第1話 ほのくらき燈火をけすことなく
2026/06/09 14:16 公開
「少々」値の張る、芸能人御用達のレストランの個室。
わたしはなんとか笑顔を取り繕いながら、いつもよりワインをハイペースで飲んでいた。深みのあるボルドーのワンピースはこの間買ったばかりのもの。試着したら、お世辞だろうけれど三沢君がとても褒めてくれたから買ったんだ。腕にはアナトールさんに、初対面で突然もらってしまったワンオフの腕時計。本当に値段のつきようがない、新進気鋭のブランドのシークレットどころじゃないモノを貰ってしまったからには何らかの誠意がいるだろう。わたしにはきちんと仕事に繋げる義務がある、そう思ってセッティングした場は最初は美丈夫達と美女が和やかに話し始めていい雰囲気だった。いまや過去形になってしまったけれど。
最初皆にこやかに笑っていたのが嘘みたい。わたしが由利さんを、古くからの友人で大学の後輩で、仲良く週刊誌に撮られた中で、そして「この人を見よ」の作者だと紹介したのが始まりだった。男性四人が、「解釈違い」どころか親の仇くらいの勢いで喧嘩を売りはじめたんだ。喧嘩を売るっていってもね、表面上は笑ってるんだよ。猛獣みたいな笑顔で。しかも売られた側の由利さんも真正面からその喧嘩を買っている始末だし。
弁明させてもらうと、この場をセッティングしたホストのわたしがやるべきことは、場を収める事だとわかっていた。わたしなりに努力したよ。時計の話を振ってみたり、ワインの追加を申し出てみたりして。それも全て裏目に出たみたいで火に油を注いでしまった。
だけど、そもそも接点がなかったはずのこの五人に何の因縁がある? 何が理由で火花を散らして、今にも由利さんに掴みかかりそうな勢いで敵意を剥き出しにしてるのか、わからないとどうしようもないじゃないか。わたしには何にも理解ができなかったんだ。最初は由利さんが書いた小説の主人公の、「グロワス」の解釈違いの話だった。それだけならまだわかる。ただ、彼らはわたしに聞かせたくないみたいに、早々に知らない言語で話し始めたんだ。フランス語に似ているような気がするけど、フランス語じゃない。固有名詞だけは聞き取れた。「この人を見よ」に出てくる名前に響きがよく似ていて、その前の皆の会話にも何度も何度も出ていたからだ。
「グロワス」、と。
アナトールさんがわたしに伝えた時計の名前だって「グロワス」だ。彼らがその名前に並々ならぬ情を抱いているのは、鈍いわたしでもわかる。そして彼らと話している時、彼らはわたしを通り越して別の誰かを見ているときがある。過去の恋人でも重ねてるんじゃないかと思ったくらいの熱い視線。そうしたピースを拾い集めて考えると、彼らは「わたし」と「グロワス」を同一視しているんじゃないのかと、疑ってしまう。
そんな事を考えてしまうわたしがおかしいともわかっている。そもそも、「この人を見よ」の主人公とわたしに何の関係があるというんだ? 誰もわたしに「貴女はグロワスです」なんて言ってもいないのに、わたしの頭はおかしくなってしまったに違いない。
最終的に、場を収める事もできず無力で惨めなわたしはただただ胃袋にワインを流し込む一つの有機体と化していた。
さて有機体にも限界がある。ギスギスとした空気のなか青い顔で「ごめん、ちょっと」と一声断りを入れ、足元をふらつかせながらトイレに駆け込んだ。便器の前にしゃがみ込み、胸の奥からこみ上げてくる酸の声に従って強かに吐く。
酒のせいでもあるが、そのせいだけじゃない。気持ち悪い。みんな、わたしをおいて、全員が全員理由のわからない話を、聞いたことのない言語でしている。
みんなが楽しくあってほしいと思ってセッティングしても、わたしはいつもそうだ! わたしがなにかすれば、全部が全部悪い方に回っていく。わたしに求められていることは、与えられた役割以上のことは何もしないことなのか。じゃあ、その役割を抜いたらわたしは必要な人間なのか? 百歩譲ってわたしの身体には「女体」の価値があったとして、思考するわたしを誰も求めていないのではないか?
