タテガキ

第二章 旅

6物語

2026/04/15 16:37 公開

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 女は夕暮れにやってきた。
 その手に削り跡も露わな木椀をもって。
 男が無作為に選んだ仮の宿へ。

 適当に選んだは快適とはいいがたいが、男には、つまりラケディアの頑強な市民にとっては気にならない。不快に慣れているからだ。
 共同体は限生の者ひとが達しうる限界を市民に教える。明白で強靱な精神はこの世の厄介事すべてに耐えうる、と。リュクルスはそれを体現してきたし、これからも、その身を以て表し続けるだろう。
 少年団でも〝隊列〟でも、罵倒と打擲こそが日常であった。選別は過酷なものだ。子ども達は籤で割り当てられた相手とどちらか一方が気を失うまで殴り合う。時にはどちらかが、あるいは双方が息絶えるまで。残念なことに、リュクルスは相手を殺した経験がなかった。それは恥ずべき事だ。共同体がそうせよと命ずる以上、それは意味のあることだった。にもかかわらず、彼は全力を出そうとしなかった。常に手加減した。卑怯な行いだ。
 誇りある市民として心身の鍛練を怠ることなくば死にはしない。死んだとすれば、それは努力が足りなかったからだ。にもかかわらず、攻撃の手を緩めることによって、彼は相手の努力を軽視した。それは僚友への敬意を失する行為だ。相手の努力が不足しているであろうと勝手に推測したのだから。独断であり、独善である。
 ——卑怯なリュクルス。
 今や彼のただ独りのとなったこの「声」は、いつもそう呼びかけてくる。彼は共同体に生かされながら、心底の奉仕をしなかった。共同体を信じず、自分の考え——意思を持った。汚らわしいことに。

 運命の女神アポリアの名を騙る女が音も立てずに戸内に入ってくる。赤茶けた夕日が、木板をくり抜いた小さな窓から細く這い入ってくる。どちらも音を立てない。女も光も。
 無言で手渡された椀を覗けば、白い粘性の粥がかすかな湯気を立てている。熱による調理の痕跡。
「火を起こせるのか」
「はい。一通り習いました」
 意外な答えだった。種火を作るのは別段難しいことではないが、この少女にはその能力がないのだと彼は思い込んでいた。燃やすべきものが、燃やされていなかったから
「ではなぜ放っておく? なぜあれを燃やさない」
「分かりません」
 答えは明瞭に、即座に返ってくる。美しくないが、いい女ではある。即断は美徳だ。もしラケディアに生を受けていれば立派な市民に育っただろう。そしてよい戦士の母になっただろう。

 土間の中央に立ちながら、彼は椀に口を付け、液状のそれを喉に流し込む。
 肉の味がする。そう錯覚した。
 味とは舌と鼻で生み出すものだ。舌は肉を感じないが、鼻が感じる。肉を。

 リュクルスの口元に注がれた女の視線は動かない。固定されている。何か異変の発生を観察するかのように。
 ——毒でも入れたのか。
 少し野を分け入れば毒草の類いは簡単に手に入る。だが即効性のあるものはごく稀だ。女はそれを知らないのかもしれない。
 彼女は男を殺すことができる。女が生きた村は死に絶えた。もはや報復を恐れる必要もない。それは既に為されているのだから。あとは自分の生を諦めるだけでいい。たったそれだけで、一人のラケディア市民を葬ることができる。
「何を入れたかは知らないが、すぐに回る毒は滅多にない。効果を知りたければ数刻後に見に来い」
 舌は異常を感じなかった。無味の毒があるだろうか。鼻が利けば分かりやすいものの、この臭気のただ中ではそれも難しかった。頼りの嗅覚はとうに麻痺していた
 ——もしこれを意図したのならば、この女はますます素晴らしい。
 彼は心内密かな賞賛を送る。果敢であることは市民の美徳であり、女はその片鱗を示していると感じたからだ。
「毒など決して」
「では何を? 何か望みがあるのか」
 目を上げて女を眺める。夕日を背に受けて黒塗りとなったその表情は、逆光の元にあるリュクルスからは伺い知れない。普段の彼であれば、このような位置取りは決してしなかった。しかし今は、それでよいとも思う。
 問いを受けて女は言った。女神アポリアの名を受け継ぐ女は。
「燃やして下さい。戦士様」
「何を?」
それを」
 彼女の腕が、指が、部屋の隅を指さす。

