 突如黙り込んだかと思えば、意味の分からぬことを」
女の蒼眸は驚くほど冷ややかに青年を凝視した。
「気づきませんか? ——あの肉はおそらく、羊のものではありません」