その思考が行き着く先はいつもの結論だ──「わたし」の思考も自我も何もかも、存在してもしなくても一切の意味がないならば、体ごとなくしてしまって何が悪い? 今ここで「わたし」を終わらせて何が悪い? と馴染み深い「アイツ」が現れる。
いつだって、わたしが一人になった瞬間に。人と一緒にいても、猛烈に相手との距離を感じた瞬間に現れるのだ。何もかもを捨てて楽になりたい、そのために道はもっとあるはずなのに「アイツ」が顔を出している間は、ベランダとそこから見下ろして見た遠い地面ばかりが浮かんでくる。「わたし」なんて不要だと囁く「アイツ」の声から耳を塞ぐために、わたしは毎晩アルパカに縋っている。
今日は、そんな夜とは無関係の楽しい夜になって欲しかったのに。
便器を前に肩で激しく息をしながら、涙目でひたすら気持ち悪さに耐える。
生理的な涙であって、辛くて泣いている訳じゃない、と自分自身に虚勢を張った。立ち上がれなくなりそうだった。
どうにかトイレから出た所で鞠臣君が待っていた。わたしの様子を心配して待っていてくれてたというのだから、本当にいい子だと思う。遠慮がちに背中を擦ってくれた彼に、どうにか笑みを返せたと信じている。
彼が言うところによれば、わたしがトイレに立ったのを切っ掛けに皆少し冷静になって落ち着いた、らしい。実際席に戻ってみれば先程までの雰囲気よりはマシになっていた。口々に心配の声をかけられて少しばかり気まずかったけれど、さっきよりはマシ。「大丈夫、大丈夫」と繰り返し伝えては自分にもその言葉を言い聞かせる。
その後、レストランを出てからどうやって帰ったかの記憶が曖昧だった。
押し切られる形で鞠臣君に送ってもらったのは覚えている。まあ、酒気混じりの息を吐く女を一人で帰すのは彼の流儀に反したんだろう。他の皆も心配して一緒に送っていくと申し出てくれた。ありがたいね。流石に申し訳ないから断ったんだけど皆納得のいかなさそうな顔だった。
マンションの前で鞠臣君と別れて、部屋に入ってからは雑にワンピースを脱ぎ捨てた。気合を入れる為につけていったお気に入りの指輪と時計を外してトレーに置いて、洗面台でベタつく化粧の残骸を落とす。何も体力的に疲れることなどしていないのに、酷く足が重い。なんとか足を動かしてのろのろとシャワーを浴び、湯に打たれながら黙々と身体を清めていく。シャワーを止め、目を瞑り、息を吐いた。
温かな湯を浴びていてもずっと、「アイツ」が現れて、頭の中でベランダへの道を指し示してくるのだ。まだ片付けも終わっていないから。まだ、やらなきゃいけないことが残っているから。そう言い訳をして今日に至るのに、今夜はさらに「もういいんじゃない」と柔らかく諦めの声がしている。一番恐ろしいのは、「アイツ」の声と同様に諦めの声もわたしの声であることだった。
入った時と同じようにのろのろと風呂場を出て、適当なTシャツとハーフパンツに着替える。髪の毛を乾かすのも億劫で、雑に髪にタオルを巻いて水気を吸わせる。次にわたしは久々にCDプレイヤーの電源をつけた。流し始めたのはクラシック音楽だ。ワーグナーの『愛の死』をエンドレスで流し始める。お気に入りの音楽を聞きながらアルパカの瓶を一本持ってきた。このもふもふの友とも永いお別れが近いと思うと少しさみしい。
時計の針は午後十一時を指していた。わたしは愛用の割れにくいグラスにとぷとぷとアルパカを注ぎ、今日で「締めくくる」つもりだった。
……でも中々、そうは行かない。スマホが鳴った。電話だ。取るかどうか悩んだものの、十コール過ぎても鳴り続ける電話に根負けして取ってしまった。鞠臣君の声がスマホから聞こえる。
「今からそっちに行きます」
「どうしたの? 忘れ物か何か?」
「姉さんと話をしたくて」
「もう遅いよ」
わたしの言葉を遮るように、スマホ越しに鞠臣君はびっくりするようなことを言った。
「もう玄関に来てます」
「え」
彼の声は少し掠れていて、いつもよりも低かった。インターホンの音が鳴る。電話越しからも同じ音が聞こえる。電話をつなげたままインターホンのボタンを押すと、ロビーに居る、スマホを耳に当てた鞠臣君の姿が映し出された。
インターホンからも、電話からも、同じ声が聞こえる。
「姉さん、開けて」
唇を強く噛み締めた彼の表情には、鬼気迫るものが滲んでいた。
深夜に男を部屋に上げることの是非と、親戚を追い返すことの是非。色々考えないといけないはずなのに、わたしはあまり悩まないで解錠のボタンを押した。
何かあったとしても不利益を被るのはわたしだろうから。ならまあ……どうなってもいいかなって。投げやりさの滲むひどく凪いだ気持ちで、最後に彼と話すくらいの時間があってもいいかと思った。
◆ ◆ ◆
さて、鞠臣君が部屋に上がってからのことはダイジェストで話そう。
思えば、彼はだいぶ覚悟の決まった目をしていた。
部屋に入ってソファを勧めようとした瞬間、鞠臣君はわたしに「手、だして」って突然言ったんだ。
「手?」
「手」
「……なんで?」
「良いから。姉さん早く」
首を傾げながら、左手を差し出すと鞠臣君はわたしの手をそっと取った。で、いきなり左手首に手錠をかけてきたんだよね。おもちゃの手錠。呆気にとられている間に、もう片方の手錠は鞠臣君の右手首に収まった。脳裏をよぎるのは週刊誌だ。ゴシップ記事を書くならとっておきの写真になってしまうくらいに絵面がヤバすぎる。わたしが週刊誌の記者だったら喜んで記事にするね。もしくは女性向けの過激な恋愛小説の一シーンに使えそう。つい現実逃避が捗ってしまうような絵面に目を丸くしていると、彼はそのまま切羽詰まった目のままわたしを射抜いて言うんだ。