 そこには折り重なった肉の塊が二つ。それは腐臭をまき散らす。
 先刻彼がそこに退かした死体が。

「おれが? なぜ」
「ラケディアの戦士様がなさったことです。ですから同じく戦士様が最後までなさってください」
「何日経つ?」
「三日です」
「そうか」
 リュクルスの〝隊列〟が清めの仕事に出たのと同じ頃合い。
 恐らく他の隊列の者がそれを行った。誇らしいことである。ラケディアの安寧を支える偉大な行為を市民達は為した。ただし、欲を言えば、より効果的に為せたはずだ。数人は生かしておくべきだった。全員を鏖殺してしまえば恐怖は伝わらない。共同体の威光を、最大の恐れを以て語り継ぐ者達が居なくなってしまう。この痩せこけた女一人では意味がない。
「おまえは恐れないのか」
「はい」

 ——このような女をこそ殺しておくべきだった。隊列の友は。

「なぜ」
「そうあるように定められていたからです」
 紛れもなく不意打ちだった。
 女は言葉で彼を殺めようとしている。青年が今、最も言われたくない言葉を、女は的確に投げかけたのだ。
 彼は即座に剣をたぐり寄せた。

 ——従え! 石の如きリュクルス! 声に従え!

 ——声に? 声! おれはこの忌々しい声によって全てを失った! それは定められていたのか? おれは尽くした。精一杯、全てを捧げた。ラケディアに! 全てを。そして今、おれは何もかも失って、隷民の村の小屋の中で味のしない粥を啜っている。

 青年は〝大隊列〟を指揮するはずだった。エイレーネと交わるはずだった。執政官アルカンとしてラケディアをより善い方向へ導くはずだった。
 誰もが男の名を憧れを込めて呼ぶ。そうあるべきだった。石の如きリュクルス。英雄テセウスの子。そして彼の子は誇らしげに、高らかに名乗るはずだった。我こそは英雄リュクルスの子、と!

「誰が定めた!」
 立ち上がり剣を抜く。これまでの短い生の中で一度たりとも抱いたことのない感情に、今、男は支配されつつある。殺意という。
「ラケディアの戦士様。それは分かりません」
「誰が定めたか分からない? ならばなぜそう言える。〝定められていた〟など!」
 もはや剣すらもどかしい。精強な戦士の腕は、この痩せ細った娘を素手で折ることができる。その細首を。小枝のごとく。

 ——ラケディアはおまえの不忠を見抜く! 私欲の者! 恥ずべき者!
 声を振り切り、リュクルスは少女の首に手を伸ばす。

 触れる寸前、彼女は言った。
「——そう信じるからです」

 ◆
 
 日は暮れた。
 村の小屋全てに火をかけるのは案外骨が折れる。夏の湿気は火勢を鈍らせる。ときには枝を集め、種火を作り、辛抱強く燃え移るのを待つ。
 女はかいがいしく働いた。肝心の枝を拾い集めたのはおおかた彼女だ。その甲斐あって、全てが順調に燃え上がる。腐肉の焼ける匂いは青年の腹を刺激する。を。
 女は地面に座り込んで、炎の波を眺めていた。脇には羊を従えて。
 リュクルスが選んだ子羊は誰にでも懐く。出会ったばかりというのに、女の背に、あるいは剥き出しの腿に、性懲りもなく頭突きを喰らわせている。
 それはある種微笑ましい光景とさえいえた。夏の夜、焚火を前に、少女と羊が戯れている。

「アポリア」
「はい」
 即答は心地いい。
「おまえの親はどの小屋に居た?」
「戦士様がいらしたところに」
 リュクルスが部屋の隅に退かした二つのこそが、この女を作り出したのだ。それを知ってなお、彼に特段の感慨はない。男と女が交わり新たな男と女が産まれる。そしてやがて死ぬ。それは一個のありふれた現象に過ぎない。
「なるほど。それで、おまえはどうする? まだ火も盛りだ。しばらくは止まない」
 槍先で燃え上がる小屋を指す。少女が数日前まで家族とともに住んだであろう辺りを。
「分かりません」
「自分でやるのが難しければ、おれがやってもいい」
「それはあなた様がお決め下さい。ラケディアの戦士様」
 アポリアの手は依然羊をなで続ける。節操なく愛想を振りまく畜生は、すっかり女に籠絡されてしまった。足を折りたたみ、女の膝に頭を預けて。
 ——薄情なやつだ。