「少し思うところがあって」とか。
「今夜は、俺寝ませんから」とか。
鞠臣君はとてもハンサムだし、少し掠れていつもより余裕のない声で言われたらね、腰砕けになる人も続出しちゃうと思うんだ。問題はこの相手役がわたしで、どうもロマンチックには程遠いことだろう。
何か傷つけるとか辱めるとか、そういう害意を持って来たんじゃないのはわかっている。わたしの髪がまだ乾かされていないのを見て、ドライヤーで丁寧に乾かしてくれさえした。
まあ乾かしてる間、彼は自分の手首の手錠を外してわたしの両手首にかけたんだけれど。それだけ目を瞑れば、鞠臣君はわたしが自分でやるよりもずっとずっと丁寧に乾かしてくれた。人に頭を触られるというのは存外気分がいい。しかもそれがよく知っている弟みたいな子だと思うと、年上としての振る舞いもつい忘れてしまう。髪を乾かしたあとも、彼はわたしにとても優しかった。手錠を外してくれることはなかったけど。じわじわと一枚一枚玉ねぎの皮を剥ぐようにして、最後は何も取り繕えない「わたし」だけが丸見えになってしまいそうで怖いくらいに、鞠臣君は優しかった。
優しくされると、わたしはまだ居ていいと錯覚してしまう。思わず、深くため息を吐いた。心の柔らかいところが締め付けられて、気を抜くと何もかもを彼にさらけ出してしまいそうな恐ろしさがあった。
ついでに年下の親戚の子に世話をさせたことに羞恥心も今更湧いてくる。アルパカでも飲まないとごまかせない、と思ったものの鞠臣君はさっきわたしが取り出したアルパカをさらりと元の場所に戻してしまったので目の前のテーブルにわが友はいない。お酒を理由にも出来ず、素面のまま彼の隣にいるのはなんだか気恥ずかしい。ソファに並んで座ってから、鞠臣君はじっとわたしを見るばかりだから余計に。
わたしは、彼の視線に耐えかねて唇を開いた。
「この手錠、どこで買ったの」
「駅前のあの店です」
彼が挙げたのは激安の殿堂を謳うペンギンマークの店だ。「そうなんだ」と何でもない相槌を打つ。手錠でいつもより少し距離が近いまま、その会話を切っ掛けにわたし達はぽつぽつと言葉を交わしはじめた。普段しないような話もした。例えば昔々わたしが出した本のこととか。
鞠臣君は今日のレストランで由利さんに盛大に喧嘩をふっかけていたのが嘘みたいに落ち着いていた。ふ、と会話が途切れたタイミングで、彼は一つ息を吐くと難しい顔をした。なにか言いづらいことを意を決して言おうとしているのが分かる。わたしの予想通り、彼は唇を開くと少しだけ震えた声で言った。
「俺達は、姉さんによく似た人を『知っている』んだ」
「……俺達?」
「そう。あの場にいた、姉さん以外の全員」
「それは、『この人を見よ』のグロワス十三世?」
「あの話のグロワス十三世とは似ても似つかないけど、グロワス十三世」
大真面目な顔で電波な話をされている、気がする。反応に困って曖昧な笑みを浮かべると、鞠臣君は真っ直ぐにわたしを見ながら唇を動かした。
「姉さんは彼に良く似ている。だけどあなたは……グロワス十三世ではない」
「……」
「学校に行けなくなった俺を救ってくれた、俺の姉さんだ。俺の」
彼の顔をつい見てしまった。目が、あった。さっきからずっと、彼はわたしの顔を見ていたのだから目があってしまうのは当然のこと。わたしは何かを言おうとして、何も言葉にすることが出来なかった。迷った末にふと視線を下に向ける。鞠臣君の手がわたしの手を撫で、おもちゃの手錠がカチャリと軽い音を立てる。大きい手だ。少し骨ばった、男の手。対してわたしの手は一回り以上小さい。彼がその気になれば、わたしの指を折ることなんて容易いだろう。
続けて「この人を見よ」のグロワスの事を考える。きっとグロワスの手は、わたしなんかよりも鞠臣君の方に近い骨ばった大きい手で、ヒロインたちを堂々と守れる男性の手をしているのだろう。精神面でもわたしがあの勇敢なグロワス陛下に似ているところなんて全くありはしないと思う。
なんだか、鞠臣君の「あの話のグロワスとは似ても似つかない」と言う言葉とレストランでの皆の様子を考えると、他にグロワスがいるみたいな言い方にも聞こえる。また別のグロワスがいて、そのグロワスとわたしはもしかしたらどこか臆病者で似てる所があるのかもしれない。それならちょっとだけ面白い。わたしが女じゃなくて男だったら、その別のグロワスとは友達に成れたのかも。「この人を見よ」のグロワスはきっと友達にはなれないだろうから。
……鞠臣君や皆の様子から、この電波な話を信じてしまいそうな自分は、相当に頭がおかしくなっている。
鞠臣君の手がわたしの手を撫でているのを止めもせず、わたしは益体のないことを考えていた。暫く無言の時間がわたしたちの間をとおりすぎた後、わたしは唇を動かす。思っていたよりずっと静かな声が唇から漏れて、自分でも少し驚いた。
「あなたはグロワスじゃないって言われて、嬉しく思うわたしは頭がおかしいかもしれない」
「姉さんじゃない、俺達の頭がおかしいんだ」
「そうかも」
ふ、と笑みがこぼれる。いずれにせよ彼が来たことで、今日は「その日」じゃないと思ってしまったからにはCDプレイヤーから流れている曲を止めるべきだろう。
わたしは鞠臣君に一言声をかけて立ち上がり、音楽を止めた。
◆ ◆ ◆
三時間くらいは寝たと思う。朝日が登ってきて眩しいな、なんて思いながら瞼を閉じてその先の記憶がない。ソファで寝落ちていたはずが、ベッドに運ばれていたらしい。ついでに言えば背中越しと、自分の腹に置かれた腕から感じる他人の体温は温くて劇薬に思えた。人間は自分以外の温かいものを抱きしめたり抱きしめられたりすると幸せホルモンが出るって話を聞いたことがある。そうじゃなければ人間は群れを作れないだろうから、本能的に設定されている機能なんだろうな。
もぞ、と身動ぎすると背後から「おはようございます」と声が降ってきた。わたしを後ろから抱きしめるようにして目を瞑っていた鞠臣君は、ジャケットとジレは脱いでいたもののシャツはちゃんと着ていたしズボンもそのまま。わたしも着衣の乱れがないことを確認し、ほっと息をつく。
何かあったりなんかしたら、下川家のご両親に申し訳が立たないからね。……なお今のこの状況でも十分マズイとは思うのだけど、親戚ということで目をつぶってもらおう。
見れば手錠はついていなかった。まあ、わたしが暴れた所で彼からしたら赤子の手をひねるようなものだろうからいらないか。実際今、彼の腕はがっしりとわたしの腹に回されたままでびくともしない。何度も「大丈夫だから」と言い含めて離してもらう。人懐っこい大型犬を思い起こさせる様子で、名残惜しそうに彼の腕がわたしから離れた。目の下に隈が浮かんでいるのを見るに、眠れていないのだろう。入ってきた時に言っていた「今夜は寝ませんからね」を有言実行したに違いない。彼はそういう真面目さがある。
起き出して顔を洗う。時計を見れば午前九時ちょっと前。会社に欠勤の連絡を入れる。……まあ、わたしがいかなくても会社は回るから、支障はないんだけど罪悪感がある。
なんで遅刻じゃなく欠勤の連絡をしたかというと、加賀の叔母さんから連絡があったからだ。九時に迎えに来るって。ゴルフの打ちっぱなしに行こうって。見透かしたようなタイミングに鞠臣君に確認してみたら昨日の内に叔母さんに連絡していたらしい。用意周到すぎる。
さて嵐のようにやってきた加賀の叔母さんに連れられて、わたしは高級車の助手席に乗り込む。運転席から飛んでくる「で、鞠臣君とは何もなかったの?」の質問攻めをなんとか受け流しているうちに目的地についた。産業廃棄物を捨てれそうな山とかじゃなくて、ちゃんとゴルフの打ちっぱなし練習場だ。
ゴルフは、付き合いがあるだろうから、とわたしはなんとなく教わった事がある程度で腕は全然。加賀の叔母さんは趣味でもゴルフに行ってるお人だ。パワフルすぎて生き物としての強靭さが違いすぎると常々思う。
色々、話をした。本当に色々。身体を動かしているとね、段々余計なことを考える脳を黙らすことができて、最終的にでてくるのは取り繕えない本音なんだなって思う。
上手くやりたいけどやれない、とか。加賀の叔母さん夫婦みたいに、わたし自身が上手くやれない以上は社長を任せられる人を結婚相手に選んで引退すればいいのかな、でもそれは凄く凄く嫌だ、とか。
加賀の叔母さんに豪快に「会社を残せるなら社長は誰でもいいのよ、うちの旦那じゃなくて私が社長になったみたいに」とか「うちは見合い結婚だけど、まさか私が社長交代するなんて結婚した時だれも思ってないわよ~!」とか「代わってほしいならうちで代わってあげようか?」とか「そんな理由で結婚相手探すとかありえない! あと鞠臣君には絶対言うんじゃないわよ」とかバシバシ背を叩かれながら怒りながら言ってもらえて、まあ……正直、少しだけ気が楽になった。
大事なのは会社という箱だ。
わたしという個は、その箱を維持するために必要不可欠なパーツではない。必要不可欠なほど飛び抜けた能力があるわけでもない。
──ならば、代わりを立てたって良い。その考え方は大変、納得の行くものだった。
そして存外、わたしはわたしのことを否定しながらも否定していなかったんだなというのも分かって、心なしか気持ちが少し軽くなった気がした。
◆ ◆ ◆
家に帰ってから、わたしは昨日飲みそびれたアルパカの瓶を改めて開けた。
自分はできないから駄目だ、できないから意味がないんだ、器じゃないのに今社長の座にいるんだと苦しんでいるのは、多少なりともわたしは「女のわたしだって」「うまくできる」と思っていたからなんだ。
今は少しだけ違う。……多分だけど、今際の際の父からも嫁に行けと言われたけどきっと男だったら父は別の形でお前は社長じゃないって突きつけてきたに違いない。生育環境で育まれた価値観は男女で差があったとて、もしわたしが男であっても能力がついていかない結果はきっと違わないと思う。
──こんな妄想は全部タラレバだとわかっている。
だけど、なぜかわからないけど……もしわたしが男だったとしても、わたしの生来の性格と環境を考えると希死念慮に苛まれていたんじゃないかな、と不思議と納得してしまった。女の「わたし」しか持ち得ない苦しみはあれど、男の、例えば「ぼく」しか持ち得ない苦しみもきっとあったに違いない。わたしと同じで自分に優しくしてくれる人のことを好きになってしまうタイプだったら、真剣交際のつもりがパパ活のカモにされてて苦しんだりとかしてそう。
つらつらと益体のない思考を続けながら、ワインを飲み下す。自傷行為じみた飲み方以外をするのは久しぶりだ。ある種後ろ向きな思考実験である。「わたしがぼくだったとしても、うまくできるほどの能力はなかった」と思えば、気持ちは楽になった。
同時に、これは空想の男の話で、実在する男にはまた別にそれ以外の形で苦しみがあるんだろうけど、わたしにはわかりようがない。