 ここでおれがすべきことは何か。ラケディアのために為せる奉仕は何か。
 そうリュクルスは自問する。
 果断であるべきだ。旅の目的は定まっているのだから、為すべきことは明白であるはず。青年はラケディア、麗しの都の市民だ。共同体の安寧のためにこそ、その生はある。たとえ棄てられたとて。
 佩剣の刃はそれほど鋭利ではない。だが、この娘ほどの薄い肉塊であれば、青年の膂力りょりょくは難なく切り分けるだろう。
 女はここで死ぬ。彼が手を下そうとも下さずとも、いずれ。後ろ盾を持たぬ隷民の少女一人、焼け野に生き延びるなど不可能だからだ。ならば腐臭漂う屍を野にさらすよりも、親と共に炎の中で灰となるほうがまだましであろう。そう彼は考えた。

 青年は、剣の柄に両手をかけて身体を限界までねじり上げる。反発する腹と背の筋肉は、女の頭を綺麗に吹き飛ばしてくれるだろう。
 彼女は苦しまない。

 ——価値なき者! 卑怯なリュクルス! 頭を垂れよ!
「声」はもはや友である。
 価値なく、卑怯で、自己愛に満ちていたリュクルス。だが棄てられたとてラケディアに尽くさなければならない。全てを捧げなければならない。

 ——膝を屈せよ! 地に這えよ! 頭を垂れよ!
 不意に女が振り返り、彼を視た。見上げた。青い目で。火が起こした風に揺れてくすんだ金髪が浮き上がる。首が見えた。枯れ枝のような。

 ——頭を垂れよ! 宿を乞え! おまえの宿を!
 刹那のそれはいかずちのごとく在った。声などではない。リュクルスの脳髄をそれは刺しつくした。それは黒髪に覆われた頭蓋の内を容赦なく抉り、瞬間意識を刈り取った。

「——戦士様?」
「……なんだ」
 剣を取り落とし地に膝を屈する男に、女——アポリアは静かに語りかけた。矮小な隷民の娘が猛きラケディアの市民に。あたかも女神のように。

「では、そう定められていたのです。——〝物語〟に」

 ◆

「おまえは巫女か?」
 隷民の娘に神が下るなどありえないことだ。だが、もし仮にこの女が神々いずれかの巫女だとすれば、それを害した者は永遠に呪われる。
 猛き戦の神マヌ、詩と運命の女神アポリア、雷と理の神ユリス、美と呪詛の女神エル。天上に住まう神々の意を受け限生の者ひとを導く巫女は、誇り高き自由民の娘であるはずだ。リュクルスは常識に従いそう考えたが確信には到らない。神の思惑は図りがたいものだからだ。
「いいえ、戦士様」
「では誰に聞いた。——〝物語〟などと。おれは天上の武勇名高きマヌ神の名にかけて、おまえの言葉を知らない。女神アポリアは糸を紡がれる方だ。アポリアは糸紡ぎ未来を創造される。予め拵えられた物語などない」
「母から学びました。——私たちイリスの民はそれを代々受け継ぎます」
「おまえたちの群れはイリスと?」
「はい。遙か昔、北からこの地に流れ着いた民です」
 女の確固たる口ぶりに嘘はない。それは明らかに言い伝えられたことだろう。
 三日、腐りゆく両親の死体の中で一人佇みながら、この女は正気を保った。あるいは既に狂った後なのか。
 ——もし気が確かならば、ますますこの女は素晴らしい。ラケディアに生まれれば〝隊列〟のしかるべき男達みなが胎を望んだであろうほどに逞しい。
「私たちの生は全て、あらかじめ一篇の〝物語〟の中に描かれていると。その〝物語〟は既に書き終えられていると。ですから、私たちは、もう定まっています
「ならば、おれが今、剣を再び握り、ラケディアに害為すおまえを斬っても?」
「はい。そう在るならば、そう定められていたのだと……思います」
 麗しの都ラケディアはこの惰弱な民を足下に組み敷いてペルピネの地を支配した。猛きマヌ神の子アルトクレスはいとも簡単にイリスなる隷民どもを蹴散らしただろう。それは当然だ。全てを〝定まった〟と済ますのは臆病者の方便に過ぎないからだ。