わたしの苦しみは、わたしのものである事に変わりない。
依然として結婚するしないはずっとついて回るし、次には子供が欲しい欲しくないがついてくる。三十歳、女性。年齢一つとっても、人によっては「ちょうどいい」と言われ、人によっては「とうが立つ」と言われる。その言葉に「わたし」という思考する一つの人格は考慮されず、「女体」としての価値のみが取りざたされる。わたしの身体を、まるでわたしの意思は関係ないみたいに。
わたしは正直、結婚がこわい。薄っすらと男性全般を信じていない。女体として見られるのが嫌で嫌で仕方ない。結婚する相手が、わたしのことを思考する対等の人間として、わたしを見てくれる人かどうかなんてわからない。そう足踏みしている反面、世の中にあふれる恋愛せよ結婚せよ子を生み育てよ「女はそういうものだ」と背中を押す物語を見て育った身では、結婚がこわいなんて言う自分が普通じゃないみたいに思える。毎月の生理が来れば子供を産める身体としてのタイムリミットを否応なしに考えさせられるのが嫌で仕方ない。
一人で生きていくのは怖い。恋愛感情がないわけじゃないし過去に付き合った人もいる。……だけどそこから一歩進んで誰かと家族になると思うと怖い。自分を明け渡す行為と生殖が紐づいてしまうのが怖くてしかたない。
それに、わたしは環境から結婚を「断れない」状況になる事があると……「知って」いる。別にわたしにはそんな経験もなければ、知人でイヤイヤ結婚したようなお嬢様がいるわけでもないのに、大変なリアリティを持ってそうした状況がありうるのだと脳髄の芯に刻み込まれた恐怖が存在する。そしてわたしは、肉体の死を選ぶよりも、この断れない結婚を受けて精神の死を受容することを自分は「できてしまう」とも理解している。
息を吐く。わたしがこの身体を受け容れられる日が来なければ、恐怖はきっと消えてはくれない。そんな確信さえ、薄っすらと持っている。
──頭を振って、もう一口アルパカ印のワインを口にした。アルパカのラベルは今日もモフモフとしていてかわいらしい、と意味もなく撫でてみる。
……もふもふ、といえば。
過去に書いた本の事を思い出す。リチャードと羊。あの時書籍化したからわたしは「うまくできる」人間だと思ってしまったのかもしれない。
その経験が大いなる間違いだったのかも。だけどそれはわたしの認識が、大いなる間違いだっただけだ。……あの本は、間違いなんかじゃない。わたしは間違いを犯す人間かも知れないけど、わたしの書くものは間違いなんかじゃなかったと思いたい。
少し考えて、グラスに入っていたワインを飲み切るとわたしは立ち上がった。そもそも、上手くやれる人間だと期待されていない凡人なのだから、凡人なりにやりたいことをやってみたって良いじゃないか。アルコールの力もあって、わたしは少々気が大きくなっていた。
リビングの机にノートパソコンを広げる。いつも軽い調べ物程度にしか使っていないパソコンを。
わたしは自分に言い聞かせるように唇を動かした。
「ちょっとやってみるだけだから……」
ブン……とパソコンが軽い唸り声を上げるのを待って、わたしはメモ帳アプリを立ち上げた。アイディア出し程度、簡単なプロット程度ならメモ帳でいい。
そして、頭の中にある思いつきの話を、端からメモ帳に綴っていく。由利さんが書いてた「この人を見よ」を思い浮かべる。異世界転生モノで、主人公である王は王冠に負けないくらいキラキラと輝く、目を引く存在だ。英雄というに相応しい。堂々と、自信満々に世をいい方向に引っ張っていく存在。
わたしなら、どう書く?
まず、わたしは自信満々に国を率いる男なんか想像できない。想像できるとすれば、自分の道をいくと決めても、それでもずっと迷って、ためらって、何度も足を止めてしまうような男だ。凡庸で臆病者で、他人を信じる勇気も欠片しかない、どこまでも凡人の王しか。
でも王として育ってきたのであれば、「自分は特別な存在だ」と言われて育ってきている訳で、凡庸ではいられないかも。というか臆病な男だと王位継承を拒否するか、王宮内の政治で淘汰されている可能性まである……ならば異世界転生とはいいつつ、記憶を取り戻すのは青年時代になってからにしよう。それまでは自分を英雄だと思って、若さと立場で自分は何でもできると息巻いていた、無鉄砲な王子にしてしまおう。
では記憶のもとになる、凡庸で臆病者の魂をどこから連れてくるか。これは趣味のお話なんだし、いっそ「わたし」にしよう。
どこにでもいる凡庸な女が、社長なんて器じゃない女が、会社を存続させる為にと見合いで結婚を決めた。でもこれは凡庸で臆病でぐずぐずと覚悟を決めきれない女だから、式を控えているにも関わらず逃げ出したくて仕方がない。結婚相手の言葉の端々から「この人と一緒になったらわたしはわたしじゃなくなるんだな」というのが窺い知れて嫌になってしまうんだ。
ある日、女は深酒の結果ベランダから落ちて死ぬ。自死か飲みすぎての事故かは、誰にもわからない。ただ……死の瞬間、彼女は「これで楽になれる」と思ったのは確かだろうな。なのに王様に転生してしまっていた。あれほど羨んだ男という性別になったのに全然嬉しくない。
状況を見ると、ほっとくと革命を起こされて自分の命も危うそうだな、というのがわかってしまうことにしよう。緊張感漂う王室で、生き延びるのに精一杯で、自分のできることを凡人なりに頑張るんだけど凡人だから挫折しまくる。挫折しまくりながら、それでも自分と、自分に嫁がされて運命共同体にさせられたヒロインを守らなくちゃと青い顔で頑張っている。名君にはならないだろうな。笑ってしまうくらい地味な話だ。
地獄から逃げ出せたはずの女は、別の世界の地獄に男として生きる。
「ぼく」になった「わたし」が取りそうな行動を書いていく。「ぼく」が嫌がりそうな事を書いていく。「わたし」が「ぼく」になったところで変わらず苦しみそうなことを書いていく。そして願わくば、男の体を持つ「ぼく」に取ってほしい行動を挙げていった。追い詰められたら火事場の馬鹿力で奮起してくれないかな、勇気を出したらきっと彼ならできるんじゃないかなと祈りを込めるように、彼の行動を箇条書きで書いていく。
あらかたプロット、もとい思いつきと全体の話の流れが出来上がった所でキーボードを叩いていた手を止めた。
名前をどうしよう。考えてなかった。アルパカを一口飲み下し、首を傾げて少し考える。
……革命といえばフランス革命。フランス王室の女性といえばアントワネットだ。ここから男性名っぽくして「アントワン」にしよう。アントワン三世。三なのはわたしが三代目だから。
アントワン三世という凡人が、凡人なりに「うまくやる」話を、わたしは書きたい。わたしの脳内に巣食ってしまったこの男を、「ぼく」を、わたしは彼が安らかに眠れるまでを書いてあげたい。
「わたし」という傷んだ葦が「ぼく」という仄暗き燈火(ともしび)になり、その火が消えず燃え続けたならば。
一人が、一人分の力を目一杯使い果たして死ねたなら。
それは、希望のある話だ。
わたしは、手元のアルパカで水分補給をしながら、酩酊感に任せてキーボードを叩き続けた。
◆ ◆ ◆
プロットだけじゃなくその日は一話の初稿まで出来てしまった。
睡眠時間はひどいことになっている。だけども、久々に心の底から楽しいと思える夜だった。
隈をどうにか隠しながら、いつものように髪を束ね「女社長」の格好をして家を出る。出社して、幾つか打ち合わせをし、決裁が必要な書類に判を押した。わたしの役割は「会社が潰れないようにする人」で、「なにか起きた時に責任を取る人」で、「対外的にはこの会社で一番偉い人」の役だ。この役割は二十四時間ついて回る。誰かはこの役割を負わなくてはならない代わりに、役員報酬という形で生活が保証される。……いつかは、わたしは決めなくてはならない。加賀の叔母さんに相談するかどうかを。
座り心地の良い革張りの椅子に背を預け、ふ、とため息を吐く。
一日がいつもよりずっと長く感じられた。
◆ ◆ ◆
本屋に寄ってから帰宅して、雑に夕飯を終わらせるとわたしは早速一話の初稿を見直した。
誤字脱字もひどいし、文章が飛んでる所も多々あるひどいものだ。それでも、荒削りでも熱量は確かにあった。
この初稿は骨だ。ここから手を入れて、肉付けして、余剰な部分を削いで、形を整えていくとしてもわたしが書きたかった部分は変わらない。
この凡人の王が生まれて、ただ生きて、そして死ぬまでを見てほしい。
あわよくば何かを遺して死ぬ様をと思うけれど、それは結果論だ。凡人だって何かを遺せると必死で訴える夢物語のご都合主義、陳腐な物語だと言われても構わない。わたしは、わたしのためにこのみっともない「ぼく」を書き上げたいと強く望んでいた。
わたしはアルパカの瓶を開けて今日買ってきた本を読み始める。世界観にあわない描写がないか、より当時の価値観として望ましいと思われる行動や言動がなにか、プロットに書き込んでいった。
それだけでも結構な時間がかかった。
プロットに書き加えた大きな変更点は、ヒロインの数だ。異世界転生もののお約束はハーレム展開であることと、わたしのプロットを見ると王室の血を絶やさぬ為にも正室以外に側室がいる設定はしっくりきたので、王妃以外に三人のヒロインを設定した。モデルはその、ロマンス詐欺なんだと思うけど、最近知り合った酷くわたしに優しい美丈夫達。鞠臣君を含むのは一瞬躊躇ったが、前に問答無用で手錠をはめてきた事を思えばモデルにさせてもらうくらいはいいだろう。
というかあのレストランでの一幕を考えてみて、彼らをモデルにすることの罪悪感は少し薄まった。あの夜わたしはとても傷ついたんだ。作中でヒロインにするくらい許してほしい。
さて、彼らはとても愛情深く見える。それはわたしと仲良くなることでメリットを感じているからだ。
ヒロインたちは少し違う。一夫多妻制の妻として、召し上げられた立場上はアントワン三世と仲良くすることが当然になってしまう。女の人権が現代日本よりもずっとない時代に、妃たるべく教育されてきた彼女らにとって「当然」の行動だ。現代日本の女の精神を受け継いだ「ぼく」には妃達の行動を「彼女達がそうするべきと学んでそうしているもの」と理解したうえで、愛情ではないかもしれないと理解したうえで、ちゃんと彼女らとは人間として対等に接してほしい。
「ぼく」はきっとぐずぐずと悩むと思う。現代日本の感覚では同時並行の交際なんて相手を対等に扱っていると思えない「浮気」だからだ。
じゃあ一人だけ選べば? と考えるものの、まず「ぼく」は凡人だ。古くからの慣習でもあり、政略結婚としてのカードでもあり、凡人の王がイヤイヤ言っても止められるものではなさそうだよね。だから、「ぼく」はずっと悩む。諦めて、受け容れて、それでもずっと悩みながら彼女らとの距離を測っている。
なのに、アントワン三世ときたら! 彼女たち四人と結婚してしまったら最後、全員の心が欲しくて仕方なくなるんだ。