 ——いや! それは涜神か。
 リュクルスは即座に思い直す。神々の思惑は人知を超えることに思い至ったがゆえに。
 まずは尋ねるべきだ。イリスの神の名を。その方と猛きマヌ神の関わりを知らなければ、青年の思考はマヌ神の名誉を汚しかねない。
 
「それで、御名は? 〝物語〟を描かれたという、その方の御名は?」
 アポリアが浮かべた笑みは捉えがたく、リュクルスの背筋を引き締めた。
「御名は持たれません」
「おまえは気狂いか? 御名なき神などありようがない。隷民の戯言だ」
「いいえ。むしろ気が狂わぬようにと、〝あの方〟は哀れな者たちに——私たちに〝物語〟の存在を教えて下さいました」
「おまえたち隷民どもは、その邪説を真に受けたがゆえに今こうして我らに奉仕している。おまえの神とやらはおまえを助けたか? そこで焼き上げられている者達を!」
 リュクルスは剣先を炎の方へ向け叫ぶ。大声を上げねば彼の方が正気を保てない。隷民の死に損ないが吐いた戯れ言にラケディアの戦士がいきり立つ。これは馬鹿げたことだと理解しながら、驚くほどに心は揺れていた。
「〝物語〟は私を救って下さいました」
「救われた? 見ろ! 共同体の栄えある戦士達はおまえ達怯懦の民を一人残らず殺したぞ!」
「ラケディアの戦士様。私たちイリスの民は常に小突かれ、支配され、殺されます。でも、それを耐えます。そして心の中に憎しみはありません」
「おれにもか? 今からおまえを殺す、このラケディアの戦士にも、おまえは恨みを抱かないか? 死の瞬間まで」

 リュクルスの忍耐は限界に達した。
 ——この女はラケディアを侮辱した。共同体市民が為してきた不断の鍛錬を。
 違う! 違う! そうではない。この女は侮辱した。おれの献身を! 
 全てが定められていたというのならば、おれのこの有様は一体なんだ!

 地に刺し立てた槍を荒々しく抜く。一突きで事は済む。彼はラケディアの市民は義務を果たす。先ほど邪魔立てした忌まわしい「声」はもはや間に合わない。女の身体を外すことはない。腰を屈め、穂先を突き立てるのみ。じっと狙いを定めて。

 ——響く声に従えよ。
 石をかねに変えよ。
 汝、定められたる者よ。
 
 耳元に囁かれる「声」の音色の中に、刹那、彼の瞳はそれを捉えた。
 女の顫動を。粗い息を。きつく結ばれた口元を。盛大に燃えさかる炎の橙に照らされて血のように赤らんだ横顔を。

 その有様に青年は見覚えがある。女は明らかに恐れているのだ。恐れている! 
 死を!

「恐ろしいのか! おまえの神はどうした? 〝物語〟は? おれはおまえを串刺す。おまえは〝物語〟とやらに縋り、穂先を受け入れるか! それとも恐れるか?」

 ——醜悪なことをしている。おれは誇りある共同体の市民だ。殺しは奉仕だ。それを楽しみはしない。しないはずだ!

「怖いですっ! 怖い!」
「ならば……」

 きつく閉じられていたはずの、少女の瞼が見開かれる。青い。アポリアの双眸は確かにリュクルスを射貫いた。
 決然と。

「——それでも、いただいた〝物語〟を、私は受け入れます!」

 ◆

 アポリア。
 その名は女神のものではない。流浪の民イリスの言葉において、その意は以下の通りである。解をもちえぬ謎、と。
 故地を追われ彷徨い、小突かれ、支配され、戯れに殺される哀れな民のか細い祈り、あるいは慰めの願いは、ここに一つの転機を得た。

 死すべき矮小な隷民の娘は、光輝あるラケディアの戦士と出会った。
 それは在るべきように在った。