遠いいつかの「わたし」がベランダから落ちなかったら迎えていたのと同じ境遇の彼女たち。彼女たちの人生を搾取した罪を請いながら、一番近くにいる「家族」に自分を愛してほしいと傲慢に願ってしまう。孤独に耐えられる強靭な精神なんかじゃない、凡人の感性が染み付いているアントワン三世は、一番難しい相手からの愛なんてものが欲しくてたまらないんだ。また、苦しむ。彼はずっとわたしのプロットの中で苦しんでいる。
アルパカは偉大だ。赤い液体を飲み下し、第一話に手を入れた後に第二話、第三話と書き連ねていく。
どんどん筆が乗っていった。
そしてわたしは翌日も、翌々日も、数日ずっと家にこもって取り憑かれたように書き続けた。
会社には「緊急のことがあれば連絡して」と伝えて在宅勤務という扱いにした。たちの悪い感染症の名残でリモートワークの体制は整っていたからね。たまに秘書課の人からチャットがきて幾つか電話かメールの対応をすればそれで終わりだ。わたしは日中もただただ、書き続けた。
当然、そうすると切りが良いところまで物語が書き終わるタイミングがある。
深夜三時。わたしは由利さんが投稿していた「ノベルライターになろう」にアカウントを作った。
わたしのための小説だと言ったけれど、わたしは……わたしは、「ぼく」を。アントワン三世を誰かに見てほしかったし、あわよくば愛してほしかった。
ねえ、この人が、こんなに頑張っているのを見てあげてよ。
この人を、見てよ。
祈りを込めた話、わたしが救われたい話なのだからとタイトルは聖書から引用した。出来上がった部分を頭から最後まで通読し、誤字脱字を確認して、わたしは見様見真似の自己満足でしかない異世界転生モノの話を「ノベルライターになろう」の投稿画面にコピペする。あらすじもざっくりと書いて、震える手でマウスを動かし、えいやっと投稿ボタンを押した。
画面の中で『投稿しました!』とポップが出る。作品ページを見れば、当たり前のことだけど「この人を見よ」と同じあの小説投稿サイトのページに、自分のお話が掲載されていた。心臓がずっとうるさかった。
グラスに残っていたアルパカワインを飲みきって、わたしはよれよれと寝室に向かう。流石に深夜三時は体力的に厳しい。倒れ込むようにベッドに寝転がれば、自分の身体がどこまでもシーツに沈んでいく錯覚さえする。
あっという間に瞼が開けられなくなる。わたしは睡眠負債が限界まで来ていたのか、朝まで泥のように眠った。
翌朝、起きてからわたしはそっと昨日投稿した作品の様子を見た。パソコンを立ち上げなくても、スマホからでも見れてしまう。作品ページは当然のように昨日わたしが投稿した内容のままだ。
違うのは、アクセス解析ページのPV数。ページビュー数。つまり、この作品が人に読まれた回数。
8PVだった。8PV!
じわじわとこみ上げる嬉しさに、視界が段々滲んでいく。涙が瞳から溢れ、頬を伝って床に落ちていった。
読んでくれる人がいた。アントワン三世の、わたしの話を読んでくれてありがとう。見てくれて、ありがとう。
涙を拭い、わたしはちょっと悩んだ末に作品ページのスクショを撮った。
大げさかもしれないけど、わたしは……わたしは久しぶりに、この身体とは無関係の「わたし」という存在を認めてもらえた気がしたんだ。読者からすればわたしのリアルでの性別も、立場も、年齢も、なにもかも関係ない。
匿名の世界、文字だけの世界で、作者であるわたしが存在することが、嬉しくてしょうがなかった。
作品ページを前にわたしは息を吐く。
太宰治が「夏物の着物用の布を貰ったからそれまでは生きなきゃと思った」みたいな文章を残しているよね。あれと同じで、わたしもこの物語をちゃんと完結させなきゃなと強く思ったよ。
プロットを考えると、ペースが落ちなければ完結は冬かな。
その頃には、この部屋の整理ももう少し進んでいると思う。
もう一度スクショを見る。わたし以外にこの作品ページのスクショを撮る人間なんていないだろう。
部屋で一人、朝からスマホ画面を見て泣いてる女ってきっと傍から見たら怖いんだろうなとふと思ってちょっと笑った。
でもね、それくらいとても嬉しかったんだ。何度でも言うよ。
わたしは次の話をどのシーンから始めたらいいかなと考えながら、いつもより少しだけ浮き足立つ心で久しぶりに女社長の皮を被っていった。
今日は出社日。待っている仕事は特に気が滅入る取引先との会合だったのに普段よりも化粧をするのが面倒じゃなかった。隈はどうしようもないからいつものようにコンシーラーで少し誤魔化すことにする。部屋着を脱ぎ、シンプルなネイビーのパンツスーツを手に取る。インナーは白のシルクブラウス。手首にはタンク ルイ カルティエ。長方形のゴールドケースに、文字盤の上の針とリューズにあしらわれているサファイアがお揃いの深い青色で可愛いんだ。ブルースティール針っていいよね。
玄関を出る前に最後、姿見で最終確認をする。……特筆することのない、いつものわたしだ。別に何か、小説を一つ書いて投稿したところでわたしの人生が劇的に変わるなんてことはない。依然として会社のことも、自分のことも、わたしは解放されることはなく「アイツ」とも縁を切れていない。
それでも。
投稿した作品──「ほのくらき燈火をけすことなく」と題した「物語」が、わたしの脳髄から指先を通して出力され、いま、ネット上に存在すること。それを読んでくれた人がいたこと。
その事実だけで、わたしは少なくとも今日という日を凌ぐことができると根拠もなく思えたのは、確かだ。
コツコツとヒールの音を鳴らしながら会社への道を歩いていく。途中、ブブ、とバッグの中でスマホが震えた。信号待ちのタイミングで確認してみれば、三沢君と、アナトールさんと、島津君からそれぞれメッセージがどかどかと来ている。なんだかとても、圧を感じる。
おずおずと最初にきていた三沢君からのメッセージを開いてみる。ニコッと笑うデフォルメされたキャラクターのスタンプのあとに、笑ってないメッセージが見えた。
『社長、家事代行サービスにご興味ありませんか? 新しく展開しようと思っていて、モニターになってほしいんです』
その後に面談可能な日程の候補日が幾つか載っていた。
ううん、と思わず声が漏れる。……私は三沢君に若干の負い目を抱いている以上、なんやかんや受けてしまいそうな予感がする。彼が急に独立したのは、多少なりとも私のせいという自覚がある。丁度家事代行サービスはいらなくなると思って解約したところだったし、渡りに船といえば船だ。相手が三沢君というのを除けば何も問題がない。
少し考えた末、『とりあえず話だけは聞きましょう』と都合の良い日程を送った。即座に既読がついて、明後日彼がわたしのマンションにくる予定がついてしまった。
次にアナトールさんのメッセージを見る。
『日本支社ではジュエリーも取り扱おうと考えているのですが、ぜひ女性の視点からご意見を頂ければ幸いに存じます。あと「小グロワス」と対になる時計の試作品が出来ました。良ければ見に来られませんか』
正直、とても魅力的なお誘いだ。食いついてしまいそう。
それにわたしは結局あの会食で彼に仕事の渡りをつけることが出来なかったのだから、何らかの形で彼に仕事の面で協力できるのはこちらも気持ちの整理ができそうだ。アナトールさんに『私で良ければ』と添えながら日程の候補日を送る。秒で既読がついてスムーズに日程調整が終わった。
三沢君もアナトールさんも仕事が早い。レスポンスが早い人はビジネス上安心感もあるよね。……ビジネス、だよね? ちょっと怖いくらいに早い事に気づかないふりをしながら、私は最後に島津君からのメッセージを開いた。
『この間の会食のことをお詫びしたくてご連絡しました。もしお許しいただけるなら直接会ってお伝えしたいです。先輩のご都合いかがでしょうか』から始まる丁寧な謝罪の言葉に背筋が伸びる。
……うん、一番最初に由利さんに喧嘩売ったの、島津君だったもんね。これは同窓の身としても社会人としても、後輩の謝罪をきちんと受け取るべきだろう。
あっという間に、三人と会う予定が決まってしまった。タイミングについ首を傾げたものの、次の瞬間鞠臣君の顔がパッと浮かんだ。彼が三人に何か言ったにちがいない……何を言ったかは、考えないほうがいい気がする。
溜息を一つついて、バッグにスマホを戻す。気を取り直し、何回目かの青信号に変わるのを見て足を動かした。歩く。歩く。わたしの身体はここにある。いやになるほど。わたしは、実在する女として今日を耐え、夜を待ち、きっと今夜もパソコンの前に座ってしまうのだろうと、漠然とした展望に内心で苦笑した。もふもふの友と共にわたしはアントワン三世を、あの凡人を最後まで書いてしまうのだろう。
──帰宅後、何だかやけにページビュー数とコメントが増え、「この人を見よ」のパクリだと燃えていたと知るなんてこの時のわたしは思ってもみなかった。そして、着火源のユリス先生……由利さんのSNSアカウントで、「ほのくらき燈火をけすことなく」への真正面からの否定ポスト三十連投を見るとか、思ってもいなかった。
とても真っ直ぐな彼女の否定の言葉にわたしは凹みもせず、悲しみもしなかった。酷く静かに、ただ心の何処かでちらちらと失って久しい炎が、熱がくすぶり始める感覚。怒りか、怒りに似たなにかだ。わたしはわたしの「物語」を死なせたくない。彼女はこの作品の作者がわたしと分かっていて書いている。書いていて、わたしからの返答を待っている。確信に近い思い込みに突き動かされるように、わたしは作者近況ページに、「物語」について思うところを正直に書き連ねていった。
作者近況にアップしてから十分も経たず、スマホが震えた。由利さんからだ。「これから来たい」って。一も二もなくわたしは「いいよ、飲もう」と返した。
……まあ、その後は朝までずっと飲んで喋って飲んで喋ってと、大学生みたいな宅飲みをした。楽しかったよ。
由利さんは美人だから、何てことない仕草も様になる。「先輩、いつか一緒に海外旅行いきましょうよ」とアルコールでほんのり頬を赤く染めながら、彼女はグラスを持ってはにかんだ。同性のわたしでもドキドキしちゃう笑顔。嬉しそうに将来の話をするから、わたしもつられて笑って「それもいいね」なんて無責任に返した。彼女の言葉がわたしを縫い止めようとしてくれているのが嬉しかったよ。前に由利さんがうちに来た時よりもまた荷物が減ってるって、聡い彼女は分かっただろうから。
ふと、沈黙が下りたタイミングで由利さんが「ほのくらき燈火をけすことなく、か」と呟く。
「ん、何か気になる?」
「先輩は『ほのくらき燈火』ですよ」
由利さんは断言した。
戸惑う私を前に彼女は髪を揺らし、ふふ、と小さく笑みを浮かべた。つくづく何をしても様になる美女だ。
「先輩は私にとっての『燈火』です。だから……消えないでくださいね」
「……善処するよ」
頬の赤みを誤魔化すように私はワインを煽り、手慰みにボトルのラベルを撫でる。金色に箔押しされているアルパカの部分を。当然ながらわたしがいくら撫でた所で、アルパカは何も言わず、今日も静かに光っているだけだった。
(おわり)